90.この夜に、今ひとたびの《決着》のとき・④
ふと。
ランディは目を覚ました。
《遊隼館》の客間、寝室のベッドである。
大人でも何人か並んで寝られる大きさの、沈み込むようにふかふかしたベッドに――ランディ達は最初の夜と同じように、五人全員で固まって眠っていた。
「……………………」
周りからは、ラフィやユーティス達の寝息が聞こえてくる。
そんな中でランディが目を覚ましてしまった理由は、今もふにふにとほっぺたやおでこを踏んでくる、肉球の重さのせいだった。
くぅ。くぅ。くぅ。
「……クゥ……」
さすがにうんざりと眉根にしわを寄せながら、ランディはクゥの小さな体を抱きかかえて胸元におさめる。何がしたいのか知らないけれど、まだこんなにまっくらなのだし、クゥにもまだ寝ていてほしい。
が――クゥはもぞもぞとランディの腕の中から這い出すと、なおも執拗にぺちぺちと肉球つきの手で、瞼を閉じたランディの顔を叩き始めた。
「もー……」
仕方なしに、ランディは起きた。
むりやり起こされたせいで頭は痺れたみたいになっていたし、視界もしぱしぱする。
それでもどうにか眠い目を擦って体を起こすと、ベッドの上でちょこんとお座りしたクゥが「くぅ」と甲高い鳴き声をあげた。
「なに? ごはんはむりだよ……? それとも、かまってほしいの?」
――そもそも、ご飯ならクゥだってあの『祝勝会』のときに、メイドさんやほかのひとたちからたくさん食べさせてもらったはずだ。
祝勝会は本邸、ホールの奥――広くて天井の高いダンスホールをひとつまるごと使って開かれた。
兵隊さんや騎士さんやメイドさんやコックさん、ほかにもこのお屋敷で働いているひとのほとんどが参加して、おいしいご飯やお酒を囲んで賑やかにしていた。
厨房を預かるコック長さんは、「腕の振るいがいがない」とちょっぴり不満げだったそうだけど――これは、祝勝会へ来る前に厨房でお手伝いをしてきたというスレナから教えてもらった――ビュッフェスタイルでテーブルいっぱいに並んだお料理は、
靴底みたいに分厚い、やけくそみたいに胡椒を振ったハムステーキとか、
大きな丸底の鍋をいっぱいに使って作った超特大スフレオムレツとか、
やはり王道定番としてここは外せないのだろう肉団子入りのシチューとか、
百個くらいずらりと並んだ色とりどりの果物ゼリーとか、
ランディ達の背丈くらいある樽いっぱい入った、大人の誰かに
他にも――とにかく目の玉が飛び出そうなとんでもないごちそうがずらずら並んでいて、これで腕を振るい足りない料理長さんの技の真髄とはいったいどれほどのものなのか、ランディ心から驚き、おののかずにはいられなかった。
いつの間にかいなくなってしまったトーマみたいなひともいたけれど、家令のパーシュバルやメイド長のアンリエット、この数日の滞在でお世話になったパーラーメイドのお姉さんたちの姿もあって、みんなごちそうに舌鼓を打ったり、おしゃべりしたりと忙しく楽しそうにしていた。
『ドナは部屋に戻りました。原稿を書くと言っていましたよ』
そう、ランディに教えてくれたのも、スレナだった。
なら、ごちそうを夕飯に差し入れてあげた方がいいんだろうか――と思案するランディに、スレナは、
『それはもう私から料理長へ、夕食のとりわけをお願いいたしました。お気遣いありがとうございます、ランディ様』
――と。
どうやらランディが思いつくことくらいなら、彼女はちゃんと前もって仕度を整えてしまうらしい。
やっぱり、スレナさんは大人の女のひとだからなのかなぁ――と、安堵半分で驚かされた。
いや、でもドナなんかはランディから見ても頼りなかったし、お隣のお姉さんだったフリスだってへなちょこで頼りなかったし、やっぱりぼくみたいなのが守ってあげなきゃいけない女のひとも世の中にはいっぱいいるんだろうな――なんて風に、いろいろ考えた末に結局は思い直したのだけれど。
たくさん食べて、おはなしもたくさんして。
ユイリィから、今夜はお祝いだから特別にお風呂に入らなくてもいいとの許可を頂戴したランディは、場が散会となった後はラフィ達と一緒にうきうきと部屋に戻って、眠くなるまでおしゃべりをして――
――ともあれ。
そんなパーティ会場となったダンスホールにはクゥも当然のように入れてもらっていて、胡椒をふる前の厚切りハムとか、水洗いして塩気を落とした肉団子とか、あとお野菜や果物なんかも分けてもらって、ご満悦の様子で夕ご飯をがっついていた。
最後の方はさすがに食べ過ぎたのか、ぽっこり膨らんだおなかをごろんと見せながら、すみっこですぴすぴと寝息を立てていた。
(もしかして、あのとき寝てたせいで眠れなくなっちゃった……?)
だとしたら、ちょっと困ったことかもしれない。ていうか、傍迷惑。
正直、夜更かしはあんまりしたくないというか、気が進まない。夜更かしは十五歳になるまでやっちゃダメだと――夜更かししてると背が伸びなくなるし体も弱くなって冒険者になれなくなると、兄のシオンから繰り返し厳しく言われていたので。
だが、そんなランディの内心など知る
クゥはぴょいと柔らかいベッドから飛び降り、ふわふわの尻尾をふりふり、ぱたぱたと忙しない足どりで寝室の窓辺へ向かっていった。
すこしだけ開いたカーテンの傍でくるりと振り返り、「くぅ、くぅ」と鳴く。
その段になって――うんざりしていただけだったランディの興中にも、ふと疑念の雲がわいた。
――もしかして、外に何かいる?
さすがにちょっと気になり始めてベッドを降りようとしたとき。
カーテンの隙間。そこから見える本邸の屋根で、ちかっと光るものを見た。
ぱっ、とベッドから飛び降りて窓辺へ駆け寄る。
バルコニーへ続く大窓の窓ガラスに顔を押し付けるようにして外を見ると、煌々と明るい月明りの下、屋根の上に転がってうずくまるトーマの姿があった。
しかも、それだけでは終わらなかった。
何が起きたのかと絶句するランディの前で、トーマの姿がみるみるちいさくなり、まったく別人の姿に――トーマよりふたまわりはちいさな、女のひとの姿に変わってしまったのだ。
引き剥がすようにそれまで着ていた服をむしり取った女のひとは、一瞬、何も着ていない裸のように見えたが――ぎょっとして目を擦ったその後は、肌にぴったり吸い付く袖なしの黒い服を着ていた。ランディは訳もなくほっとする。
「あのひと……もしかして、あのひとがメルリィさん……?」
答えを求めて思わずクゥを見てしまうが、さりとてクゥから答えがある筈もなく、こきゅっと首をかしげるばかり。
でも、いや――そうだ。きっとそれで間違いない。
自在に姿を変える謎の刺客。同じ国で生まれた《
あのひとが――『メルリィ・キータイト』。
そして、ユイリィもまた。彼女と同じ屋根の上にいた。
拳を構え、まるでラウグライン大森林で《
「くぅ」
食い入るようにその光景へ見入っていたランディは、鼓膜を貫くような甲高い鳴き声で急に我へと返った。
途端にわきあがった嫌な予感のまま傍らを見下ろすと、ついさっきまでそこで行儀よくお座りしていたクゥの姿がなかった。
そのまま視線を上げれば、隣の談話室へと続く扉。少しだけ隙間が開いて、隣室の夜闇がこぼれていた。
ものすごく嫌な予感がした。《諸王立冒険者連盟機構》の時と、今日の昼間の時。
そして――今この時に屋根の上で対峙する、メルリィとユイリィ。
猛然と駆け寄って扉を開くと、果たしてクゥはその先にいた。
月明りで青褪めた談話室。クゥはふわふわのしっぽを振りながら、くるりと首をねじってランディを見上げている。
「……………………!」
その姿を認めた瞬間、ランディは猛然とダッシュをかけた。
向かう先は、廊下へ続く扉。激突するような勢いで「ばあん」と扉に両手を叩きつける。
「っ、よし!」
思わず快哉が溢れる。間に合った……!
クゥより先に、扉のところへ着いた。今までみたいに扉が開いていたかはきちんと見ていなかったけれど、今のでちゃんと扉を閉めた。
勝利の確信と共に体ごと振り返った先。
しんと静まり返った談話室は、ものけのカラだった。
クゥがいない。月明りに青白く浮かび上がる、ふわふわの白い幻獣の姿がない。
ランディの剣幕にびっくりして、どこかの物陰に隠れてしまったんだろうか。
それともランディが扉を閉めたから、諦めたか不貞腐れたかして寝室に戻ったんだろうか。
それとも――こっちの扉じゃなくて、バルコニーの方に出た?
混乱しながら、それでも思いつけることはいくらでもあった。けれど、扉の前を離れて探しに向かう踏ん切りもつかず、おろおろと談話室の中を見回すしかできない。
くぅ、と鳴く声がしたのは、扉の前から離れる踏ん切りをつけかけた、その一瞬手前だった。
その鳴き声は、後ろから聞こえた。
「ウソでしょ!?」
――扉の向こう。外の廊下から。
扉を開ける。すぐ外の廊下にはクゥがいて、ランディの姿を認めるなり「今度は邪魔させない」とばかりにぱっと床を蹴って、昼間の時と同じように廊下を走り出した。別邸の外へ向かう方へ。
「クゥ! 待ってよ!」
ランディはその後を追う。
「ねえ、クゥ待ってってば! 止まってよ! だめだって、行っちゃ……それっ、ぜったい危ないやつだから!」
たたっ、たたっ、と軽やかに駆ける幻獣の、ふわふわした尻尾を追いかけながら。ランディは半分泣きの入った声で呼びかける。
外ではユイリィが戦っている。部屋から見ているくらいならまだしも、ランディがその場に行ったらぜったい邪魔になる――昼間みたいに心配をかけたくなかったし、そんな危ないところへクゥを行かせるわけにもいかなかった。
懸命にクゥの後を追いかけるランディは、それゆえにまったく気づくことはなかった。
別邸の中が、異様なほど――耳鳴りがしそうなほど静かに静まり返っていることに。
無人なのではない。人はいた。
別邸で寝起きするランディ達を、この夜の間だけは外へと出さないように――護衛を兼ねて廊下の角や階段の踊り場に立つ護衛騎士の姿が、そこかしこにあったのだ。
なのに、ランディは騎士達の存在に気づかなかったし、騎士達も自分の足元を走り抜けるクゥやランディを見もしなかった。
まるで互いの存在が、花瓶を置く台座や、飾り物の鎧兜であるかのように――ただの障害物であるかのように。時にはぶつかりかけて互いにするりと避けあいながら、自分達がそうしたことに、それが当然であるかのように、どちらもまったく気づいていなかった。
歩哨として巡回していた騎士が立ち話をする声も、ランディに届くことはない。
そもそも寝室にいたときから――ある時点から幼なじみ達の寝息が完全に消えていたことにすら、ランディは気づく余裕を失っていたのだ。
クゥを追って廊下を抜け、階段を一段飛ばしで駆け下りる。
別邸の玄関から飛び出すと、夜の中庭でようやく脚を止めたクゥの姿を認めた。
「クゥっ……!」
安堵で滲みかけた涙を拭ってクゥのところへ駆け寄り、ちいさな体を胸に抱き上げる。
「なに考えてるの。止まってってゆったじゃん!……ほら、戻るよ」
そのまま急いで踵を返そうとしたとき。
クゥはまるで訴えるように、「くぅ」と一声鳴いた。
返しかけた踵を止めて、中庭を見渡したのは――たぶん、何かの予感があったせい。
夜の中庭。
本館からこぼれる灯りと、十六夜の月明りだけが照らすその場所。
季節の花が咲き乱れる花壇の前に、ちいさな人影があった。
ちいさい、と言っても、それはこのお屋敷にいるのがトリンデン卿やスレナみたいな大人ばかりだったからそう思っただけで、たぶんランディよりは年上。
透き通るように真っ白な髪と、真っ白な肌。黄金色の瞳をした――たぶん十歳か、もうちょっとくらいの、年上の女の子だった。
誰?
いや、そんなことを気にするのは後でいい。ランディは真っ白なワンピース姿の、瞳だけが金色のまっしろな女の子へと駆け寄っていく。
「いっしょに来てください! ここは今、その、すっごく危ないと思うから――」
クゥを片手で胸に抱え、もう一方の手で女の子の手を取るランディを、彼女はきょとんと目を丸くして見下ろしていたが。
やがて金色の瞳をやわらかく細めて、朗らかに微笑んだ。
「そ、か。彼はキミが連れてきてくれた……未来のひと、なんだね」
「へっ?」
「わたしを見つけてくれた――キミはだから来てくれたのかな、ちいさな《
金色の瞳はランディではなく、その胸に抱えられて大人しくしているクゥを見ていた。
クゥも鼻先を女の子に向けて、じぃっとその綺麗な顔を見上げている。女の子はランディが掴んだのと逆の手をそっと伸ばし、そのふわふわした頭を優しく撫でた。
「ありがとう、なのかな。けど、それってわたしが、もうどうしようもなく、あの世界から切り離されちゃったってこと、なんだよね……」
いったい何を言っているんだろう。
ファフニールって? クゥのこと?
寂しげに語りかける彼女の言っていることは何ひとつわからなかったけれど、ランディは根気強く呼びかけた。
「あのっ。ここは今、とっても危ないんです。ユイリィおねえちゃんが――ええとその、危険な刺客と屋根の上で戦っていて、すぐにこっちへ来ちゃうかもしれないんです。だから」
「ありがとう」
今度はランディを見つめて。
女の子は、花咲くようにふんわりと微笑んだ。
「わたしを護ろうってしてくれてるんだ。未来の子はやさしいね……。
でも、へいきだよ。ここで今、何が起こっているかはわたしにはわからないけれど、こうしている今のうちはだいじょうぶ。なにも危ないことなんか起きないよ」
「………………?」
「ほら、耳を澄ませてみて。戦いの音なんてちっとも聞こえてこないでしょ?」
――そう言われて、はじめて気がついた。
屋根の上にいるはずのユイリィとメルリィの――戦いの音が何も聞こえない。ランディがクゥを追いかけているうちに、もうぜんぶ終わってしまったんだろうか。
女の子の手を握る力が、自然と緩む。
そんなランディの手を、逆にやさしい力使いできゅっと握り返して、女の子は笑みを深くする。
「はじめまして、未来の子。キミのおなまえを聞かせてもらってもいいかな?」
「え? ら、ランディです。ランディ・ウィナザード……」
「ランディ・ウィナザード。ランディくん――そっか、かっこいい名前だね。わたしはハルアっていうのよ」
ニコニコと言う女の子――ハルア。
急に名前は褒められたランディは、面食らってへどもどしてしまう。
だが、彼女のことばはまだ終わっていなかった。
「世界に七
大いなる
美しく調律されたことばで、ハルアは己を名乗る。微笑みながら。
「それが、わたし。《
はじめまして、ランディくん――きっと、とてもとても遠い未来の男の子」
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4/11 ルビに誤りがあったため、修整しました…
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