間章 やがて夏へと向かう日々、わたしたちのまわりのいくつかのこと
また、はじまりの日。メルリィ・キータイトと《幸福の味》の話
110.また、はじまりの日。メルリィ・キータイトと《幸福の味》の話【前編】
六月――《慈雨の月》を間近に控え、五月の終わりも近いある日。
朝と昼の、ちょうど中間くらいの頃合いである。
トスカの町を南北に走る広い街道を、一台の馬車がとことこと進んでいた。
立派な設えの、二頭立ての馬車だ。
心なしか、車を引く二頭の白馬もぴかぴかで、誇らしく胸を張っているように見える。
馬車は、車の扉に豪奢な紋章――隼を中心に置いて
それは、トスカからいちばん近い都市――ルクテシア第三の大都市たるコートフェルの知事にして、コートフェルを領都とするオルデリス公爵領の領主たる家柄、即ちトリンデン家の家紋である。
ゆうゆうと町の中心部を抜けて、家並みがまばらになりはじめるトスカの南側へと進んだ馬車は、やがて一件の家の前でその歩みを止めた。
御者席で手綱を引き、「どう、どう」と馬の行き足を宥めるのは、立派なこしらえの剣を腰に下げた騎士だ。
その隣に座っているのは、お屋敷に勤める
若く逞しい騎士の制動で馬車が完全に止まると、家令の老爺は御者席を降り、馬車に載せた賓客のため扉を開けようと向かう。
けれど、その老爺が恭しく扉へ手を掛けようとするより少しだけ早く。ぱぁんと音がしそうな勢いで内側から扉が開いて、そこから転がる子犬みたいな勢いで、ちいさな子供が外に飛び出してきた。
栗色の髪と鳶色の瞳、年相応の背丈と棒切れみたいに細くて子供らしい体つきをした、ありふれて子供らしい元気な男の子である。
「ついたーっ!」
コートフェルからずぅっと馬車の中でじっとしてなきゃいけなかったぶんを取り戻すみたいに、ぐぅっとめいっぱいに手足を伸ばして。
彼――ランディは、まる四日ぶりに帰る我が家を前に、はしゃいだ歓声を上げた。
――と。そこで扉を開けようと近づいていたパーシュバルの存在に気づいたらしく、途端にはたと慌てた様子になる。
「わわ、パーシュバルさんごめんなさい! 扉、ぶつかりませんでしたか!?」
「いえいえ、まったくそのようなことは。お気遣いいただきありがとう存じます」
老家令――トリンデン家の
開いた馬車の扉から、ランディに続いて二人の娘が降りてきた。
先に立ってふわっと軽やかに降りたのは、長く伸ばした翡翠色の髪を一本のみつあみに編んだ、年の頃なら十五かそこらの少女だった。
ほっそりと伸びた手足は中春に萌える若木のよう。
未だ少女めいて起伏に乏しい胸元に、ふわふわした毛並みの仔犬みたいな生きものを抱きかかえている。
後から楚々とした所作で続いたのは、緩く波打ち肩へとかかる亜麻色の髪をした、こちらもまた十代の半ばといった年頃の娘である。
レース飾りの美しい純白のブラウスに、腰を細く絞った群青のロングスカート。土を踏む足下はヒールの高い編み上げブーツで、育ちのいい街の娘を思わせるいでたちをしている。
どこか物憂げにけむる瞳は
若木の少女はユイリィ・クォーツ。
淡雪の娘はメルリィ・キータイト。
身にまとう空気こそ対照的ながら、どちらも目鼻立ちの整った、輝くような美少女である。
しかし――この二人を前にして、彼女達が人間ではないと察することのできる者は、
「家まで送ってくださって、ありがとうございました」
「いいえ、どうぞお気遣いなく、ユイリィ様。むしろ、此度は我がトリンデン家の問題に巻き込んでしまったこと、
「お屋敷、とっても楽しかったです! ありがとうございましたっ!」
めいっぱいに両手を広げてアピールしながら、ランディが横から口を挟む。
ユイリィがクスリと笑みを零し、呆けたように目を丸くしていた老家令も、やがて眦を緩めて相好を崩した。
「ランディ様のお言葉、旦那様にも
「はい。おねがいしまっす!」
典雅な所作で恭しく頭を垂れるパーシュバルへ、ランディはハンマーを振り下ろすような勢いで頭を下げ返す。
それから御者席の方を見て、馬の制動のため御者席に残っている騎士へと声を張り上げた。
「トーマさんも、うちまで送ってくれてありがとうございましたっ!」
御者席の騎士――トリンデン家の護衛騎士筆頭であるトーマ・ステフは首をねじって顔だけ御者席の外に出すと、不自由な体勢のまま目礼でもって応じてくれた。
騎士の礼節に、ユイリィは楚々とした少女らしい所作で頭を下げ返し、メルリィも一瞬どきりとしたように竦んでから、あたふたとユイリィのそれに倣った。
「では――我々はこれにて失礼をいたします。もし今回の一件に伴い何事かありました際は、どうか遠慮なく我が家へご連絡をくださいますよう」
老家令は最後に改めて一礼すると、開け放たれていた扉を音もなく閉め、くるりと踵を返して御者席へ戻っていった。
老家令の姿が御者席に戻って見えなくなると、ランディはくるりと首をねじって馬車の中を見る。
ひょこりと席から身を乗り出してこちらを見ている友達に、ランディはにかっと笑って手を振った。
「リテーク、また明日! 学校でねー!」
馬車にひとりだけ残っていたランディの幼なじみ――口元をいつもマフラーで隠しているツンツン頭のリテークが、窓越しにひらひらと力の抜けた感じで手を振り返してくる。
馬車の中に、他の友達はもういない。
ここまで来る間に、みんなそれぞれの家で下ろしてもらったからだ。
町の広場にいちばん近い従姉妹のラフィの家――冒険者宿である《黄金の林檎亭》を皮切りに、町長さんのお屋敷であるユーティスの家、その次にトスカで唯一の聖堂であるエイミーの家を経由して、四番目がランディの家。
そしていちばん最後が、町から離れた森の中にあるリテークの家――ということだ。
御者席から「はっ」と馬を促すトーマの掛け声と、ぴしりと手綱を鳴らす軽い音。
いななく声を上げて馬が歩みを始めると、馬車は再びとことこと軽やかな音を立てて、南の道へと遠ざかっていった。
たぶん、町はずれの枝道で森の方へ曲がって、リテークの家まで向かうのだろう。
「ばいばーいっ!」
ぶんぶんと手を振って見送るランディ。馬車の背中が枝道を曲がって木立の向こうへ見えなくなると、ようやくその手を降ろしてほぅと肩の力を抜く。
急に気が抜けてしまったみたいなその場を仕切り直す形で、ユイリィが「さて」と声を上げた。
「おうちに入ろっか! ランディちゃん、鍵は?」
「もってまっす!」
「えらーい! よーし、じゃあ鍵開けはランディちゃんにおねがいします。ユイリィはクゥちゃんをだっこしてて両手ふさがっちゃってるからね!」
声を弾ませながら、ユイリィは胸に抱えた子犬のような生き物を揺らす。
口吻の長い、ふわふわの毛並みをしたその生き物は、抗議するように「くぅ」と一声鳴き、ふんすと鼻息を噴いた。
一見ただの子犬のようなこの生き物も、実のところ見た目通りの仔犬ではない。
《幻獣》――その中でも竜種の一種、『ファフニール』と総称される
ともあれ、「はーい!」とめいっぱい答えたランディは転がるような勢いで玄関に駆け寄ると、真鍮の鍵を突き刺し、まるで秘められた迷宮の深奥を開くかのような、仰々しくももったいぶった所作で家の鍵を開けた。
「かちり」と重い音がしたのを確かめてから、ぱっと後ろを振り返り――
自分のすぐ後ろにユイリィとクゥがいて、
けれどもう一人がぽつんと立ち尽くしたままなのに気づいて、子供っぽいどんぐり眼をぱちくりさせた。
「メルリィさーんっ! おうち入るよー、はやく来てー!」
「……ぁ」
風に溶けて消えてしまいそうな声が、メルリィの唇から零れるのを聞く。
無理もないのかもしれない、と――ランディは心の中でだけ唸る。なんといっても、メルリィさんとは昨日までいろいろあったから。
ランディはもう終わりよければすべてよし、ですっかり忘れかけていたのだけど、やっぱりメルリィさんの側からしたら気がかりというか、気後れしてしまうようなことがいっぱいあるのだ。
大人はむずかしい、らしい。そんな風に聞いている。
どういうふうにむずかしいかは分からないが、むずかしいならむずかしいなりにしてあげるのが気配りというものであろう――ランディはそう理解していた。八歳なので。
なおもおずおずと躊躇っていたメルリィは、ランディがめいっぱい大きく手を振って手招きするのと、クゥを胸に抱えたユイリィが指先だけでちょいちょいと手招きするのを認めて――ようやく心を決めたように、コクンとぎこちなく首肯した。
「――はい」
ふたりと一頭の前まで進み出るメルリィ。
それから、これもまた綺麗な楚々とした所作で深く一礼する。
「格別のご厚情と容赦をいただき、今日よりこの家でお世話になります。至らぬ身の上ではありますが、
「固い……」
「いらっしゃい、メルリィさん!」
かたや気圧されたように呻くユイリィ。
もう一方のランディは、ぱっと玄関の扉を開け、「さあ」とてのひらで家の中を示す。
「あがって! こちらこそ、今日からどうぞよろしくおねがいしまっす!!」
ランディと、その『姉』を自認する《
このふたりと一頭で暮らす家に、今日からもうひとりが加わる。
メルリィ・キータイト――GTEM513-LⅥ、《L-Ⅵ》。
GTMM014-LⅩ――《L-Ⅹ》ユイリィ・クォーツと同じ、《Lナンバー》へ名を連ねる
今日から――少なくとも当面しばらくの間、ウィナザード家の新たな住人となって、一緒に暮らす新しい家族なのだった。
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