93.この夜に、今ひとたびの《決着》のとき・⑦


 話し合おう。

 ――と。


 こと此処に及んで、トリンデン卿は降伏の意をあらわす形で両手を高く挙げながら切り出した。


「……正気ですか? 今更、わたしを説得?」


「そうとも。こちらの囲みは思わぬ形で破られてしまったが、しかし私はトリンデン=オルデリス家の当主として、我が客人の身命、その安全に万全を尽くさねばならぬ責務を負う身の上だ」


 ましてや、と。トリンデン卿は男らしい眦を細める。


「我が朋友、共に冒険へ挑んだ仲間の身命に関わることだ。今更格好のつくものではあるまいが、足掻かず諦める理由はあるまいよ」


 ――この期に及んで。

 なお、悠然と胸を張り続ける男の態度に、メルリィは苛立ったように息をつく。


「時間稼ぎのれ言につきあう理由はありません。わたし任務オーダーはあなたの暗殺です。トリンデン=オルデリス公」


「そう! まさに問題はそこなのだ、メルリィ・キータイト」


 ここは敵地であり、時間をかければかけるほど、トリンデン卿とユイリィの有利に働く。

 ゆえに、対話の申し出を切って捨てようとするメルリィへ、トリンデン卿は声を大にして切り返す。


「どうか私の話を最後まで聞いてくれたまえ。さすれば君は少なくとも――そう、この後の暗殺の可否によらず、『トリンデン=オルデリス卿の暗殺成功』というを持ち帰ることだけはせずに済む」


「誤報……?」


「然りだ」


 トリンデン卿は芝居がかった所作で、ひとつ頷く。


「あるいはこの後、君はこの私――フレデリク・ロードリアンという個人の殺害を果たし、暗殺を成功裏に終えることはできるかもしれない。

 だが、それは言うなれば、ただ『それだけ』のことなのだ。君がを暗殺することはできない。絶対に、だ」


 訝る沈黙は短かった。メルリィは揶揄するように吐き捨てる。


「……今この時、ここであなたを始末したとして。この邸内であれば死の隠蔽も事後の工作も容易であるという宣言ですか? ルクテシア王国密偵頭の家柄なればこその」


「いいところをついているね。だが惜しい。私がここで語りたいのは、我がトリンデン=オルデリス家の役割とは何ら関係ないところに存在する『備え』だ」


 反駁の言葉が、止まる。

 メルリィの表情は動かなかったが、身動きと反駁を止めたという事実そのものが、彼女の内心の迷いを明らかとしていた。


「君は既に知っている筈だな、メルリィ・キータイト。《万変する万影バルトアンデルス》は周囲を観測し、情報を収集することで自身を『拡張』する幻獣であると。

 人であればその肉体・精神・記憶・――そのすべてを観測して自身の中へと記録するもの。

 である、とね」


 トリンデン卿は、最前に執務室で語ったことばを繰り返す。

 その語りで、メルリィは即座にひとつの答えへ辿りついた。


「――ここにいるお前も、《万変する万影バルトアンデルス》! トリンデン=オルデリスの影武者か!!」


「その問いに対する答えは『否』だ。少なくとも私が関知する限りにおいてはね。

 ――だが、問題はまさにそこなのだ、メルリィ・キータイト」


 トリンデン卿はゆるゆるとかぶりを振り、底冷えするように低く言葉を続ける。


「この館へ連れ帰ってから現在までの間で、既に《万変する万影バルトアンデルス》は私のあらゆる可能性――すべての未来の分岐を記録している。そして今この時も、常に私のを記録し続けているのだ」


 一歩、前に進み出る。

 メルリィは後ずさった。


「ひとつ、君の望むとおりにやってみるといい。少年に突きつけているその短刀なりなんなりで心臓を一突きすれば、この私は、『フレデリク・ロードリアン』は間違いなく死ぬだろう。ああ保証するとも、私はただの人間だからね」


「……来るな」


「異なことを言う。こうして近づかなければ、その刃では私に届くまい? 安心したまえ、人質を離せなどと無粋なことは言わんよ。私をその刃にかけた後でゆうゆうと人質を手放せばいい」


 ――その時。どうしてか。

 冷たい予感が、急にランディの胸中を吹き抜けた。


 ひゅっ――とメルリィが息を呑む音を、まるで夢の中のできごとのように聞く。


「しかし、だ。そうして君に殺されたその瞬間から、今ここにいる私は『トリンデン=オルデリス公』ではくなるのだ。

 そうなったときには、そう――たとえばその本邸の扉あたりから新たなトリンデン=オルデリス公が姿を現し、この私はトリンデン=オルデリス公爵の、その亡骸ということになるだろう」


 ランディには訳が分からなかった。

 トリンデン卿が何を言っているのか、何一つ定かには理解できないまま。ただメルリィの腕の震えが伝搬したかのように、カチカチと歯を鳴らしながら震えていた。


 ――目の前のひとを、はじめて『怖い』と思った。


「だから言ったのさ。ここで首尾よくフレデリク・ロードリアンの暗殺を果たしたとしても、君の持ち帰る暗殺成功の報は『誤報』となる。

 いかな暗殺者とはいえ、女性にそのような恥をかかせるなど。騎士としてまったく忍びないことではないか? なあ、メルリィ・キータイト――」


「来るな、っ――来るな! 近づくなあぁッ!」


 ――メルリィは、震えていた。怯えていた。

 ランディと同じに。人形なのに。


 トリンデン卿が一歩進むたびにその分だけ後ずさりながら、錯乱したように短刀サイズの手甲剣を振り回すばかりで。


「お前はっ――あなたは、一体何なんですか! 正気じゃない!!」


 メルリィは理解していた。理解できてしまっていた。


 トリンデン卿の語ったすべて――それがまったき真実であるというならば、それはたしかに、『暗殺』という行為に対する絶対にして完全なる防御だ。

 それは今この時、この館における暗殺だけに限られたものではない。


 たとえばこの先――何らかの不測の事態によって、衆目の集う公の場において彼が無残に殺害されたとしても。その亡骸が、隠しようもなく数多のひとの目に晒されることとなったとしても。


 死んだ男は、その瞬間から『影武者』だったことになる。

 トリンデン=オルデリス公は忌まわしき暗殺者の存在を事前に予期し、その場へ自らの影武者を送って寄越した。そういうことになる。


 そう、

 後から傷ひとつなく現れる、新たな『トリンデン=オルデリス公』の存在によって。


 真実そこで誰が死んだのかなど、一切が関わりないこと。

 そこで誰が死んだとしても、トリンデン=オルデリス家の当主は――


 『フレデリク・ロードリアン・ディル・トリンデン=オルデリス』というは、何者にも侵されることなく生き続けるのだということ。


「死を、命を何だと思って――それがまったき真実なら、あなたのしていることは! あなたは――!」


「寒々しいほどの偽善、暗殺者の言葉とも思えんね。だが、このうえなく『人間的』な激情だ」


 男は鼻で笑った。

 嘲るようなその響きには、どこか湿った憐みの温度が混じっていた。


「君をその人間性へと至らしめた方は、さぞ素晴らしき先人であられたのだろう。

 その先人に学んだ君が、忌まわしき暗殺者へとその身を落としていること――君を教え導いた先人と君自身のために、哀れと思うよ」


「狂人が……貴様が、人形工匠マエストロを語るな――!」


「至極もっともな怒りだ。認めよう」


 トリンデン卿はひとつ頷き、あらためて激高するメルリィを見遣った。

 ――憐憫と、同情の眼差しだった。


「そして、君の警戒もまた正しかった。だが、君の心性は暗殺者としてはあまりに善性にあり――何より、人の話を聞きすぎる」


 ――月が、陰った。


 寒気にも似た警告アラートが総身を駆ける。

 首をねじり、振り仰いだその先――そこには今まさにメルリィの頭蓋へ食らいつかんと上方より躍りかかる、赤黒い狼犬の巨躯があった。


「っ――!」


「わ!」


 抱えていたランディの体を、とっさに中庭の芝へと放り――メルリィは狼犬のあぎとを、両手で掴んで止める。


「ふぎゃ!?」


 放り出された拍子に地面としたたかにお尻をぶつけ、ランディは潰れた悲鳴を上げる。


 メルリィは彼が頭から落ちなかったことだけはかろうじて見届けたが、それ以上の時間を割くことはできなかった。牙を食い止められてもなお爪を立てようとする犬の胴を蹴り飛ばし、後方へと跳んで距離を稼ぐ。


 ――ただの犬や狼ではない。

 赤黒い毛並み、爛々と輝く真紅の瞳をしたそれは、


魔犬ガルム――」


 ――迷宮に住まう番犬。

 地の熱を喰らい己が力へ換えるという、いにしえの時代の伝承にも伝えられる炎の魔犬だ。


 だが、一体どこからこんなものが飛び込んできたというのか。


 しかも、魔犬ガルムは一頭ではない。

 正面の一頭を遠ざける間に横合いを回り込み、側面から躍りかからんとするもう一頭――メルリィは手甲剣を振るってこれを牽制しながら、体勢を立て直した最初の一頭を視界へおさめつつ周辺へ索敵を走らせる。


 いずこからともなく。メルリィの観測にもかかることなく。

 二頭の魔犬。その、出所を探す。


「そうとも、私の話はすべて時間稼ぎだ。時間を稼ぎさえすれば『誰かが、何かをしてくれる』、そう確信すればこそのね」


 トリンデン卿は別邸を振り仰いだ。


 明かりが落ちた別邸。その窓辺から中庭を見下ろしながら、慎重に機を伺う護衛騎士達。その中に、ひとりだけ。

 騎士達のそれとは明らかにかけ離れた軽装の、ぼさぼさの髪を長く伸ばした青年が――ひとりのがいた。


「成程。君が先駆けとなったか、ヴィム・マクアイネン――我がコートフェル支部に冠たる冒険者のひとり、召喚術士サモナーにして使役魔法士ファミリア・マスターよ」


 《諸王立冒険者連盟機構》支部にてランディ達が『遺跡』の発見を激賞された場面に居合わせた冒険者のひとり。

 クゥの正体をドラゴンであると看破した、碩学せきがくの徒。


 冒険者にして生物学者。召喚術士サモナーにして使役魔法士ファミリア・マスター――ヴィム・マクアイネン。

 二頭の魔犬ガルムは、彼が召喚した使い魔ファミリアなのだ。


 窓辺に立つヴィムの口が動く。途端、執拗にメルリィを取り囲んでいた二頭の魔犬ガルムが、同時に彼女から距離を取った。


 そして、魔犬達と入れ替わるように、笛の音のような風切り音が――戦場たる邸宅の中庭へと飛びこんでいた。



吶喊とっかぁ―――――――――――――――――――――ん!!」



「な――」


 ――飛竜ワイバーン

 渡り廊下の屋根を掠めるように飛来し、地を這うように低く空を抉る機動で。

 ひとりの竜騎士を乗せた空舞う騎竜が、二頭の魔犬にメルリィへ、矢のように鋭く突撃する。


 かわす間など、あろうはずもなかった。


 それは、メルリィにとっては最初の襲撃の日に――《諸王立冒険者連盟機構》へ居合わせた。冒険者のひとり。

 竜騎士の娘、ブルーネ――彼女が操る騎竜の突撃に撥ね飛ばされて。


 少女人形の身体は小石のように軽々と、高く宙を舞っていた。

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