91.この夜に、今ひとたびの《決着》のとき・⑤
ハルアが紡いだ名乗りの意味を理解するまで、ランディにはいくばくかの時間が必要だった。
ただ――すぐに理解はできなかったけれど、すごいことを聞いてしまったという衝撃だけはあって。それは拭い難く、胸の中へ打ち込まれていて。
ランディは一度大きく深呼吸すると、ハルアの言葉を頭の中でゆっくりなぞり返してゆく。
世界に七
祖は獅子なる玉座より始まる
大いなる
《
(《
ハルア。
ハルア・メスネイアーディル。
つまり、このひとは――
「――《真人》種族!?」
「しんじん?」
「あっ、ごめんなさい! 《真人》ってぼくらが呼んでるだけだから……ええっと、《
「あ、うん。それなら、うん。そうだよ。わたしは《
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神々の祝福を受けて魔法を極めた七つの種族。その
おとぎ話でしか聞いたことのなかった、大昔の『人類』――!
「未来の子は、わたしたちのことを《真人》だなんて呼ぶんだね。なんだかおおげさみたいで、ちょっと恥ずかしいな」
「すごい! ハルアさんすごい! ぼく、《真人》って『世界の果ての向こう側』へ行かないと会えないんだって思ってましたっ!」
ユートが知ったらなんて言うだろう。きっと昔の話を山ほど聞きたがる。
ラフィやエイミーだってきっとびっくりする。もしかしたらハルアさんのこともパーティの仲間にしちゃうかもしれない。
リテーク――は、あんまり変わらなそうだけど! どうかな? でも、とにかく、
「この世界に帰ってきた
「うーん……『いた』って、言っていいのかなぁ。どうなんだろ。どう言ったらいいのか、わたしにもちょっとわからないんだけれど」
興奮して目を輝かせるランディに、ハルアはほろ苦く笑った。
その笑みに滲む拭い難い寂寥に――ランディは気づけなかった。この時は。
「でも、『帰ってきた』だけは違うかな。わたしは……そう、未来の子のことばを借りるなら、『世界の果ての向こう側』へ行かなかった《真人》なの」
「行かなかった?」
「うん。そうなの。この世界を離れたくなくて、『世界の果ての向こう側』へ行くのがイヤで、この世界に残ったの。わたしたちは――」
ふと、視線を巡らせて。ハルアは見渡す。
トリンデン卿の屋敷。夜に咲く花壇の花々。邸宅を囲う背の高い木々。
「この世界にかじりついてやるって、みんなで誓い合って――それでね、それからもいろいろあって、わたしはずっとここにいたんだ。ずっと……」
「ここに? ずっと?」
ランディは眉をひそめて訝る。
「あの。ぼく、もう何日もここにいるんだけど……ハルアさんのこと、今日まで見たことなかった」
「それはそうだよ。わたしたちは
「れいやー?」
「そう、
ハルアは言う。明るく、どこか突き放すような声音で。
「キミの観測可能域の『わたし』――わたしの身体は、もうずぅーっと昔になくなっちゃったんだと思う。今がどれくらい未来なのかはわたしじゃわからないけれど、何も観測できなくなってからだいぶん経ってるのだけは、間違いないことだから……」
その間、ランディはずっとハルアの言葉の意味するところを思案していたが。
不意にひとつだけ思い当たるものがあって、ぱっと顔を上げた。
「多層……えと、多層魔術領域ってやつで合ってる? ハルアさんのゆってる、
「多層魔術領域……」
ハルアはきょとんと目をしばたたかせて、呆けたように絶句していたが、
「……未来の子は、むつかしいこと知ってるんだね。わたし、キミくらいのころはそんな魔術の理論体系なんてちっとも知らなかったよ」
「フリスねえちゃ――えっと、魔法に詳しいひとに教えてもらっただけですけど。ぼくも名前以外はよく知らないし……あと、ハルアさんってぼくとあんまり歳ちがわなくないですか?」
「そんなことないよ。わたし、二十歳だもん」
「うそぉ!?」
思わず喚いてしまう。
いや、でも――フリスねえちゃんやシオンにいちゃんと同い年!?
その叫びがだいぶん失礼だということにはすぐ思い至ったのだけれど、まず驚愕のことばが先に口を突いて出てしまったし、一度出てしまったことばは取り消しようもない。
けれど、ハルアはといえば気分を害した風もなく、弾けるような声を立てて笑っていた。
「ほんとだよぉ。未来の子は八周期――八歳でしょ? なら、わたしのほうが十二歳もおねえさんなんだから」
「……ぼく、何歳かってゆってなかったですよね?」
「聞いてないよ。でもわかっちゃうの。《
渋面で唸るランディ。ハルアは笑いすぎて溢れた涙を拭いながら、ひらひらと手を振って寄越す。
「もう、そんな顔しないでよ。ほんとのほんとは『にじゅう たす すごい未来』だけど、最後に歳を数えたときはちゃんと二十歳だったもん……ええと、そだ。なんのおはなしだっけ。多層魔術領域だっけ?
『ここ』は魔術の
そこまで言ったところで、ハルアは不意に、じっとランディの目を見つめてきた。
「……そうだね。今のわたしがどういうものか。未来の子に分かる表現で言うなら」
長い睫を擦り合わせるように細めて、黙考することしばし。
やがて、彼女は言った。
「『幽霊』かな」
「幽霊」
「そう。死んで体がなくなっちゃった幽霊。わたしの身体が最後にあったのがちょうどそこの花壇のところだから、わたしはずっとここにいるの。離れられなくてね――って」
そこまで調子よく言ったところで、ハルアは真っ青になったランディの顔色に気づいてぎょっとした。
「ど、どど、どうしたの!? どうしてキミ、急にそんな顔するのかなっ?」
「だって……だってハルアさん幽霊って……幽霊だから見えなかったのに、ぼくは今、ハルアさんが見えてて……」
真っ青になったランディは、今にも泣き出しそうなくらい涙をいっぱいに溜めて、震えていた。
「ぼく……ぼくもしかして、自分で気づかないうちに死んじゃったの……?」
「えええっ!? わあぁ違う違う、それは違うよ!? ああっごめんね泣かないで! わたしの言い方がよくなかったよっ。幽霊っていうのはもののたとえでわたしは幽霊なんかじゃなくて、だから未来の子は死んでなんかないよ。誤解だから泣かないでえぇ!」
「うぅ」
必死でなだめるハルアの説得をかろうじて聞きとめて、涙を引っこめ、ぐすっと洟をすするだけに留める。
「繰り返しになるけれど、未来の子は死んでなんかないよ。なんていうか、キミは《
「……ファフニールって、クゥのこと?」
「クゥ? え。あ。その子のおなまえ? そっかぁ、クゥかぁ……」
「? クゥの名前がどうかしました?」
「ううん、どうもしないよ? かわいいおなまえだね」
『かわいい』とほめている割に、ハルアの表情は複雑そうだった。なぜか。
「そうだよ。それで合ってる。その子が《
世界の果てを越えて
――ファフニール。
そうだ。たしか、そんな名前の
《諸王立冒険者連盟機構》コートフェル支部にいたヴィムという冒険者のおにいさんが、クゥのことをドラゴンだと言っていたのを思い出す。
「杯を抱えて飛び立つ未来を
ハルアが言っていることは正直むずかしくて、一度聞いただけじゃランディには半分も言っていることの意味が解らなかったけれど。
でも、ひとつだけ。たしかに分かったことがある。
(クゥ、ほんとにドラゴンだったんだ……)
自分の胸に抱かれておとなしくしているちいさなクゥを見ていると、とてもじゃないが信じられそうになかったけれど。
でも、冒険者のひとと《真人》のひとが揃って言っているのだからきっとそれはほんとうのことなのだ。
驚き、ひっそりと深く息をつくランディ。
その胸に抱かれてじっとしていたクゥに、ハルアはふとてのひらを伸ばした。
「けれど、この子がひとりで観測できるのは『未来の分岐点』だけだから。『現在』を観測するためには、他の誰かが一緒にいなくちゃいけないんだ」
不意に痛みを覚えたように、眦を
「観測されないものは、いないのとおんなじだからね……未来の子が『ここ』へ呼ばれたのは、
突然に。
クゥがぷるぷると首を振って彼女の手を払い、「くぅぅ」と甲高い声で鳴く。
乱暴にてのひらをはねつけられたハルアはびっくりしたように目を丸くしていたが、やがて「ふぅん」と目を細めて微笑んだ。
「……そっか。キミはそのためにもここへ来たんだね。わたしを連れていってくれるためだけじゃなくて、わたしを便利な通訳に使うつもりでいたんだ。なまいき」
「ハルアさん?」
「未来の子。ランディくん。キミにこの子からメッセージがあります」
くぅ。くぅ。くぅ。くうくくぅ、くぅ。
ハルアの言葉が皮切りになったかのように。クゥはほっそりした口吻を上向けて、呼びかけるように鳴き始める。
「『キミは今、未来の分岐点にいます。それはメルリィ・キータイト? の未来、キミが望む未来の直近、その先行きを選定する岐路です。キミは』」
不意にハルアが言葉を切り、途端に渋い顔になる。
「ええと……『今のキミは、
――が、すぐに表情を繕いなおし、続く言葉を紡ぎはじめる。
たぶんだけど、そのままじゃ口にしづらい言い方してたんだろうな――と察する。
クゥ、実はけっこう口が悪いのかもしれない。もしかしたらだけど。
「『なぜならキミの傍には、キミの選択を支えてくれるてのひらがあるから。キミの願いを聞き届け、その実現に
――人の代行者。
その瞬間、目の前が明るく開けるように、ひとつ。
ランディの中で、刻み込むようにはっきりと浮かび上がる、ひとつの名前がある。
(ユイリィおねえちゃん……?)
ランディの表情の変化に気づき、ハルアは得たりというように口の端を緩める。
「『脅威をけっして恐れないで。望みを訴えることばを
ハルアは大きく息をついた。
やり遂げた、というように薄い肩の力を抜いて、大きく笑みを広げる。
「――以上。ファフニールことクゥちゃんからのメッセージでした! すごいね、未来の子。キミってファフニールにとってもとっても好かれてるみたい!」
ニコニコしながらランディの頭を撫でてくるハルア。クゥはそんな彼女を見上げるように口吻を上げたまま、むっと眉根を寄せて「くぅくぅ」と鳴き声をあげる。
「わあぁ、ごめんってファフニール! でもさ、べつにいいじゃないこれくらい……せっかく手伝ってあげたのに、この扱いってあんまりじゃない?」
『よけいなことを言うな』って抗議してるんだろうな――と、傍で聞いていたランディにも簡単に察しがついた。
クゥがさらに一声「くぅ」と鳴くと、ハルアはとうとう「降参」とばかりに両手を上げた。
「はぁいはい、ああもう、わかりました。もう言いませんよーだ。――じゃあ、そろそろ行こっか?」
「行く?」
「うん。わたしも一緒に。ちょっぴり名残惜しいけれど、でも――せっかく迎えに来てくれたんだものね。行かなきゃ」
「? そうなんですか……じゃあ、はい」
ハルアへ向けて、てのひらを伸ばすランディ。
その手をきょとんと見つめて、睫の長い目をぱちくりとしばたたかせるハルア。
「これは?」
「? いっしょに行くんですよね?」
不思議そうに呻くハルアへ、てのひらを向けながら。
「はぐれないように手をつないで行きましょう。今はずっと静かだけど、まだ危ないこと終わってないかもしれないですし……ぼく、ハルアさんを安全なとこまで案内します」
明日になったら、ユイリィやトリンデン卿に相談してみよう。
ハルアの言っていることはむずかしいことばかりで、半分も理解できた気がしなかったけれど――でも、たぶんトリンデン卿もこのお屋敷のひとたちも、ハルアがここにいることなんて知らなかったのに違いない。
はるか昔、『世界の果ての向こう側』へ旅立ったと伝えられるいにしえの人々。《真人》。
その旅立ちから離れて、この世界に残ってしまって、きっとハルアはひとりぼっちでいたのだ。今まで、ずっと。
その彼女を、ランディが見つけた――見つけさせるために、クゥがランディを連れてきた。
なら、このひとをいっしょに連れていこう。
そのために、ランディは手を伸ばす。
「……………キミは」
その、てのひらを見つめながら。
ハルアはまるで、取り残されたように呆然と立ち尽くしていたが。
やがて――くしゃりとそのきれいな顔を歪めて。
今にも砕けて壊れそうな、くしゃくしゃの笑顔を広げていった。
「キミは、ほんとに……ほんとに素直で、いい子だね……」
ハルアは笑っていたのに、その笑顔はどうしてか胸を抉るように寂しくて、今にも泣きだしそうな瞬間のそれに見えた。
どきりと息を呑むランディの肩をぐっと掴んで、ハルアはランディの身体をぐるりと一八〇度、逆方向に回転させる。
「ねえランディくん。ちょっとくらい思わなかった? ファフニールの『最善の未来』が、誰にとっての最善なのか――って。そういう、そういうことをさ。キミだって、ちょっとくらい」
「? ?? ええと、誰の……って、ぼくたちみんなの……?」
「そうだね。うん、そうだよね。キミは素直ないい子――とっても素敵な、いい子」
背中越しに。ハルアの腕が回されて。
頬を撫でる湿った気配と共に、ランディの体を後ろから抱きしめる。
「キミに会えて嬉しい。ファフニールが連れてきたのがキミでよかった。
ランディくん。未来の子。わたしの――わたしの、最後の」
「あ――うん! ぼくもハルアさんに会えてうれしいです! 《真人》のひとが今も
ぱっ、と表情を明るくして――困惑する気持ちをむりやり明るくして、めいっぱいまくしたてるランディが言い終えるより先に。
ハルアはそっと、ランディの背中から離れた。
「ハルアさん……?」
「そんな不安そうな声出さないで。ほら、行こ。わたしも一緒に行くから」
微笑む息遣いと共に。ぽん――とランディの背中を押す、女の子の細いてのひら。
勢いに押されて、つんのめってたたらを踏むみたいに、一歩踏み出す。その背中へ、
「ありがとう」
ばっ――と後ろを振り返ったとき。
中庭の花壇の前に、白い女の子はいなかった。
しん、と帳が降りたように静かな中庭の景色が――まるで、夜へ溶けるようにして広がっているだけで。
ぽつんと立ち尽くすランディは、やがて自分の胸に抱いたままだったクゥを見下ろした。
細い口吻を上げたクゥは、くりっとした黒目でランディを見上げていた。
「ほんとに幽霊だったのかな。ハルアさん」
くぅ、と鳴く声が意味するものは、否とも応ともつかなかったけれど。
「……戻ろっか」
くぅ、ともう一度。応える声。
中途半端に浮いたままだった気持ちにようやく踏ん切りをつけて、ランディは踵を返した。
その先。
「……え?」
ばったりと出くわす人影があった。
驚愕とも、唖然ともつかない面持ちで目を見開く、黒装束の女性。
ランディのすぐ目の前に。体の線を浮かび上がらせるぴったりしたアンダーウェア姿の――睫の長い可憐な面差しをした、年の頃ならユイリィと同じくらいの、お姉さんがいた。
このひと、さっき見た。
たしか、さっき――屋根の上で。
そうだ。このひとは、そう、
――メルリィ。
メルリィ・キータイト。
「ランディちゃん!」
耳を打つユイリィの悲鳴と、それは果たしてどちらが早かったか。
「――そこで止まって!」
ランディの体をひっ掴むように抱きかかえ、メルリィが警告を放つ。
夜の中庭。後ろから抱きかかえられた恰好で見渡すそこには、愕然と立ち尽くすユイリィと、そしてトリンデン卿の姿があった。
「そこで、止まりなさい――もしあなた達が不用意な真似をするならば、この子の身の安全は保障しません!」
「……え??」
ぱちくりと目をしばたたかせて。
ぎしぎしとぎこちない動きで見下ろしたその先で――抱きかかえられた拍子に中庭の芝へ落っことしてしまったクゥが、足元でぷるぷる体を振って毛並みについた芝を払っているのを見出して。
そして、
くぅ。
――と、クゥが一声鳴いたその段に至って。
ランディはようやく、自分の置かれた状況を理解した。
即ち、
「うそでしょ―――――――――――――――――――!!?」
メルリィ・キータイトに捕まって、人質とされてしまった自分の現状に。
ランディは蒼白の面持ちで、悲鳴を上げるしかなかった。
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