100.終演:《あなたが決して果たしえない、たったひとつの祈りのために》
【再演算】
……………………………………。
…………………………。
『――起動試験終了。同調接続解除――
無機質なコンクリートに四方を覆われた、広いばかりの部屋。
高い天井から乏しくまばらな人工の照明が白々とした灯りを落とすそこは、元より十分に明るくはなく、むしろ薄暗く寒々しい場所だった。
ただ――そこを充たす空気は、安堵に緩んで暖かい。一仕事終えた後の弛緩で賑々しくなったスタッフの雑談が高い天井に反響する中、男性オペレーターの声が響く。
『お疲れさまでした、ヴェルナー少尉。《L-Ⅵ》メルリィ・キータイト、全試験工程終了です。もうギアを外しても大丈夫ですよ』
『ああ』
リクライニングのチェアに体を預けていた男が、目元までを覆う構造のヘッドギアを外す。
短く切った髪にはそれでも長時間ギアを嵌めた痕が癖となって残っていて、ギアを自身の膝に置いた彼はさっそく痕がついて固まった髪をわしゃわしゃとかきまわすようにしてほぐしていた。
『ご苦労だった、マキシム! 女に化けた気分はどうだった?』
『ふたつ前の任務とさほど変わりはありませんよ。あの時は女の格好をして、ミスナンジェに潜伏していましたからね』
『おおう、そうだそうだそうだった。あの頃のおめえはこんくれえの可愛らしいガキだったよ。女の子みてえに綺麗な顔してな!』
上官である大柄な男は、大袈裟な口ぶりで冗談を飛ばす。
『それがまあ今じゃどうだ?
『大尉に
真面目ぶって突き放すマキシム少尉に、上官たる大尉は階級差を感じさせない気さくさで、「うるせえ」と笑い混じりに唇を尖らせる。
『マキシム!』
上官と彼の話に一区切りがついたと見て取ってだろう。観測スタッフのスペースに控えていた女性の《特務》が、軽やかに駆けよってきた。
恋人でもある若い娘の呼びかけに。マキシム少尉も目に見えて相好を崩しながら、リクライニングチェアから立って彼女を迎える。
『メル! お疲れさま』
『お疲れさまって――私は何もしてないわよ? そこであなたを見てただけ』
観測機器の表示板や
『でも変な感じだったわ。そこの女の子……さっきまで、あなたが中に入って動かしていたのよね』
エスメラルダ特務曹が
自らの意思を持たず。形成人格を有さず。ただ、操主の意思と指令のみをもって稼働する
『機体に投射された俺の思考がね。まあ、実際のところ俺も妙な感覚だったよ。目の前に俺がいて、なのに彼女の手足で触れた感覚はおれの感覚として手足に感じられるんだから』
『同調接続ってのはそういうものですよ。
『何でこんなちいさな女の子なのかしら? やっぱり、相手の油断を誘えるように?』
基本的なところで首をかしげる恋人に、マキシム少尉は「メル」と苦笑する。
『
『ふぅん……』
特務曹はひょこひょこと近づいてきて、顔を寄せたり話したりしながら
その視線が、ちらちらと機体の下腹部――股間あたりを泳ぐ。
『メル、見すぎ』
『ぅえ!? それは、その……だって気になるじゃない! この子ついてるのかどうかって!』
『……フレーム本体の機構としては、男性生殖器は付属しません。それらは男性型への擬態時に、流体
疲れたような声で、そのくせ生真面目に説明するのは――ロステム工廠長。
否。この彼は、ロステム補佐官。
――そう。
これらはすべて、拙の契法晶駆動基による仮想の再演算。
起動試験以前から集積されていた観測情報を基に再構築した、ありえなかった分岐の未来だ。
『
『……でも、この子が完成したら。少なくともマキシムは、そういうことをしなくて済むようになるんでしょう? この国から離れることも』
『身体だけはね』
恋人の隣まで歩み来て、
それでも――国家のため、一生を賭して献身と挺身を捧げるのに比べれば、はるかに自由ではある。
『それに、そこに至るまでの課題も山ほどあるらしい。今日の起動試験は、あくまでその最初の一歩だ』
『工廠の皆さんには申し訳ないけれど、私はそれくらいの方が嬉しいわ――そうして積まれた課題が綺麗に掃けるまでの間は、マキシムは国元に残ってこの子の
『……そうだ。だから、君と一緒にいることもできる』
二人は一時、優しいまなざしで互いに互いを見つめあい――やがて、ふたりで
『そういえばこの子、名前は何だったかしら?』
『《L-Ⅵ》――』
『
『なら、メルリィ・キータイトという名前だけど』
『そう。じゃあ、あらためて――はじめまして、メルリィ』
エスメラルダ特務曹が、
まるで子供か愛らしい動物相手にするように、ひらひらと手を振りさえする。
『マキシムをよろしくね。マキシムと――彼の同胞達、私達みんなの未来のために』
決して
はじめから
――すべてのひとの、幸いと可能性のために。
その
最初からわたしがいなかった世界。
何もかもが正しく果たされた未来。
何一つ失われることなく。誰一人失うことなく。すべてのひとが幸いなるまま、未来へ繋がる可能性を、その身に抱いていられたはずだった。
――すべてのひとの、幸いと可能性のために。
この、仮想の未来こそが。
きっとここにいるすべてのひとにとって、最善の結果だったのだ――
◆
「……………………………」
ふと。
目の前が開けたとき、メルリィは誰かの背で揺られていた。
「あ、起きた」
「……ユイリィ・クォーツ……?」
首をねじって視界の端へこちらを捉えたのは、ユイリィだった。
自分が彼女の背におぶわれて
「……
「どっちかというと再起動かな。契法晶駆動基の負荷になってた演算を止めて、
ユイリィは脚を止めず、何でもないことのように言う。
「あなたはどうかしてるよ。擬態してた間も、わたしと戦ってた間も、バックグラウンドでずーっと別の演算をやってただなんて」
「そうですね……」
彼女の背に顔を埋めるようにしながら、溜息に解けるような返答でそれを認める。
けれど――そうか、そんなものまで見られてしまっていたのか。
もはや変わりようがないと理解していながら、なお止めることができなかった過去の検証。
いつから、どこで、何を正せば――すべてのひとの幸いと可能性を残し得たのか。
あの方が、その事績にふさわしい未来を辿ることができたのか。
何度も何度も飽くことなく繰り返して。何度も何度も、同じものを見ると分かっていながら。これまで一瞬たりとも、やめることができずにいた終わりのない再演算。
「……降りましょうか?」
「歩けるの?」
「脚部の損傷はさほどでもありませんでしたから」
メルリィがそう答えたあと、ユイリィはどういう訳か口をつぐんで黙考した。
やがて、
「……ううん、やっぱりいいや。このまま迷路の入り口まで行っちゃお」
「いいのですか? 背中に負っていて。
「
「まさか」
心のうちで白旗を揚げて、ゆるゆると首を横に振る。
「このうえ何かをするつもりも、そのための力も
「ユイリィだって、このうえあなたをどうこうしようなんて思ってないよ。トリンデン卿だってきっとそう」
その推測はあやまたず正鵠を射たものであろうと、メルリィも思う。
「あとね、今はちょっと時間なくて。実はわたしの突入から二十分弱で、トリンデン卿が集めた冒険者で編成した掃討隊が迷路に入ってきちゃうんだよね」
そうなれば、警戒心を限界まで高めた冒険者達に、出会い頭に切り払われるような事態も起こりかねない。
もちろん、それでやられるつもりなどユイリィには毛頭ないのだが。だとしても、まず余計な衝突が回避できるに
「だから、なるべく向こうが入ってくる前に、迷路の入り口まで着いておきたいの」
そうすれば、あとは
靴底が地面を蹴る律動的な音が、夜気に鋭く走って、解ける。
「……これからどうするつもり?」
「どう……と、いうのは」
今のメルリィは、いわば捕虜だ。第一にはトリンデン卿ないしユイリィの裁きに服するものだ。
もしその後があるとすれば――おそらくは新たな代行
「《特務》に戻るつもりでいるなら、ユイリィさすがに止めるよ?」
ユイリィの口ぶりは、どこか憤然とした気配をはらんでいた。
「《特務》はあなたとエスメラルダ・ナテルの関係を知っていたはずだよ。そのうえで彼女の指揮下にあなたを置いたのは、任務という体を借りて彼女があなたを擂り潰すのを、《特務》は容認していたということじゃないのかな」
「そうでしょうね……」
否やはない。元よりメルリィは、彼女の補佐を命じられた《
「それが何か?」
「何かじゃないよ」
ユイリィは鋭く言い返してくる。
「ランディちゃんは、あなたがひどいことになってほしくないってゆったんだから。この場はまるくおさまったからって、後であらためて自分を粗末にされたら困るの。
もしそんなことが起きて、あなたがそういう目に遭ったんだって後になってランディちゃんが知っちゃったら、どんな顔すると思う?」
きっと、すっごく傷つくんだから――と、ユイリィは怒っていたようだった。
その、殊更に大袈裟な感情表現が、今のメルリィには少しおかしい。
「
この身の性能が及ぶ限りは、彼女を――エスメラルダ・ナテル特務曹の任務を助け。
力及ばず終わる日には、彼女の復讐の完遂をなす。
「それでいい、
「…………………………」
「《
事の次第、その一切を詳らかにし、その理由をもって
『メルリィさんは、そのひとたちへの償いがしたいのだね――』
「そう仰って、こころよく
でも、今なら。
あやまちを、取り返したかった。
たぶん、最初はただ、
山積みの
それは、はじまりの日――メルリィ・キータイトの、覚醒の日。
理由を持たずに生まれてしまった人格。その覚醒。
ただそれだけの結果として失われてしまった、奪ってしまった、たくさんのもの。
マキシム・ヴェルナーやエスメラルダ・ナテルだけではない。
マキシム少尉を取り巻く多くのひとびとから。
第五工廠の
――《
「
すべての人の、幸いと可能性のため――きっとそれは『より良く生きる』方法で、
それは誤謬だ。幾万幾億の再演算を重ねても、あの日が覆ることはない。
もし、すべての簒奪を覆すことができたなら。
それはきっと、メルリィが夢見てしまっただけの――決して果たし得ない、祈りの形。
けれど、それは決して果たし得ないと分かっていて、取り返しがつかないことなのだと理解していたから。
だから――エスメラルダ・ナテルの復讐で擂り潰されても、構いはしないと。
それで、彼女の心が僅かでも癒され、晴らされるのなら。それで。
「もし――」
ひとりごちるように微かな声で、ユイリィは問いかける。
いつしかユイリィは迷路の外周に沿って走っていた。出口が近づいている。
「もし、正しくあなたの起動が果たされていたら。あなたは最初から、ここにいなかったはずの人格だった」
「ええ」
それでもいいと。一度はそう決めたはずだったのに。
今は――どうしてだろうか。それが何よりも恐ろしい。
この、心が。思い出が。
何ひとつ繋がることなく、擂り潰されてしまうのが。
「
――出口だ。
外周の切れ目、迷路の入り口に当たる出入口へたどり着く。そこを塞ぐ障壁を、ユイリィは拳で叩く。
音に気づいたトリンデン卿と冒険者達が振り返り、それからめいめいの形で、各々の相好を崩したようだった。
ある者は無事を喜ぶ安堵に。
ある者は事態が解決した喜びに。
またある者は、最大の賞金首を目の前で掻っ攫われた落胆に。
(いつか……)
ユイリィの背中に預けていた上体を起こし、投降を示す体で両手を挙げながら――
もし、いつかにそれが許されるのなら。祖国へ帰りたいと、泡が浮かぶようにふわりと思った。
償いを果たせなかった、その結果を抱いて。あの旅立ちの日に自分が残したあやまちを、謝りに帰りたい。
《特務》としてではなく、ただのメルリィとして――あの日、こころよく送り出してくれたひとのところへ。もう一度。
あの日、特務と共にあの家を出て。
反故にしてしまった《
――結界が解け、張り巡らされていた障壁が降りる。
冒険者と護衛騎士が取り囲む中、メルリィは拘束を受け容れ、トリンデン=オルデリス家の捕虜となった。
これが、《遊隼館》における一連の顛末、その終わり。
トリンデン家の当主を巡る陰謀の、これが終演の幕引きだった。
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