97.《あなたが決して果たしえない、たったひとつの祈りのために》・②
――《特務》。
ガルク・トゥバスを支える三つの柱がひとつ。技師。軍。そして――特務。
《L-Ⅵ》――
「……《特務》に、
そう。そうだ。彼らが《特務》だとして、だから何だというのか。
「
「正しい。確かにその点は、君が指摘するとおりだ」
ヴァーベイン――第八工廠を預かる《
「だが、
「何を――」
バカなことを。
毒づきかけるメルリィへ、ヴァーベインは微笑んだ。
「エスメラルダ・ナテル特務曹のことを覚えているかい?」
「!」
毒づく言葉は、空気を呑む感覚と共に掻き消えた。
「覚えていたようで何よりだ。《
「なぜ……」
メルリィは呻く。
忘れられるはずがない。ただ、ずっと思い出すことなく、いられただけで。
――あの日。《L-Ⅵ》最終起動試験の時に。
《
メルリィが、己が最初の
その総身から染み出す不吉な血だまりに沈む彼の身体にとりすがって、叫ぶように泣いていた――
『いやああぁっ、少尉! 少尉……マキシム……!』
――エスメラルダ・ナテル特務曹。
メルリィが殺した彼の、マキシム・ヴェルナー特務少尉の――恋人、だったひと。
「なぜ……《
「ヴァーベインで構わないよ、お嬢さん。気さくにレイスと呼んでくれてもいい」
ヴァーベインは病人のように痩せた面差しに、ニコリと友好的な笑みを広げる。
「彼女はある任務を帯びて本国を離れ、我らがガルク・トゥバスよりはるか東の
「ルクテシア……」
「言うまでもなく、
世間話を口にする軽さで、ヴァーベインはつらつらと言葉を続ける。
だが、それは奇妙だ。メルリィの持つ情報と、それらは符合しない。
「エスメラルダ・ナテル特務曹は《特務》ではありますが、諜報員ではなかったはずです。彼女は本国の支援要員で」
「事故で欠員の出た間諜の補充要員にと、自ら進んで手を挙げたそうだよ――無論、元が本国の
ゆるゆると、嘆くようにかぶりを振る。
薄く微笑む細面はその選択を哀れんでいるようでもあり、あるいはその愚かさに呆れているようでもあった。
「健気なこととは思わないかい。愛した男の死で欠けたる人員の穴を、自らの身命でもって埋めようという覚悟――その一念でもって、真実、
「それはいったい何を意図するお話ですか、《
彼はあの事故を知っている。
メルリィが殺してしまった彼と、その恋人であった彼女を知っている。
たぶん、もっと多くのことも――メルリィが特務からも第五工廠からも離れ、《
「エスメラルダ・ナテル特務曹の現在と、
「
「は……?」
生まれてはじめて与えられ、果たせと命ぜられる
その存在を顕す至上命題。
だが、
「
「超長距離遠隔思考操作による《
声を荒げるメルリィを遮り、宥めるような猫なで声で語る。
「これが正しく完成を見た暁には、《特務》においても希少なる
ナテル特務曹とヴェルナー特務少尉は、結婚の約束を交わしていたふたりだった。
だが、
己の一切を偽り、時には潜伏先で家庭すら作り、人生を捧げて本国のために密命を果たし続ける。それが
だからこそヴェルナー特務少尉は、《L-Ⅵ》起動試験の
《L-Ⅵ》に搭載された超長距離制御と擬態機構が実現、量産に至れば、もはや間諜は本国を離れる必要をなくす。祖国に身を置きながら
そして、仮にそこにまでは至らずとも。
《L-Ⅵ》の
恋人の、傍にいることが叶う。彼女と家庭を持つことさえも。
「しかし悲しいかな、その実現に手が届くことはなかった。
第五工廠における最終起動試験は失敗に終わり、この際に明らかとなった問題点は、その後も続けられた研究・試験開発を経てなお解消されることはなかった」
――起動実験は失敗に終わり、ヴェルナー特務少尉は命を落とした。
事故の原因検証を経て超長距離制御機構の改修が行われたが、これは想定の性能を満たすことができず――結果、《L-Ⅵ》改修量産型のプランは凍結。
後に、計画そのものの正式な破棄が決定された。
《
この先、第二のマキシム・ヴェルナー特務少尉が生まれることだけは――決してなくなった。
「かくして君の
――そして。それゆえに。
メルリィのファースト・オーダーが果たされることは決してない。
それはただただ無為に、マキシム・ヴェルナー特務少尉の命を奪い、彼にまつわるいくつもの悲劇をまき散らした。ただそれだけのものだった。
「そこまで分かっていながら――」
「――と。君は考えているのだろうね、《L-Ⅵ》?」
「な――」
機先を制され、絶句する。
男は幼児をあやすようなにんまりとした笑みを受けべ、大きく両腕を広げた。
「その認識は誤りだ、メルリィ・キータイト。それは君に実装された新規技術の失敗であって、《L-Ⅵ》という機体の
――混乱している。
そのことを、自覚していた。
目の前の男が紡ぐことばは、その一言一言がメルリィの足元を掘り崩し、危うくしてゆくかのようで。
「話を戻そう。近く、エスメラルダ・ナテル特務曹には要人暗殺の命が下される」
――暗殺。
ガルク・トゥバスの国益を妨げると判断された諸国の要人暗殺は、諜報活動と並んで《特務》が担う専任事項のひとつだ。
「しかし、
元々が本国の
さらに、三年も前から任務のために潜入しているとあっては、訓練期間も決して長くはなかっただろう。
「
「その増援として
「馬鹿げた話かね?」
ヴァーベインは失笑した。
何がそこまでおかしいのか、くつくつと肩を震わせ、押し殺して引き連れたような笑い声を零す。
「いや失敬。たしかに君の立場からすれば、それは到底考え難い選択なのかもしれないね。
だが――たとえばだ。君はこんな風に想像力を働かせることはできないだろうか」
軽く人差し指を振るジェスチャーと共に、ヴァーベインは言う。
「この場にマキシム・ヴェルナー特務少尉がいたならば。彼は何と言うだろうか」
真綿で首を絞めるように、ゆるゆると。
まるで蛇が這いずるようにして、男の言葉が本題に迫ろうとしている――その気配が忍び寄っている。メルリィの足元まで。
「彼が今ここにいたならば。一人、異郷にある恋人の苦難を思わずいられるだろうか。自らの手でもって、彼女の苦難を救いたいと願わずいられるだろうか」
「その仮定に何の意味があるというのですか。彼は死者です。彼は――」
「そうだね。彼は死者であり、異郷の恋人へ何らの力も差し伸べる手を持たない」
だが――と。
どこか焦点を欠いた、熱に浮かされたような男の相貌が、メルリィを捉える。
「だが、彼には君がいる。彼の手が届かぬ遠き異郷に身を置いて、その手となり足となり彼の意を遂行する
「わた、し……?」
「そうとも! 故にこそ、私は《特務》の使者としてここへ来た。
君の
彼は死んだ。メルリィが死なせた。
操者たる
結果、同調接続の切断によって、接続を形成していた励起法力は行き場をなくし操者へと逆流。彼を惨殺した。
「
君は彼という
メルリィへ語りかける男の声は、まるで蛇の言葉のようだった。
喉に絡みつき、呼吸を締め上げる、
十二創世神の教えに言い伝えられる神話のひとつ。
この世と異なる世界に住まう魔なる者達が、現世において人に悪を囁くとき――その現身として、彼らは斑の蛇を選んだという。
「死者の国――彼岸という異郷から、彼は恋人を救う術を求めるのではないだろうか。そしてその手は今、確かにここに在る。
己が
「…………………………」
――ふと。
霞のように熱狂を消して、ヴァーベインは静かに、メルリィへとその痩せた手を差し伸べた。
「
その遂行は君という
――
――第五工廠。
わたしが、あのひとに負わせてしまったもの。
「彼は……」
呻く声は、ひどく掠れて聞こえた。
「マキシム・ヴェルナー特務少尉は……
「あれは事故だ。そして、事故は起こるものさ、どうあってもね」
空はまぶしいくらい晴れ渡って、遠く遠くどこまでも、果ての先まで拡がっているかのようで。
ここにあったはずのものも、ここにあってほしかったものも、すべては墓石の下へおさめられた亡骸を残して、その果てまで流れていってしまうようで。
だから、もうここには手を伸ばせるものなんてひとつも残ってなんかなくて、問いかけることばに応えてくれる声もない。
分かってる。ちゃんと、わかってた。どれだけあの日を想い、再演算を繰り返したとても、最善の結果など分かりはしない。何一つ変えられはしない。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何なりと」
いつしか自分の足元へと落ちていた眼差し。その片隅に、白々とした新しい墓石が引っかかっている。
記されるべきものを、あのひとを顕すたくさんのものを取りこぼした、
(――ああ)
メルリィは目を閉じ、その一切を視界の外へと追いやった。
もう、答えが返ることはないのだろう。だとしても、未だ知り得ないすべては問いかけ続ける以外に術がない。
メルリィは、他になすべきやり方を知らないから。
《
「その遂行は、より良く生きることになりますか」
「なるとも」
縋る問いかけに、男は頷いたようだった。軽々に、一瞬のためらいもなく。
「
それは君の真実の価値を証明し――第五工廠と敬すべき《
視界を塞いでいた
メルリィの目の前には、三日月のように
彼の後方でひっそりとかぶりを振る二機の
――善行。
ただ、唇の内側で繰り返すことばに、男は大きく首肯する。
「そうとも。人がより良く生きるための行いだ。君の善行は、きっとすべての人の幸いと可能性へ貢献する行為となる」
――そう?
ああ――そうか。そうなのか。
ひとが、よりよく生きるための善行。
なら、わたしはきっと、それを果たすべきなのだろう。だって、
(――そうでしょう?)
だって、わたしはあの方にとっての他者。
目的を与えられることなく、ただこの世界へと生まれ落ちた理由のない人格。
あなたは、こんなわたしを、そう呼んでくれたのです。だから、
だから――
………………。
……………………………。
◆
自分の意識が落ちていたことを、メルリィは夜空を見上げる自身の認識によって理解した。
ていねいに整えられたその枝葉を枕に座り込んで、
何か、古い記録を見ていた気がする。
観測情報の整頓を誤って、古い
いつだったかに、その話を
『――そうか。
と――メルリィには否とも応とも判じかねる感想を口にしていた。たぶん、あの時の彼はメルリィの答えなど必要としていなかったし、「そうか、そうか」と何度も頷く彼が楽しそうだったので、メルリィもそれだけで満足だった。
人が『夢』なるものを見るのだ、ということを教えてもらったのも、あの時だったはずだ。
願望や未来の展望としての『夢』ではなく、深い眠りの中で見る幻想と記憶の『夢』。
「
――どうせ見るなら、もっと別の『夢』が見たかったな。
「より良く生きる、とは……何ですか……?」
問いかける声は掠れ、星が瞬く暗い緞帳の空へと吸われてほどける。
機体の異常を告げる
異常を告げられたところで、自分にはどうしようもない。
騎竜の突撃で受けた
次の交戦は、何らなす術もなく無様に決着するだろう。
「教えてください、
エスメラルダはメルリィの任務達成など期待していなかったし、そもそも暗殺の成功さえ、端から望みはしなかったのだろう。
トリンデン卿の暗殺計画は、とうの昔にその前提から破綻していた。
ルクテシアにおけるガルク・トゥバスの協力者であったワドナー卿は既にその地位を追われて逃げ隠れするばかりの身の上で、仮に今の時点で暗殺が成功したところで、巻き返しがかなうような段階ではなかった。
もはや、この暗殺によってガルク・トゥバスが得るものはない。
状況を見切った《特務》のエージェントは、次々と離脱を始めていた。
それでもなおエスメラルダが任務の続行を具申し、暗殺計画の続行を選んだのは――そう、今ならその意味が分かる。メルリィを、こうするためだ。
この結果のためだ。
メルリィは嗤った。ひとりきりで。
あの日。メルリィがはじめて《
《
メルリィ・キータイトは何一つ果たせず、無様に、無意味に、何の価値もなく――卑劣で汚らわしい、忌むべき
その証明。ただ、それだけの結果。
「わたしは……より良く、生きられましたか……?」
ええ、それでもいいのです。何一つ、構いはしないのです。
だって、
だから、彼女がこの結果を望むのならば――この結果が、彼女の幸いと可能性に奉仕するものであるのなら。
それもいい。それでいい。
だって
目を閉じて、美しい星空を遠く世界の外へと追いやって。
ひとつ、大きな息をつく。
「――見つけたよ」
それでも、まだ。
目を開いたその先。左右を生垣に挟まれた通路を塞ぐようにして、
(やっと……)
メルリィはうっすらと微笑を広げる。
随分遅かった。たくさん足掻いて、みっともなくもがいて、そのせいで回り道もした。けれど――ようやく、ようやく終わりが来た。
「ようこそ、ユイリィ・クォーツ……待っていましたよ」
――《L-Ⅹ》ユイリィ・クォーツ。彼女がそこにいた。
このくすみきった舞台に幕を引き、終演の
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