92.この夜に、今ひとたびの《決着》のとき・⑥
――少し、時間を
ずだんっ――!
重い衝撃と共に、メルリィの
屋根を転がり、中庭へと転落する己を理解した瞬間、メルリィは疑似霊脈を展開――流体
上へ昇るためではない。落下の加速を緩めつつ
「――――っ、く……!」
機体への衝撃は極力殺した。
けれど、これでまた流体
メルリィにはそれを悔やむための時間すらない。
直上から落下してきたユイリィの靴底から、間一髪、芝の上を転がって逃れる。擦り切れた芝が肌につき、湿った草の匂いが嗅覚
転がりながら身を起こしたメルリィが構えるまでの間、ユイリィは追撃してこなかった。
感情の見えない《
「――そろそろ、降参の白旗を揚げることを勧めたいね」
投げかけられたその声は、別邸への渡り廊下へと繋がる、本邸の裏口から。
トリンデン卿だった。
渡り廊下にかかる雨除けの屋根、その下から悠然たる足どりで中庭へと進み出ながら、青年貴族は鷹揚に両腕を広げてみせる。
「彼我に横たわる歴然たる差は、とうに理解できているはずだ。今ならば、我々の側には君の降伏を受け容れる余地がある。君の身命、その安全は我が名誉にかけて保証しよう、メルリィ・キータイト」
当主たる彼の申し出はこの期に及んで寛容だった。
なぜならば、
「君はまだ、誰一人とて殺めていない。そう――この館と、このフレデリク・ロードリアンに連なる誰一人としてだ。ゆえに我々は未だ君を許すこと叶い、また君がこの血塗られた悪行から手を引いたのち、その身柄を責任を持って守ることもできる。然るのちに君を弾劾するすべてのものからだ」
――このことばの意味は、君にも理解できるはずだ、と。
そう告げんばかりに、トリンデン卿は口の端を吊り上げてみせる。
「もはや
この期に及んで、我々が対立する理由はない。そうではないかな? メルリィ・キータイト」
男の説得に、沈黙を貫きながら――けれど、メルリィは敢えて言われるまでもなく、トリンデン卿が語ったすべてを理解していた。
(勝てない……)
説得の間、状況を観測しているだけのユイリィ・クォーツ一機のみを相手取ってすら、自分はまったく相手になっていない。
分かっている。彼女はメルリィに対し、一度として全力を振るっていない――それは、彼女に
彼女が一度でもその気になっていれば、メルリィは当の昔に破壊されていた。それを回避しうる十分な手加減を己に課していながら、ユイリィはなおメルリィのはるか及ばぬ高みに在る。
擬態による潜伏の優位は看破された。このうえさらなる潜伏を図り
奇襲による優位は早々に破綻した。トリンデン卿が伏せ続けた《
位置の優位も、とうにない。そも、仮に今もそれがあったところで、彼我に横たわる絶望的な性能の差を覆せるものではない。それはとうに思い知った。
数の優位――そんなものは端からなかった。暗殺の手勢は
いや、彼女だけではない。アーリィやメルリィと共にルクテシアへ持ち込んだ量産型の《
この任務は、とうの昔に――メルリィが最初の襲撃を仕掛ける以前から、既に成功の可能性を見限られていた。
にもかかわらず、彼女は他の特務のようにこの任務から手を引くことをしない。それどころか、
(ああ……)
――いいや。そうではない。
これはもはや――きっととうの昔に、暗殺計画ですらなくなっていた。
(
追うべき背中はどこにもない。
メルリィに手を差し伸べてくれた、
迎えてくれるひとのところへ
いつかこうなる日が来ると、とうに分かっていたけれど。
けれど、思ったよりずっと早く、その時が来てしまった。それはメルリィ自身の無能によるもので、であるならばこの結果は、誰を責められるものでもない。
「
「メルリィ――」
「
歯ぎしりするように苦く呻くユイリィへ、メルリィは切っ先を突きつけるように言い放つ。
「ゆえに、
勝てない。勝ち筋も、勝ち目も、何一つ見いだせない。
だが、勝つ必要はない――メルリィの標的は最大の難敵たるユイリィ・クォーツではなく、トリンデン=オルデリス卿だ。
どれほどおぞましい怪物をその
勝ち目がなくとも、足掻く。敗北と、機体の喪失が確定するその瞬間まで、みじめに、みっともなく、脚をもがれた虫のように無様にもがき、足掻きつづける。
(それが、貴女の
許される交差は、どう甘く見積もってもあと一撃。
勝機など見えるはずもない
自身の下方、視界の端に、引っかかるものがあった。
「……え?」
見下ろした、その先。
ちいさな幻獣を抱えた、やはりちいさな子供が、何の前触れもなくそこにいた。
ぽかんと目を丸くして、目の前の状況を理解しかねたように立ち尽くすその子供を、メルリィは知っていた。
ランディ・ウィナザード。
トリンデン卿の客分で、ユイリィ・クォーツの
その情報に思い至った瞬間、メルリィは半ば反射で、隼のようにその子供へ手を伸ばしていた。
「ランディちゃん!」
「そこで止まって!」
ランディの体をひっ掴むように抱きかかえ、メルリィは鋭く警告を放つ。
かたや、ぎくりとして脚を止めるユイリィ。
かたや――悠然と保ち続けたトリンデン卿の余裕に、僅かな、しかし確かにそうと見て取れる『
「そこで、止まりなさい――もしあなた達が不用意な真似をするならば、この子の身の安全は保障しません!」
腕の中で、ちいさな体が竦むように強張るのを感じる。
胸に刺さる、歯噛みしたくなるような痛みを錯覚しながら。メルリィはランディの喉元へ、手首から形成した
――いいとも。こと
そんなものを守るべき理由など、もう自分の中にはひとかけらだってありはしない。
卑劣に。愚かに。
名誉を汚し、価値を
ええ――それがきっと、彼女の望み。
――ナテル特務曹。
――エスメラルダ・ナテル。
あの、悪夢のような覚醒の日から。
貴女がずっと、望みつづけたものは――
◆
『キミは今、未来の分岐点にいます』
『それはメルリィ・キータイトの未来、キミが望む未来の直近、その先行きを選定する岐路です』
《真人》――
『今のキミは、
『けれど、キミはその岐路を選定することができるのです』
そう告げられて。どこかへ消えてしまったハルア――冗談めかして『幽霊』だって言っていたあのひとは、本当に幽霊だったのかもしれない――と別れて、たぶん、彼女のいたところから元の世界へ戻った。その矢先、
『なぜならキミの傍には、キミの選択を支えてくれるてのひらがあるから。キミの願いを聞き届け、その実現に
――その、『人の代行者(※たぶん)』は今、ランディのせいで物凄く困った状況になっているのが疑いないことで。
『脅威をけっして恐れないで。望みを訴えることばを
『その意思こそが、最善の未来を選定する』
『これはその訪れを証明する、《
そう――なんだかかっこいい感じの、思い返すたびに胸がときめくことばを抱いて戻ってきた、その果てが、
「うそでしょ―――――――――――――――――――!!?」
メルリィ・キータイトに捕まって人質とされてしまった、ランディの現状である。
ランディは蒼白の面持ちで、悲鳴を上げるしかなかった。
というより、泣きたい!
なにこれ!
これは何がどうしてどういう結果でこういうことなの!?
「――ごめんなさい」
「へっ?」
耳元で囁く声で、自責で混乱しきっていたのからはたと我に返る。
首に腕を回して捕らえたランディの頭に、静かに顔を寄せて、自分の口元を隠すようにしながら。
息がかかるような今の距離においてさえ、かろうじて聞き取れる下限にあるだろう声で、メルリィが囁く。
「宣言を違えるつもりはありませんが、
「え……?」
「――さあ、形勢逆転です。降伏するのはあなた達の方だ!」
一転して朗々と。ささくれた声がトリンデン卿とユイリィに向けて吼える。
「この要求を拒むのならば、こちらの彼がどうなるか――敢えて言うまでもないことと思いますが。それとも、ここで実演が必要ですか!?」
「っ!」
ランディの首を締め上げるように、メルリィは回した腕を引く。
威圧する声とその動きに思わず息を止めてしまうが、実のところそれは、それらしく見えるように、首に回した腕の位置を変えただけだった。
ランディはせいぜい体を揺らされた程度で、首は締まっていないし苦しくもない。
傷つけまいと気遣うような、彼女のそのふるまいに、むしろランディは困惑を覚えていた。
その反応に何を感じたか――状況を静観していたトリンデン卿が、そこで大きくため息をついた。
「分かった。降参だ」
「トリンデン卿!?」
両手を挙げるトリンデン卿に、ユイリィが愕然と声を荒げる。
「なに言ってるの! ランディちゃんが捕まっちゃってるんだよ!?」
「だからこそだ。無用の刺激で、これ以上の危害を誘発する訳にもいくまい」
「なにゆってるの、どうせあとひとつかふたつくらい切り札持ってるでしょ!? あなた性格悪いんだから!」
「ユイリィ・クォーツ……君から『敵』と見做されていないことには心からの安堵を表明するが、さりとてその評は私も少し複雑なのだが」
トリンデン卿は心底複雑そうに眉をひそめ、渋面で唸った。
「いや、さすがに最前の展開は予想の外だ。現在のような状況を防止すべく
警戒の網を張り、不測の可能性を排除しつづけたとしても、なお引き起こされる凶事というものは常にある。
降参の意を示して両手を上げたまま、トリンデン卿は陽気に肩をそびやかす。
「経緯も因果も飛び越えて、『結果だけが現れた』、というのではね。誰の意志が働いた結果かは推測するほか術がないが、そんなものに対する備えがなかった己の不明は認めざるを得ない」
――メルリィの腕は、ランディの喉を締め付けてなどいなかったが。
それでもランディは、胸が苦しくて今にも息が止まってしまいそうだった。だって、トリンデン卿やユイリィが今この時に置かれている苦境は、ぜんぶランディひとりのせいなのだ。
「だが、そうだな。切り札というなら――最後にひとつ試してみようか」
「
「いやいや! 今更この状況を引っ繰り返す逆転の一手を摸索している訳ではないとも――私がしたいのはもっとシンプルで穏当な提案だ。
話し合おう、メルリィ・キータイト」
「「――――は?」」
メルリィと――そして、ユイリィから。
正気を疑う低い呻きが重なるのを、ランディは聞いた。
「降参だ、メルリィ・キータイト。なので話し合おう。どうかこのフレデリク・ロードリアンに、君との交渉を許してほしい」
あっけらかんとしながら、トリンデン卿は願い出る。
「この暗殺に君の
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