105.閉幕:そして静かに伏せられる、いくつかの《真実》にまつわること


「――以上が、件の手紙に関することの真相である」


 トリンデン卿がそう話を結んだのち。

 執務机の対面で彼と向かい合うスレナが隣に立つドナを見遣ったとき、彼女は今にも目玉が零れ落ちそうなくらいに目を剥いて、そうした形の石像に変わってしまったかのように立ち尽くしていたが、


「じゃあ……あの手紙は!?」


 唐突に我へと返って、執務机へ身を乗り出す。

 机上であたたかな湯気をくゆらせる紅茶のカップを挟んで、トリンデン卿はそんな彼女へ「うむ」と重々しく頷く。


「言うまでもなく、メルリィ・キータイトとその影で糸を引く首謀者の策略による、まったくの偽りだ」


「つまり、実家に戻ってきなさいっておとうさんとおかあさんからのお話は!」


「ありもしないでたらめだったということだ」


「わたしの結婚相手が決まったって話も!?」


「もちろんでっちあげの嘘っぱちだ」


 とうとう執務机へ手をついて、さらに身を乗り出すドナの問いへ、トリンデン卿は繰り返し答える。


「早馬で使いに出てもらった冒険者には、一連の事情をつまびらかに伝えてもらったが――それを聞いたご夫婦は笑っていらしたそうだよ。『メイドの真似事ひとつ満足に出来ぬ不詳の娘にどうして結婚などさせられるものでしょう。いずれ我が家をお任せする婿殿に、フィッシャー家の恥を晒すばかりではありませんか』――とね」


「はぐぅ!?」


 ドナはよろめき、矢で貫かれたように胸を抑えた。

 実際、彼女はつい一昨日にも、サービスワゴンをひっくり返して食器を盛大に割り散らかしたばかりである。


 ドナはしばしの間、呼吸することすら忘れて戦慄くように震えるばかりだったが――やがてのろのろと面を上げ、おずおずと訊ねた。


「じゃ……じゃあ、その、いえ、それでは旦那様。わたし、まだ」


「ああ」


 トリンデン卿は頷いた。


「君は今なお、我が家が預かる行儀見習いにしてパーラーメイド――そして、近く新刊の締め切りを控えた冒険小説家、『アノッド・ハンター』だ」


 ――今度こそ。

 ドナは全身から力が抜けて、くたくたとへたり込みそうになってしまった。

 スレナは素早く脇の下へと手を差し入れて支え、ドナを叱咤してしっかりと立たせてやる。



「……よかったぁ……」



 慌てふためきながら、謝罪とお礼の言葉を繰り返すばかりのドナの口から――涙に湿ったそのかすかな一言が零れるのを、スレナはたしかに聞いた。

 そして、それはトリンデン卿の耳にも届いていたのだろう。彼は口の端に暖かな笑みを刻みながら、まだ湯気を立てる紅茶のカップに口付けた。


「君にとって今回の一件、まさしく災難の一言に尽きるものであったろうが――さりとて禍福はあざなえる縄の如しともいう。災難の埋め合わせとしてはささやか極まるものかもしれないが、それを以て知れた良きこともあったはずだ」


「良き、こと……ですか……?」


 どうにか自分の脚で立てるようになったドナが、怪訝な面持ちで唸る。

 トリンデン卿は紅茶のカップを机上へ戻し、冗談めかすような所作で大きく両手を広げてみせた。


「そう。君の著作を読み、その新たな物語を楽しみに待つ読者が、君の傍には三人もいるということだ。小説の売れ行きという数字だけでなく――その数字が、確かな実体を持った読者ひとの存在であるのだと、君ははからずも知っただろう」


 息を呑むドナの表情は、胸を打たれたかのようだった。

 まるで、見えない鐘の鳴る音を聞いたように――胸の奥で鳴り響くその確かな音色を。彼女は唇を引き結び、強く噛み締めていたようだった。


「そう……ですね。ええ、仰るとおりです。旦那様の」


 首肯し、答える声は力強かった。

 そんな彼女の姿に、トリンデン卿は微笑を深くする。

 だが、


「……あの、ですけど旦那様。ひとつだけよろしいですか?」


「何かな?」


「そのう、旦那様が仰った読者の数ですけど……三人ですか? あの、失礼な質問で申し訳ないのですが」


 ドナは疑問を露に唇を尖らせながら、指を一本ずつ折って数えはじめる。


「ランディ様と、セシェルと……ええと、あとはどなたが。あ、もしかしてスレナ先輩!?」


「違います」


「ですよね!!!」


「はっはっはっはっは!」


 恥ずかしさに耐えかね喚くドナ。トリンデン卿は大笑した。


、ドナ・フィッシャー――いや、冒険小説家アノッド・ハンター殿」


 今度こそ。

 ぱこんと顎を落として、ドナは凍りついた。


「貴殿の著作はかねてより拝読していた。残念ながら、その著作のためにと貴女に課せられたメイドの職責を減じてさしあげることはできないが――しかし、この私もまた貴女の新刊を心より楽しみに待つ一人だ。どうかそれを知っていてほしい」


 話を締めくくり、トリンデン卿はぱちんと手を打ち合わせた。


「今回の件に関する周知は以上だ。下がってよろしい――ああ、スレナ」


 ――と。

 そこまで言ったところでふと気づいたというように、トリンデン卿はスレナを呼び止めた。

 ドナとそろって退出の一礼をし、早々に踵を返しかけていた彼女は、寸前でその足を止めて振り返る。


「君には別途、話がある。忙しいところをつきあわせてすまないが、もう少しだけここに残っていてくれたまえ」



「それで――私にお話とは、いったい何でしょうか」


 ほとんど夢心地の体で、ドナがふらふらと退室していった後。

 スレナとトリンデン卿は、執務机を挟んであらためて向かい合っていた。


「……君が我がトリンデン家に勤めはじめてから、今日でどれほどになるのだったかな」


「は……?」


 怪訝に唸るスレナを他所に、トリンデン卿は執務室の窓から外を眺めやる。

 中庭だ。窓からは別邸の佇まいが伺える。


 その足元には、あの生垣ロッジ迷路が広がっている――昨晩の交戦に終止符が打たれたという、その場所が。


「確か、もう三年にはなるのだったか。カドルナ伯からの紹介状を持って君が我が家を訪ねてきたときは、また随分と遠くから働きに来る女性だと驚かされたものだったが」


 ホレンゾ=カドルナ家は、オルデリス公領と隣接するカドルナ州を預かる伯爵家だ。

 歴史の浅さゆえ家格こそ伯爵に留まっているものの、オルデリス公の傘下として郡を預かるフィッシャー伯爵家などとは異なり、カドルナ州ひとつとその中枢たる領都ルチルタスを預かる、大貴族と呼ぶべき堂々たる家柄である。


「ホレンゾ家の家政婦長ハウスキーパーと、折り合いをつけられなかったもので……」


「そうだったね。スレナは優秀なメイドだが、人と折り合うにあたって険の強いところのある気性だ。なまじ能力があるぶん、ひとたび上位者からの反発を買ったとなれば、ひどく毛嫌いされたであろうことは察せられたよ」


「新しい仕事先を紹介くださったホレンゾ卿にも、私を雇い入れ、のみならずお引き立てをいただいたトリンデン家の方々にも感謝しております。おかげさまで三年以上の長きに渡って、やりがいのある仕事をさせていただいています」


「私も君のように優秀なメイドを迎えられたことを嬉しく思うよ。アンリエットも君のことは高く評価している。自分の後にメイド長を任せるならば、スレナをおいて他にないとね――まったく、ホレンゾ卿には感謝に堪えないというものだ」


 庭を眺めやっていたトリンデン卿が、ふと視線だけを向けてスレナを捉えた。


「そのホレンゾ卿だがね。全部吐いたよ」


 ――部屋の空気が、一変する。

 何をでしょう、などと空とぼける愚を、彼女は犯さなかった。


「何を? とは訊かないのだね。では憚りながら私から語らせてもらおうか。

 無論、君をこの館へ紹介した理由とその経緯。そして君の正体についてだ――


 沈黙が、重く垂れこめる。

 しかしその時間は、さして長いものではなかった。


「――私の正体をご存知のうえで、こうして二人きりになられたと?」


 スカートのポケットへ手を伸ばそうとするスレナ――エスメラルダ。その挙動に先んじて、トリンデン卿は「おおっと」と降参を示すように両手を挙げた。


「私のように小心な男を、あまり脅かさないでもらいたいものだ。まず、この期に及んで君達に私を暗殺する理由などないし、もとより君にはその決定権もないだろう」


 あまりの空々しさに舌打ちしたくなるのをかろうじて寸前で自制しながら、ポケットの隠し武器へ伸ばしかけた手を戻す。

 トリンデン卿は執務机のチェアに座ったまま、あらためて彼女へと向き直った。


「そう。我が叔父ダモット・マクベイン亡き今、君達が彼へ義理立てする理由など何もない。

 君達が求めているのはルクテシアの隠れた窓口となるであって、我が叔父は君達にとってたまたま都合のいい条件が揃っていただけの相手にすぎない――取り入りやすく、つけ入りやすく、然る後に操りやすい交渉相手だ」


「ワドナー=ミスグリム伯が傲慢にして無能な方だから――と? 彼の暗殺から逃れ切った貴方であれば、確かにそう断じる資格もおありでしょうが」


「まさか」


 トリンデン卿は失笑し、大袈裟に肩をすくめながら首を横に振った。


「叔父は傲慢で私利私欲の塊のような御方だったが、決して無能ではなかったよ。彼は王立騎士団において確固たる地位を築き、その権限と人脈をもってオルデリス領の発展、オルデリス公家の権限拡張へ大いに貢献されてきた方だ。

 密偵頭としてのトリンデン家、その職責を支えるネットワークには、かの叔父によって形作られた領域も確かに存在し――それは今なお、その役割を果たしつづけているのだから」


 それらは決して、無能になしえることではない。

 ワドナー卿は粗野にして奢侈を好み、私利私欲のために己が権力を振りかざすに躊躇うところのない暴君であったが。しかし、彼を単なる無能と評するのは、その実像を見誤ることに繋がるだろう。


「彼がトリンデン=オルデリスの本家から分家のワドナー家へ放逐されたのは、ひとえに自身の悪行、その悪辣が目にあまったがゆえのこと――おおやけのために献身すべきトリンデン家の責務以上に、我欲を優先させて恥じることなき心根ゆえだ」


 能力において、不足するところはなかった。


 もしも叔父がその身を慎み、王国の『密偵頭』たる任に殉じる奉仕の精神を備えることができたならば――トリンデン家の領袖たる地位は過たずダモット・マクベインのものとなり、多少の不正や蓄財程度であれば、少なくとも過去のそれらは目を瞑られることにもなっただろう。


 本家に継ぐべき地位を持たなくなったフレデリク・ロードリアンは気楽な分家の跡取りにでもなり、『放蕩貴族』を気取って各地を呑気に遊歴してまわり――あるいは、自らこれと恃んだ朋友と共に、ひとかどの冒険者として身を立てる。

 そんな、仮想の未来があったかもしれない。


「君達にとって都合がよかったのは、彼がことだ。君達のような盤外からの使者の力添えなくして、状況を覆すこと叶わぬ立場にあったということだ」


 ワドナー卿は追い詰められていた。

 甥を抹殺する伝手のことごとくを潰され、周りにつけていたはずの味方も、ひとり、またひとりと切り崩されていた。

 彼に残されていたのは悪事の利益で繋がった、いついかなる時に見捨てられてもおかしくない悪辣な共犯者達。ただ、それだけだった。


 窮地からの逆転を求めるがゆえの焦り。焦燥がもたらした視野狭窄。

 その果てに迎えた、哀れなる結末――


「もっとも、叔父をそこまで追い詰めたのは他ならぬこの私なのだがね。ともあれその叔父が身罷った今この時、君達は新たな交渉先を探しているはずだ。違うかな?」


「……何が言いたいのです?」


 トリンデン卿の指摘は、そのことごとくが正鵠を射ていた。


 そして、新たな交渉先としてあげられる相手のうち、少なくともホレンゾ=カドルナ伯はトリンデン家に身柄を抑えられ、降伏している。一連の『演説』はその宣言だ。


 ルクテシアに潜伏する《特務》の司令塔たる少年士官オブシディアンは、交渉相手としてのホレンゾ=カドルナ伯を既に見限っているようだったが――仮にそうでなかったとしても、彼と共謀して魔物の密輸を働いていたワドナー=ミスグリム伯が死んだ今、カドルナ伯が今まで通りに《特務》を信用するとも思われない。

 それは、これまで協力関係にあった他の貴族たちにおいても同様だったが。


「その交渉相手に、私を選ぶというのはどうかね?」


「……正気ですか?」


 今度こそ、スレナは心から呻いた。


「交渉? つい昨日までワドナー伯と共謀して、当の貴方を暗殺せんとしていた我々と?」


「それは君達にとって、叔父が最良の交渉相手だったからだろう? つけ入りやすく、取り入りやすく、私が亡き後はトリンデン家の領袖としてルクテシアの密偵頭たる権利と資格を持ち――然るべき地位へつけた後は、握った弱みで脅すなり、煽てあげていいように操るなり、いかようにでも優位に立ち回れる交渉相手と見做せばこそだ」


 あっけらかんと言い放ち、トリンデン卿は自らの逞しい胸を叩く。


「だが、その叔父も今は亡い。現在の密偵頭たるこのフレデリク・ロードリアンは、次善の交渉相手として最適な存在とは思わないか?」


「…………………………」


「そも、君とて端から私の暗殺のために送り込まれたエージェントではあるまい。

 おそらく当初に与えられた任務は、ルクテシアの密偵頭たるトリンデン家へ潜伏しての内情偵察と情報収集。暗殺の指令が下ったのはごく最近――せいぜいが一年以内といったところだろう」


 じっとりと服の下で滲む汗の存在を、自覚せずにはいられなかった。

 目の前の男は、彼女の実情を驚くほど正確に捉えている。


「何故……そこまで」


「簡単なことさ。もともと暗殺のために送り込んだエージェントとして捉えた場合、君の行動はあまりに安穏としすぎている」


 『スレナ・ティンジェル』としてトリンデン家のメイドとなってから三年。パーラーメイドという比較的時間の自由度が高い立場におさまり、メイド長アンリエットの信頼を得てトリンデン家の差配にも関われるようになった。

 そう。それだけだ。


 確かにこの三年間、彼女は『暗殺』という試みに至っていない。

 それは当初からの任務として与えられておらず、それの遂行を命じる指令もなかった。

 だが――


「……暗殺の手筈が整わなかったから、とは、思いませんか?」


「確かに。我が家はそのような卑劣な試みに対し重々警戒を払っているが」


 せめてもの抵抗として反駁する彼女へ、トリンデン卿は同意を示すようにうむうむと頷く。


「だがね、ナテル特務曹。だとしても君達にその心積もりさえあったなら、やりようなどいくらでもあったはずだろう。たとえば」


 トリンデン卿は執務机の抽斗から、古風なマッチ箱を取り出した。


 黄燐のマッチだ。

 ルクテシアでは数年前に生産が禁じられたものだが、官憲の厳しい取り締まりのもとにおいてなお、市場からの完全な撲滅までは達成されていない。下町や地方の市場へ行くなり、あるいは備蓄倉庫や古い家の物置なりを漁れば、今でも容易に入手可能なものである。


 トリンデン卿は紅茶のカップをソーサーからのけると、箱から数本のマッチを取り出した。

 皿に見立てたソーサーへ、ぱらぱらと落とす。固いものが陶器を打つ甲高い音が、しばし執務室の空気をキンと突き刺していった。


「――『マッチ棒のスープ』。

 溶け出した黄燐の毒で死に至る――黄燐の毒性が広く知られず、黄燐マッチがマッチの主流であった頃は、これで『病死』した御方が少なからずあったようだ」


「…………………………」


「あるいは、こうだ。たとえば靴の踵を少し折れやすくしておき、あるいは階段の縁をよく磨いて滑りやすくしておく――すると私は運悪く屋敷の階段を踏み外し、頭を打って『事故死』するかもしれない」


 たとえば、食中毒を起こしやすい食材を食事の中に混ぜておく。

 たとえば、風呂場の床に水垢を残して、少しだけ足を滑らせやすくしておく。

 たとえば、飾り物の鎧が手に持つ斧槍ハルバードを、少しだけ外れやすくしておく。


 ひとつひとつは些細な可能性かもしれない。

 だが、時間をかけ、数を積めば、目論見通りの死に至る可能性は確実に上がる。どれかひとつに引っかかってくれれば、それで標的は死ぬかもしれず、首尾よくいけば検証不能な『暗殺』が達成される。


「こうした形で試みられる犯罪は、『プロバビリティの犯罪』と呼ぶそうだ。この呼称そのものは、アノッド・ハンター氏の小説で知ったのだがね」


「ドナの小説ですか」


「実に読みごたえのある物語だよ。君さえよければ今度貸してあげよう」


 トリンデン卿はおどけた口ぶりで言い、机上に積まれていた本の表紙を指で叩いてみせた。


「パーラーメイドという立ち位置では難しいかもしれないが、《特務》のエージェントが君ひとりということもあるまい。複数名をメイドとして送り込み、手分けして罠を仕掛ければ、いずれひとつくらいは上手くいくこともあるだろう」


 マッチ棒を散らしたソーサーを、机の隅へとのけながら。


「しかし君達はこの三年の間、それら試みを行うことはなかったようだ。そして今回、機甲人形オートマタメルリィ・キータイトを用いての実力行使という、極めて手段でもって私の暗殺を試みた」


 ――果たして、それは何故だったか。


「君達はのだ。私が哀れにも暗殺者の手にかかった暁には、叔父へと恩を売ればそれでよし。私がこれら暗殺から逃れ得た暁には、この一件は特異なる技能をもってこの私へ肉薄した《機甲人形オートマタ》の力と存在を誇示する、恰好の展示場ということになる」


 そう。

 トリンデン=オルデリス卿の暗殺は、端からその達成を必須とされたものではなかった。


 何のことはない。《L-Ⅵメルリィ》の機主マスター権限がエスメラルダへ与えられ、彼女の生殺与奪を一手に握ることをよしとされたのも――暗殺達成を必須とされない扱いの軽さゆえの、であったからこそだ。


「それは私に対し、君達の有為性を示すものだ。

 フレデリク・ロードリアン個人の暗殺に注力し、邸内の住人達を標的としなかったのも、実のところそのためではないのかな?」


 それは即ち――今回の暗殺が未達と終わったとき、トリンデン卿と交渉可能な余地を残すための『配慮』だ。


「結局……貴方は何が仰りたいのですか?」


 低めた声で、彼女は問いを突きつける。


「まさか、ご自身の名推理を犯人に向けて開陳するため、私をここへ残した訳でもないでしょう。貴方はいったい、何がお望みなのですか?」


「望み? はは、望みか。そんなものはひとつに決まっているだろう」


 トリンデン卿は愉快な冗談を聞いたとばかりに、肩を震わせて笑った。


 そして、席を立ち。両腕を広げて。

 トリンデン卿は堂々たる態度で告げた。

 即ち――


「――だよ!」


 堂々と――彼は高らかに言い放った。


「そう、外交! 我がルクテシアと貴国ガルク・トゥバスとの外交だ! ルクテシアの密偵頭たる私が君達へ望むもの、他にいったい何があるというのかね!?」


 圧倒され、後ずさる彼女へ。彼は畳みかけるように言い放つ。


「それは私の望みであり、同時に君達の望みでもあるだろう。互いに膝を詰め、夜を徹してこれからの友好について語り合おう。我がルクテシアと貴国ガルク・トゥバス、互いの利益のため――我ら互いの手を取り合い、共存共栄を目指そうではないか!!」


 その、丸太のように逞しい腕を真っ直ぐに差し伸べて。

 トリンデン卿は彼女へと、力強い笑みを向けてきた。


「君はそのための伝令、平和の鳩だ、エスメラルダ・ナテル――いいや、スレナ・ティンジェルよ。これからも末永く、我らのための力となってくれたまえ!!」


 もはや返す言葉もなく、彼女は認めざるを得なかった。

 この男はエスメラルダひとりの手に負える相手ではない。


 ――格が、違う。


「……《特務》の司令へ、今の話をお伝えすればよろしいですか?」


「いいや? まずは君のもとにあるだろう通信機、この私へ譲ってもらいたいな」


 トリンデン卿は椅子につきなおし、ゆうゆうと頬杖をつく。


「然る後、君達を統べる指揮者コンダクターとの間で直接の対話に臨みたい。君にお願いしたいのは、そのための許可を得ることだ」


 今にして、思い知った。

 あの少年士官――オブシディアンは、この要求に否を返しはしないだろう。


 すべてはあのすまし顔をした糞餓鬼と、目の前の男が描き出した盤面のうち。


 この状況こそが、此度に望まれた落着点――それと想定されたうちのひとつ。

 今回の一件、一連の『暗殺』は、この状況へ至るためのでもあったということ。その、証明。


「あと、もうひとつ――君には今後もスレナ・ティンジェルとして、我がトリンデン家に仕えていてほしい。どうかこれからも頼もしき先達として、華やかなるパーラーメイドの娘達を導いてあげてくれたまえ」


 きつく拳を固めて、屈辱に耐える。

 もはや今の彼女にできるのは、それだけしかなかった。


「そして、メルリィ・キータイトへの復讐は、今この時をもってどうか諦めてくれたまえ。今や彼女は我がトリンデン家の客分であり――そしてこれより後は、このフレデリク・ロードリアンの愛すべきなのだ」


 微笑んで、告げる。否を許さぬ傲然さで。


 そのすべては、エスメラルダの敗北、そしてこの後の屈従を突きつけるための――穏やかにして絶対なる、上位者の宣告だった。

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