108.epilogue:たったひとつじゃない《ほんとうのこと》【後編】
――やがて。
「……よくもまあ、そこまで読み解いたものだ」
皮肉な口ぶりで、トリンデン卿は零した。
白旗を揚げる代わりに、軽く両手を挙げて降参の意を示す。
「じゃあ、ほんとにそうなんだ。死んだ子供は
「まさか」
トリンデン卿は肩をすくめ、鼻で笑った。
「バルトアンデルスの観測は、そこまで便利なものではないよ。『現在』の観測だけなら容易だが、過去――それ以上に未来可能性の完全観測には、少なからぬ数の観測者と、それ以上に時間が必要だ。数日程度ではまったく足りない。身代わりをさせたところで、いずれはぼろが出る」
それに――と。トリンデン卿は続ける。
「それに、距離と範囲の問題もある。私自身の防御が必須である以上、そんな茶番を長く続けられるものではないよ」
「距離と範囲?」
怪訝に眉をひそめるユイリィ。トリンデン卿は頷く。
「バルトアンデルスとて幻獣。規格外といえども生物であり、『大きさ』というものがある。私が連れ帰った『彼』の展開可能な最大半径は、この屋敷を中心に据えてラウグライン大森林の外縁あたりまでというところだ」
「じゃあ、トスカまでは……」
「中心点を変え、コートフェルからトスカまでの間を細く絞って伸ばせば、この館の敷地とトスカ全域をフォローするまではできるかもしれないね。しかし、当の私は常にこの館で留まっていられる身の上ではないのだ」
トリンデン=オルデリス家は、王国の『密偵頭』。
王国の政務そのものに携わる以上、王都や他の土地へ向かうことは避けられない。
「万に一つの時は、子供達は無事に館から帰り――しばし後に『事故』で死ぬ。そういうことになっていただろうね。惨たらしくも世にありふれた悲劇、そのひとつとして幕を降ろしていただろう」
ルクテシアは一般的に土葬だ。
『事故』で亡くなった子供の亡骸は墓地へ埋葬され、然る後に擬態していた
子供の事故死など、決して珍しいものではない。
木登りの最中に落下して悪いところを打つ。川で転んで運悪く水中で意識を失う。牛馬のような大型の家畜に迂闊に近づいて、後足で蹴り飛ばされる。
死は容易に偽装可能だ。ただ、トリンデン=オルデリス家の醜聞として結び付けられる形でさえなければそれでいい。十分に事足りる。
「観測者たる『目』の数にも限りがある。無為にひとつところで張り付けておく訳にもいかんよ」
「……そう」
その吐き捨てるような言及は、素直に腑に落ちるものだった。
バルトアンデルスに無限の観測が可能であるならば、彼は最初からこの館――あるいはこの街に出入りするすべての人間を監視下に置き、メルリィ・キータイトの侵入を警戒しつづければよかった。端からユイリィの手など借りる必要はない。
「――それで? この事実を明らかにして、君はいったい何をどうしたいのか? この真実を少年少女へ明らかにするとでも?」
揶揄する口ぶりで、彼は問うた。
ざらりと乾いた、砂のような嘲笑だった。
「私を軽蔑したか? それとも――今度こそ私は君の敵かな?」
「べつに。どっちでもないし、ランディちゃん達に話すつもりもないよ」
そんな暴露に意味はない。それが嘘だと断じられればユイリィは厭わしい嘘つきだと弾劾され、仮に真実と受け入れられたところで彼らの心を傷つけるだけだ。
この真実を広めることに意味はない。それは誰に対しても不幸しかもたらさない。
「ただ、ずぅっと気になってたの。あなたがランディちゃん達によくしてくれたのは――あなたの罪滅ぼしのつもりだったんじゃないかって」
トリンデン卿は瞠目した。それは、胸を衝かれた者のする顔だった。
それだけで、すべてがはっきりする。
彼はいくらでも冷徹に、いくらでも酷薄に、すべての可能性へ備えることができる男だ。そうすることを躊躇わないのが、彼という人格だ。
――けれど、
「けれど――守るためだったのも『ほんとうのこと』でしょう? ランディちゃん達をこのお屋敷へ呼んだのは。ここなら大勢の騎士や衛兵さんがいて、ユイリィだって『みんな』のそばについていられる」
トスカの町に帰ってそれぞれの家でずっとばらばらにいるよりは、はるかに全員を護りやすい。のみならず、無関係な周囲の人びとを、刺客の襲撃に巻き込むこともなくなる。
「それはあなたが用意した、最悪の事態においてなお最善をはかるための防壁――『最後の備え』だった。
けれど、あなたの備えはそれひとつじゃなかったし、最後の備えが実用に至ることもなかった」
――この後四日はあらゆる手段を尽くし、お前達はあの六人を護れ。
己が部下に命じたそのことばを、彼は真実、形にしてみせた。
何一つ損なわれることなく、ランディ達は護られた。この館で過ごした四日間は――きっと、ただただ輝くような思い出として、彼らの記憶に残りつづける。
「だから、トリンデン卿はとんでもない嘘つきだけど――それでも、伏せられたまま終わった備えを、これ以上負い目に思う理由はないと思うの」
そう。ゆえにこそ、
「あなたは今も、わたしの敵なんかじゃない」
ユイリィは、指でつまんだ象牙の紋章を、自身の顔の傍まで掲げてみせる。
彼にそれがよく見えるように。
「これはもう罪滅ぼしじゃなくて、ただの『友情の証』――それでいいんじゃないかなって、そう思うんだ」
あなたにとっても。
他の誰にとっても。
「もう、とっくに貰いすぎってくらいだと思うしね。これ以上なにくれとよくしてばかりもらってたら、却ってあの子達によくないと思うんだ。だから」
――ね?
と。ほんの少しの衒いと。やりこめてやった快哉と。
それから、花束のようないっぱいの信愛を湛えて。
絶句し、呆けたように立ち尽くす彼へ向けて――ユイリィはニコリと微笑んだ。
「……やれやれだな」
――ややあって。トリンデン卿は、ほろ苦く笑ったようだった。
その面に浮かぶ表情はもはや乾いた砂のようではなく、常の彼らしいひょうきんな愛嬌が戻っていた。
「
「何それ? どういう意味?」
「君のことは敵に回したくはない、という意味だよ。今後も是非、手を取りあい仲良くやってゆきたいものだね」
「ええ……何それ……?」
今の流れで、どうしてそういう話になるのか。
いくぶんかの不満をあらわに唸ってから――ユイリィは、ふと気づいた。
「シオンが冒険をやめた理由、あなたも知ってたんだ」
「無論、知っていたさ。私はオルデリス領の領主であり、我が家は彼の両親とも浅からぬ縁ある間柄だ」
朋友だから、と言わなかったのは、彼の
「だから、まあ……《
「ユイリィおねえちゃーん」
馬車からひょこりと顔を覗かせて。ランディが呼び掛けてきた。
「まだレドさんとおはなし終わんないの? さっきから、ずっとトーマさんたち待たせっぱなしだよー?」
「わあ、ごめんごめんもう行くよ。もうおはなし終わったからね」
あたふたと誤魔化すみたいな笑顔を広げて、ひらひらと手を振る。
最後にトリンデン卿へちょこんと
呆気にとられたように目を丸くして、その背中を見送った彼は――ややあってその逞しい面に、力の抜けた笑みを広げた。
「そう。ようやくわかった気がするのだよ、ユイリィ・クォーツ――シオンが君を信じるに至った理由。君があの二人に求められた理由。あるいは」
《
もし本当にそうだったのだとすれば、己は本当に最初の一手から、彼女に対する指し手を誤った。
苦々しく、物悲しく、彼はそれを認める。
認めざるを得なかった。なぜなら彼女はこの館にいる間、一度として《
そう。故に――
「……我がトリンデン家はいつであれ、君のためにもその門を開くだろう」
彼女はフレデリク・ロードリアンの目算をはるかに上回って、聡明かつ献身的な存在だった。
己はそれを見誤り、彼女は最後までそれを問おうとしなかった。
昏いほのめかしで彼女の関心を引き、過去を対価にその力を意のままにと欲した――そのあくどさが行き着いた先が、これだ。
「その日まで、どうか健やかであれ――我が後悔、我が
恥じ入る心地で、己へと問う。そのあやまちを取り返せる日はあるだろうか、と。
かの老爺がフレデリク・ロードリアンに残していったことばを――彼女へあやまたず伝えられる日は、あるだろうか。
いつか――
◆
ユイリィが馬車へ駆け込んで座席に腰を落ち着けるなり、扉はトーマの手でぱたんと閉じられる。
御者席の軽い振動。馬車は馬のいななき、がたんと走り出す最初の一揺れと共に、速やかにトリンデン邸を出発した。
館の敷地を抜け、門と橋を越えてコートフェルの市街へ。
《諸王立冒険者連盟機構》支部の前を通り過ぎ、やがてコートフェルの市門へ到着する。
その間。ランディはラフィ達と他愛ないおしゃべりを続けながら、自分の正面――窓際に座って膝の上にクゥを載せたユイリィが、ずっと窓の外を眺めているのを、それとなく伺いつづけていたのだが。
(ユイリィおねえちゃんにも、話したほうがいいのかな……)
館に来て最初の夜に、トリンデン卿が話してくれたこと。
ユイリィの、『おじーちゃん』にまつわることを。
かつてトリンデン卿がユイリィの『おじーちゃん』だけじゃなくて、あの《
きっと、《棺》で眠っていたユイリィを連れて逃げつづけることができなかったから、ランディの家にあの《棺》を預けていったのだということ。
トリンデン卿が、ユイリィの『おじーちゃん』と交わした、そのことばも――
――自分は、ユイリィ・クォーツを造るべきではなかった、と
――ユイリィ・クォーツは自らには過ぎたものだと――
(……言えない、よね。そんなの)
だめだ。まだ言えない。今は、まだ。
それは、いつかはきちんと伝えてあげなきゃいけないことかもしれない。でも今は駄目だ。
どうして『おじーちゃん』がそんな風に言ったのか。
その本当に意味するところを、ランディはまだ何も知らない。
これはきっと、自分ひとりで決めていい事じゃない。シオンや、フリス――それに、もしかしたらトリンデン卿や、他にも誰か。ランディよりずっと頭がよくて頼りになる大人のひとたちにも考えてもらって、正しい伝え方を決めなくちゃいけないことだ。
そう、しなきゃいけない。きっと。
くぁ――と大きな欠伸をするクゥの姿が目に留まって、決意がいっそう強くなる。
『最善の未来』。
そんなものが、あるのなら。
ランディはクゥがそうしていたみたいに――ハルアが、そう教えてくれた――未来を見て選ぶなんてできないから。何がいちばん正しいことなのか、きちんと考えて決めるしかない。
だから、そうできるまではぜんぶ封をしておこう。
それはちゃんとできること――きっと、その気になれば誰にだってできることのはずで、だからランディはそうできなくちゃいけない。
――ランディは、シオン・ウィナザードの弟で。
――ユイリィは、ランディの『おねえちゃん』なんだから。
「ランディちゃん?」
「え?」
気がつくと。ユイリィが心配そうに、ランディを見つめていた。
「どうかした? もしかして、車に酔っちゃった?」
「ぅえ!? ううん、べつに……そういうんじゃないんだけど」
あたふたしながら否定すると、ユイリィは「そう?」と唸って、ひとまず引いてくれた。まだ気づかわしげにはしていたけれど。
がたん、と馬車が揺れて、再び走り出す。
市門での確認が終わって、コートフェルの外に出たのだ。
窓の外の景色が、郊外のそれに変わる。
向かって左手にラウグライン大森林の木々を臨みながら、開けた郊外の道をトスカへと下ってゆく。
「ユイリィおねえちゃんこそ、どうかした? ずーっとぼんやりしてるみたいだけど」
「そうだね」
半ば以上、話をそらすために切り出した問いだったが。
特にランディからの問いかけを不思議がるでもなく、ユイリィはニコリとしながら頷いた。
「シオン達が帰ってきたら、今回のことをどんなふうにおはなししようかな――って。ずっと考えちゃってた」
「シオンにいちゃんたちに、おはなしするの?」
「するよぉ。ランディちゃんとユイリィたちの冒険のおはなしだもの」
首をかしげて訊ねるランディへ、ユイリィは明るく声を弾ませる。
「ランディちゃんだって、シオンたちが帰ってきたら冒険のおはなし聞かせてもらうでしょ? せっかくだから、シオンたちにもランディちゃんの冒険、教えてあげたいよ」
「怒られないかなぁ……」
「へいきだよ。シオンだってランディちゃんが冒険するのは嫌じゃないと思うし。冒険のおはなしは、シオンだってきっと好きだと思うよ?」
……そうかな?
いや、ランディに関してはたしかにそうかもしれないけれど、やっぱりシオンに怒られたりしないだろうか。具体的にはレドさんとかが。
「それに、どっちみちメルリィのことだけは、きちんとおはなししないとだしね」
「……あ」
それは、たしかにそのとおりだ。
メルリィのほうを伺うと、彼女はランディの視線に気づいて、ぺこりとしおらしく頭を下げた。ランディはついびっくりしてしまって、半ば反射でぺこりと頭を下げ返す。
――あの夜を越えてから、メルリィは何だかすっかり雰囲気が変わってしまったみたいだった。
もともとそんなに怖い感じのひとではなかったけれど、今はあの夜にまとっていた刺々しさも抜け落ちて、大人しくて淑やかな――ランディの身近で言えばフリスみたいな、護ってあげないといけないみたいにかよわげな雰囲気の女のひとだった。
馬車へ手を引いていったときもそんな感じだったので、最初はめちゃくちゃ警戒していたラフィやエイミーも、あまりにしおらしいメルリィの様子にあっさりと気を許してくれたくらいだ。
「ランディちゃんこそ何か考えごとしてた? なんだかむつかしい顔してたみたいだけど」
「え? えっと……ぼくもユイリィおねえちゃんとおんなじ」
「ユイリィと?」
「そう。シオンにいちゃんたちの今日までのこと、どんなふうにおはなししたらいいかなって。考えてた」
冒険のこと。トリンデン卿のこと。メルリィのこと。あと――クゥやハルアのことも、だろうか。
それに――ユイリィのことも。
話したいことが、いっしょに考えてほしいことがいっぱいある。
きっと上手に伝えられる。できる――はずだ。シオンやフリス、その仲間達が冒険を終えて帰ってくる、その頃にはきっと。
眦を細めて微笑むユイリィへと笑い返しながら、ランディは胸の奥で心を固める。
できるはずだ。だって、レドさんからその証をもらったばかりだ。
服の胸元に、ピンで留めたバッジ。
象牙で作った《
ひとつの冒険を越えた、今はその証がこの胸にある。だから――まだ《諸王立冒険者連盟機構》にきちんと認めてもらった訳ではないけれど、自分は既に『冒険者』、そのひとりになった。きっと、そう信じていいはずだ。
(がんばろう……)
夢見るように高みを仰いで、ランディは心のうちでだけ繰り返す。
仰ぎ見る高みは、憧れの冒険者の姿はたくさんあって。
きっとそんなふうになるんだ、と――ひとりで抱えているものは、重たく感じられてしかたがなかったけれど、それでも。
ランディはその胸を熱く高鳴らせて、これから先のたくさんのことへ、思いを馳せつづけていた。
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