107.epilogue:たったひとつじゃない《ほんとうのこと》【前編】


 最後の一日はあっという間に過ぎていった。

 トリンデン卿との話を終えたユイリィが戻ってきた後はその話をつぶさに聞き、昼食を挟んだ午後からは、そういえば今日まで一度も『出口』まで行ったことのなかった生垣ロッジ迷路の踏破へと乗り出した。



「あ、でもおととい作った地図は使っちゃだめよ! そんなのランディとユーティスが有利すぎるから!」



 ――ということで。記憶を頼りに一からの踏破である。

 もっとも、地図そのものは封じられたとて地図を作る際に叩き込んだ迷路の道のりはまだ頭の中に焼きついている。

 地図などなくとも、ランディとユーティスの有利は疑いなかった。

 そして、



「おれのかち」


「ウソでしょ!?」


「一番になるのは僕とランディのどっちかだと思ってたのに……!」


「ざんねんでした。あんたたちは三番と四番よ」



 最後の直線に出たところでばったり出くわし、一着争いを確信して争い合うように出口までの道を駆け抜けたランディ達を待っていたのは、天高く指をつき上げ勝利を告げるリテーク、そしてふたりと同じくリテークの後塵を拝したラフィだった。


 どうやらラフィもラフィで自分が一番だと確信して出口まで駆け抜けたようで、ベンチに腰掛け頬杖をついた彼女は拗ねたみたいにほっぺたを膨らませていた。


 なお、エイミーは完全に迷ってべそをかいていたので、みんなで迎えに行った。



 ――夕食は、トリンデン邸の日々もとりわけ豪華な、より具体的には昨日の祝勝会の次くらいにすごいメニューが出た。


 サーモンとキッシュ、チーズをメインに色とりどりの野菜を飾った一口前菜の盛り合わせオードブルヴァリエ

 澄み渡ったコンソメのスープ。

 豚肉詰めにした烏賊イカのトマト煮込み。

 大皿に乗ったのをみんなで獲り分けて食べる、真鯛スナッパー――これも海で獲れる魚らしい――の姿煮。

 濃厚な味わいとほどけるような牛肉の触感がたまらない、牛肉たっぷりのビーフシチュー。


 デザートにはアイスクリンとプリン、さらに、その場でトリンデン邸のコックさんが焼いてくれる焼きマシュマロまでついてきた。


 テーブルいっぱいに並んだ料理とおしゃべりとで賑やかに時を過ごして。うっかりジュースと間違えてワインを飲んでしまったせいでひっくり返りそうになったりもしながら。


 これが最後の夜なんだということにふと寂しいような心地を覚えながら、ベッドに入って目を閉じた。


 そして――



「少年少女よ。否、我が朋友達よ。君達と共に過ごしたこの短くも輝かしい四日間を、私は生涯決して忘れることはないだろう――!」


 トリンデン邸で迎える最後の朝。


 《遊隼館》を発つランディ達を玄関まで見送りに出てきたトリンデン卿は――最後の別れの挨拶にとうとう感極まったというように大きく天を仰ぎ、固く握った拳をわななかせていた。


 トリンデン家の紋章を掲げた馬車の傍らには行きの時と同様、家令のパーシュバルと護衛騎士トーマが立ち、馬たちも装具を整えて出発の時を待つばかりだった。


「我々は力を合わせ、卑劣なる暗殺の魔手を打ち払い――のみならずユイリィ・クォーツの姉妹、心ならずも邪悪なる者どもの走狗とされていたメルリィ・キータイトをも、その深き闇から救い出したのだ。これは完全勝利をも超えた究極の勝利。未来永劫に渡って霞むことなき偉大なる到達と呼んで然るべきものであろう!」


 そうしてトリンデン卿に見送られる側には、レース飾りの美しいブラウスと腰を細く絞ったロングスカート――トリンデン邸で与えられた清楚な一揃えを身に着けたメルリィの姿もあった。


 自身の名前に言及されると、一人だけすこし離れてすみっこに立っていた彼女はばつが悪そうに身じろぎしながら、恥じらうようにうっすらと頬を染めていた。

 彼女は今後しばらくランディの家で預かり、いずれあらためて今後のことを決めてゆく、ということになったみたいだった。


「さて、諸君――この偉大なる到達を祝賀せんがため、私は今日、君達へひとつの贈り物を用意した」


「おくりもの?」


 首をかしげるランディに、トリンデン卿は「ふふ」と不敵に笑った。


「然りである。アンリエット、あれを持て」


「こちらにございます、旦那様」


 メイド長アンリエットが捧げ持つようにして差し出したのは、黒くてひらたい革張りの箱だった。

 トリンデン卿は箱の留め具をはずし、その蓋を開ける。

 敷き詰めた赤いビロードへ沈むようにして、箱の中には七人分のバッジがおさめられていた。


「これは――!」


 ユーティスが驚きの声を上げる。

 驚いたのは彼一人ではない。ラフィは息を呑み、エイミーは目を瞠り、ランディはあんぐりと口を開けてそれを見つめるしかできなかった。

 いつも通りだったのはランディ達の中でひとりだけおねえさんなユイリィと、あとは物怖じしないリテークくらいのものだった。


「《諸王立冒険者連盟機構》コートフェル支部長たるこの私――フレデリク・ロードリアンから諸君らへ贈る冒険者の証。即ち、《旅人の紋章ワンダラーズ・エムブレム》だ」


 車輪に二枚の翼を重ねた《諸王立冒険者連盟機構》の紋章に、加護の法術を封じた銀星晶ステアライトをあしらったバッジ。

 それは、《諸王立冒険者連盟機構》から正式に認められた冒険者たるを示す証である。


 もっとも階位の低い青銅ブロンズにはじまり、カッパーシルバー水銀マーキュリーゴールド白金プラチナ琥珀アンバー翡翠ジェイド聖霊銀ミスリルの九階位。

 そして、大いなる偉業を成し遂げ遥か戴きへ至った冒険者達は、虹の輝きを宿す輝虹晶セライリスの紋章を以て讃えられ、連盟において永久とわにその名を記録される栄誉にあずかることとなる。


「あの、でも……これ、何のバッジなんですか?」


 エイミーが不思議そうに首をかしげる。七つおさまった紋章は、冒険者としての身分を示す十の紋章のいずれとも違う。白っぽい何かでできている。

 よくよく見れば、紋章に嵌った宝石も銀星晶ステアライトではない。薄青く澄んだ藍玉アクアマリンだ。


象牙アイボリーの紋章。冒険者ならざる人々が、その勇気を奮ってひとかどの冒険を成し遂げたとき――その偉大なる足跡を讃えるための紋章だ」


 トリンデン卿は答えた。


「その身分こそ未だ冒険者ならずとも、大いなる冒険を乗り越えた少年少女はこの証を持つ資格があるはずだ。此度こたびに我ら七人が力を合わせた冒険――そして、いずれ君達が踏み出すであろう大いなる未来の冒険、その踏破と勝利を言祝ぐものとして、どうかこの紋章を受け取ってほしい」


 そのことばで、ランディはすとんと腑に落ちる。


 ああ、だから七つ。

 ラフィにユート、エイミーにリテーク、レドさんにユイリィおねえちゃん。そしてランディ。


 ランディはビロードに手を伸ばし、鎮座するバッジを手に取った。

 つられる形で他のみんなも手を伸ばし、我も我もバッジを持っていく。

 ランディ達の手が引くのを待って、ユイリィが――そして最後にトリンデン卿がバッジを取り、ぱたんと蓋を閉じる。


「その紋章が我らの絆、我々が永遠とわの朋友たる証明だ。我がトリンデン家の門は、君達のためならばいつでも開かれるだろう――また、我が家を訪ねてきてくれたまえ」


「はいっ――あの、ありがとうございます!」 


「み、身に余る光栄です! トリンデン卿!」


「ふええ……」


「めし、うまかった」


 一斉に声を上げるラフィ達。

 ランディは胸がいっぱいで、その気持ちをどう答えたら伝えられるのかわからなくて、完全に出遅れてしまったが――


「あの、レドさんっ」


「うん?」


 力強い笑みを広げながら首をかしげる、そんなトリンデン卿を見上げて、


「今度は――シオンにいちゃんやフリスねえちゃんともいっしょに来ますっ! えっと、みんなで!」


 そのことばで、本当によかったのかは分からない。だが、それでも伝わるものはきっとあったのだろう――トリンデン卿は口の端に浮かべた笑みを大きくし、くしゃりと笑った。


「そうだな――その時には我が愛しき朋友すべてを一堂に会して、共に冒険の日々を語り合いたいものだ」


「はいっ!」


 目を輝かせ、力いっぱい頷くランディ。

 そこへ、こほんと控えめな咳払いが割り込んだ。


 それまでずっと馬車の傍で影のように控えていた、家令のパーシュバルであった。


「旦那様、そろそろ」


「おおっと、いかんいかん! 私としたことが友情と感激につい時を忘れてしまったようだ。さあ、少年少女よ、冒険の時はひとたびその幕を降ろし、君達の日常へと帰る時が来た!」


 ぱん、とてのひらを打ち合わせ、トリンデン卿はランディ達を馬車へと促した。

 トーマが恭しく扉を開いた馬車の中へ。みんなこぞって玄関前の短い階段を駆け下り、弾む足取りで乗り込んでいく。


 ふと――ランディはぼんやりと立ち尽くしてしまっていたメルリィに気づき、その手を取った。


「行こ!」


「あ。は――はい……」


 躊躇いがちにおずおずとあゆみを進めるメルリィの手を引いて、ランディは一緒に馬車へと乗り込んだ。

 途端、馬車の中がわっと騒がしくなる。


 ――そんな、子供たちを見送って。

 トリンデン卿はやれやれとばかりに、肩の力を抜いたようだったが。

 そこでふと自分の隣に残った気配に気づき、「おや」と片眉を跳ね上げさせる。


「君は乗らないのかね? ユイリィ・クォーツ」


「もちろん乗るよ。でもその前にひとつだけ確かめておきたくて」


「ほう、何をだね?」


「わたし達をこのお屋敷へ呼んだ、について」


 ユイリィはトリンデン卿を見上げ、ふとその声を潜めた。鋭く。

 トリンデン卿の男らしい面差しから、すぅっと笑みが消える。


「このお屋敷にわたし達を呼んだのは、ランディちゃん達を――ちがうかな? トリンデン卿」



 トリンデン卿の男らしい面差しからは、それまで一度として――どれほど真摯で真剣な面持ちであっても絶えたことのなかった愛嬌の一切が、まるで溶け消えたように失せていた。

 後に残ったのは、ざらつき乾いた、砂のように冷たい無表情だった。


「どうしてそう思った?」


 問い返す声は、低く小さく、そのくせユイリィの耳までよく通った。


「あなたは《万変する万影バルトアンデルス》を切り札に抱えていた。たとえどれだけ上手に暗殺を成功させても、あなたを排除することはできない」


 それは他ならぬトリンデン卿自身が語ったこと。

 だが、その防御は無敵ではあっても、無謬ではない。なぜならば、


「それはあくまで、物理的な面においての話。たとえ暗殺という手段を無効化されても、あなたという存在を、あるいは『トリンデン=オルデリス家』の存在を無効化する手段は残っている」


 それもまた、他ならぬトリンデン卿自身が語ったこと。

 ランディ達を《遊隼館》へ招く理由を問うたとき、彼はこう答えた。



『理由は複数ありますが、まずひとつ。件の刺客が狙うやもしれぬ標的を一か所に集め、護りやすくするためです』


『彼女がその発想に至るかは不明です。しかし彼女の背後で糸を引くものは、警備の堅いオルデリス公爵家の当主を直接狙うのではなく、より襲撃しやすい別の誰かを、それをもって本命の標的である私を釣りだそうと考えるやもしれません』



 ランディ達が人質とされる可能性の排除。そのことばも嘘ではないだろう。

 だが、彼はこうも言った。ランディ達が人質として機能するのは、トリンデン卿個人の情に基づくものだけではない。



『恥ずかしながら、当世の貴族は弱くなりました。貴種が一声上げれば民草を黙らせられたという、旧き中世の時代のようではない――醜聞は我らの権威を容易に失墜せしめ、時にはそれをもって家そのものが取り潰しの憂き目を見ることすらある』


『あれほど高らかに讃え上げた少年少女を、これより後に多くの未来ある子供たちを我がトリンデン家の巻き添えとし、かの忌まわしき刺客めの手にかけさせるようなことがあれば――』



 ――それは、醜聞だ。

 当世におけるそれは、容易に貴族の権威を失墜せしめ、時に家そのものの取り潰しすら招く。

 仮に家だけは存続させることができたとしても、醜聞の当事者たるフレデリク・ロードリアンがその権威と権能を維持し続けることはできないだろう。


 そして――仮に事実が異なるものであったとしても、それを醜聞にことはできる。おぞましく忌まれるべき、さえ存在すれば。


「暗殺に対するもっとも強力な防御を、あなたは最初から持っていた。『守る』ことに失敗したときの、一番確実な最後の保険――万変する万影バルトアンデルス


 仮に護衛に失敗し、あるいは何らかの事故でランディ達の誰かが喪われれば、それは醜聞として利用可能だ。

 万変する万影バルトアンデルスであれば、それを帳消しにできる――不慮の『死』をなかったことにできる。


 だが、これを子供達に適用するにあたってはひとつの問題がある。


 国家の重鎮たるトリンデン卿が影武者を備えていることはおかしなことではない。だが、ランディ達はそうではない。彼らはただの子供だからだ。


 トリンデン卿の死はどれほど明らかなものであれ、『影武者』のそれとして上書きできる。彼は貴族であり、国家の重鎮だからだ。

 『ただの子供』の死は違う――万に一つその事態へ至ってしまったとき、その喪失は確実に隠蔽されなければならない。にしなければならない。


「その条件を満たすには、万変する万影バルトアンデルスによる観測、そして万一の事態を隠蔽可能な空間が必要になる。あなたにとって、この屋敷はその条件をふたつとも満たす場所だから」


 馬車の中から聞こえてくる、和気藹々としたおしゃべりを聞きながら。

 ふたりの間にはその賑々しさから遥か隔絶した、凍土の冷気が満ちていた。


「――だから、あの子達をここへ。違う?」


 ユイリィは男を見上げる。

 まるで石像のように硬く乾いた、男の相貌を。

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