96.《あなたが決して果たしえない、たったひとつの祈りのために》・①
《
ここにあったはずのものも、ここにあってほしかったものも、すべては墓石の下へおさめられた亡骸を残して、その果てまで流れていってしまうようで。
『人生を数多の研鑽に捧げた偉大なる研究者、ここに眠る』
のっぺりした墓石に刻まれたその文句の、何と白々しいことだろう。
ここに彼の亡骸はあるけれど、彼はもうここにはいない。
――あの方の素晴らしさは、こんなことじゃない。
刻まれたことばはあまりに無機質で、記されるべきたくさんのことを取りこぼしている。
《
こんなにもはっきりと、足りないことがわかっているのに。
欠けたるそれらを提示できない。
なにひとつ、形にできない。
メルリィ・キータイトはこんなにも愚鈍で無知で、なのにその愚かさを叱ってくれるひとが、無知を正し導いてくれるひとが、もうどこにもいない。
だから、メルリィには分からない。
ここに欠けたるすべて。欠けているとだけはっきりと理解できるすべての、正体がわからない。
「…………………………」
葬儀には、突然なことであったにもかかわらず少なからぬ参列者の姿があった。
けれど、その多くは買い物や共同設備の当番活動で日頃メルリィと関わりがあった町の人々で、彼らはただ知己であるメルリィのため、半ば以上――否、『ほとんど』というのが正確ではあっただろう――葬儀の手伝いとして集まってくれたひとびとだった。
もちろん、彼ら彼女らの厚意がありがたくなかった訳ではない。
喪服など備えのなかったメルリィのために服を貸してくれたのも、呆然自失のメルリィに代わって葬儀の支度を整えてくれたのも、町の人々だった。
そして、縁者が果たすべき一切を肩代わりしてくれたのは、たまたまこちらを訪っていた《
遺産整理の話を遺漏なく整えるため呼ばれたはずの彼らは、何もできないメルリィに代わって必要なことのすべてをやってくれた。
あの日、あの時から葬儀の日に至るまでの記憶は、メルリィの中からほとんど欠落していた。
司祭の祝詞が終わり、亡骸をおさめた棺が墓穴へと下ろされ、渡されたシャベルで親族たちと共に棺へ最初の土をかける間も――その後、町の男達の手によって棺が埋められ、墓石で封ぜられるまでの間も。
メルリィは目の前のものなどろくに見えていなかったし、声を掛けられ促されなければ何一つまともにできなかったし、そんな己を痛ましげに見つめるひとびとの同情といたわりの眼差しにも気づくことはなかった。
それはどちらにとっても幸いなことだった。
もし、彼らの眼差しに少しでも気づいていたならば――きっとメルリィは恩知らずにも、彼らに向かって喚いていただろう。
なぜ
「メルリィさん」
呼び掛けに気づいて顔を上げると、そこには《
痩せた老爺の面差しや声は、兄のそれと似ているところもあればそうでないところもあって、メルリィは駆動基を軋ませる砂のようなざらつきに何度も演算を狂わせかけた。
「私達はそろそろ家へ戻るけれど、メルリィさんも一緒に戻らないかい」
あらためて見渡してみれば、郊外の墓地にいたのはメルリィと彼のふたりだけだった。
弔いの祝詞を終えた司祭も、参列の人々も、とうに《
たぶん彼は、それでもずっとそこで待っていてくれたのだと、唐突に理解した。
「今後のことも、きちんと決めなくてはいけない。あなたのこれからのことも――」
「――申し訳ありません」
その呼びかけごと、彼を視界の外へ追いやって。
メルリィは真新しい墓石を見下ろした。何もかもを無差別に、斟酌なくはじき返すような、白くて新しいばかりの石板。
「
「メルリィさん……」
「お願いします。まだここにいたいのです。……お願いします」
「…………………」
老爺はそれ以上、メルリィに帰宅を促すことをしなかった。
懇願を無視して手を引かれれば、所詮は《
しかし、彼は温厚で情の深い人物であり、それゆえにメルリィを慮ってひとりで墓地を後にした。
「では、私も先に戻るよ。……暗くなる前には戻ってきなさい」
「はい」
――そして。
墓地にはメルリィと、《
文字通り、意思もなにもない人形のように立ち尽くして。
(なぜ……)
なぜ?
何度も何度も、己の中で問い返す。
契法晶駆動基の演算、その能うる限りをつぎ込んで、何度も何度も何度も何度もあの日を
(なぜ……?)
いったいどこで間違えた?
どこの間違いを正せたなら、このあやまちを修正することがかなうのか?
呼ばれてきた医者は、急性の発作であると診断を下し、嘆くように首を横に振った。あとから駆けつけたカーレル医局長の見立ても同じだった。
本当に僅かの間のこと――長く苦しむことはなかっただろうと、彼らは口をそろえてせめてもの慰めを語った。
では、
同じ部屋でずっと
でも、
仮に気づけたとして、その後は?
わからない。やってみなければわかるはずがない。そしてその機会は、永久に訪れることはない――とうの昔に、メルリィの手をすり抜けてしまった。その存在にすら気づかせることなく。
そも、熱を出した時点で異常に気づくべきだったのではないか。
否――気づいてはいた。医者を呼んで診断と薬を貰い、メルリィ自身は
急を要する変化はひとつもなかった。つまり、それは通常の観測では事前に予期できなかった発作であり、対応するにはその瞬間をとらえるしかなかった。
では――ならば、それは一体どうすれば?
「
そも、《
だから自分の研究を他者に託し、遺産整理のために数少ない血縁を呼んで、いいや違う。違う違うそんなはずがない。だってあの方は
「……マスター」
昼食だって用意した。
あのとき作った煮魚はどうしたろう。あれからずっと何もせずに放っていたから、きっともうだめになってしまった。
だめにしてしまった。
「より良く生きるとは、何ですか……?」
彼が残した最後のもの。
遂行されるべき最終
「あなたの
――でないと、
何をもってその完遂を測ればいい? 愚かな
だから教えてください。教えてください
でないと、わたし、
「わたし、には――」
「失礼、お嬢さん」
メルリィへと呼びかける声は、既知の
演算を中断し、面を上げて視線を向ける。
そこには弔意を示すように黒い外套を羽織る、痩せた銀髪の男がいた。
年齢不詳の男だった。左右にひとりずつ年若い娘を従えて、弔意と礼節を示すように自身の薄い胸元へてのひらを当てている。
細いつくりの顎やしみひとつない肌は若いようでもあったが、顔色が悪くくすんだ肌の色は老爺のそれのようにも見える。
光が薄く、焦点を欠いたような目元は茫漠。波打つ銀髪がかかる頬は肉が薄く、外套を羽織る身体の線は不健康に細かったが、踏みしめる足下はどうしてか強い意志の力を感じさせて、佇む男の印象をひどくちぐはぐなものに形作っていた。
「驚かせて申し訳ない。ひとつ物を訊ねたいのだが、よろしいだろうか」
「何でしょう」
「アルヴァールト・エクタバイナ――第五工廠の先代
「……あなたは」
「重ねて失礼を。まずはこちらの名乗りが遅れたことを詫びましょう」
男は一度
「私は第八工廠を預かる《
はじめまして、《
「……あなたは、
「ええ、存じていました。何せ貴女は、
男は左右にひとりずつ、年若い娘を従えていた。
かたや長身で大柄な――陽を浴びる獅子を思わせる、豪奢な金髪の娘。
かたや華奢な痩躯の――月下に咲く花を思わせる、可憐な銀髪の娘。
メルリィは気圧され、後ずさっていた。
《
「はじめまして――だな、お姉ちゃん! オレは《L-Ⅷ》のトリクシィ。トリクシィ・メラノフログってんだ、よろしくなっ!」
牙のように伸びた犬歯を見せて笑いながら、金髪の娘が名乗る。
「会えて嬉しいぜ、お姉ちゃん! あ、こっちのちびは」
「名前くらい自分で言うからおまえちょっと黙れ。あと、ボクはちびじゃない」
金髪の娘――《L-Ⅷ》の言いようを忌々しげに遮ると、銀髪の娘は「こほん」とわざとらしい咳払いひとつで表情を典雅なものへと切り替えた。
「失礼。ボクは《L-Ⅸ》。《L-Ⅸ》アーリィ・ザイフェルトだ。尊ぶべき《Lナンバー》の先達とこうして出会えたこと、後進のひとりとして光栄に思うよ、《L-Ⅵ》」
「彼女達は我が第八工廠が世に送り出した《
「――まさか」
「そう。彼女達は君と同じもの」
メルリィが理解したことを察してだろう。男は口の端を吊り上げ、痩せた顔を笑みの形に歪ませた。
同じ《Lナンバー》――姉妹機。否、それだけではない。
「彼女達は君と言う
形成人格ならざる疑似人格。
たじろぎ、後ずさるメルリィへ。
男は差し伸べるように、その骨ばった手を伸ばす。
「あらためて。初めましてだね、メルリィ・キータイト――そう、彼女達は君の後継。
そして我々は《特務》の名代として、貴女を召還すべく参じた使者だ」
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