89.この夜に、今ひとたびの《決着》のとき・③
兵装――
流体
「わざわざ、
「ほんとうはそこまで待つつもりなかったんだけれど」
失敗を恥じるように、ユイリィははにかんだ。
「あなたが急に服を破りはじめたから。まさか裸で逃げるつもりなのかなぁってびっくりしちゃって、つい。ちゃんとインナー着てて安心したよ」
「当然のことでしょう。《
「あー……うん。そっか、そうだね。そうだよね、うん、そうかも」
――途端に。
なぜか痛いところを突かれでもしたように、ユイリィはぎこちなく表情を引きつらせた。
あはは、と殊更に乾いた笑いを零す、その反応の意味するところは解らなかったが。
その真意を訝り、推測するために充てた時間は短かった。現状においては気にするだけの理由がない。
(《
屋根の上はユイリィ一人の持ち場ということか。
最前にトリンデン卿やアンリエットの影から現れたように、足元の影から奇襲を仕掛けてくる可能性は無論ゼロではなかったが、仮に彼らが仕掛けてきたとしても、今の硬度なら並の剣程度はじゅうぶんな余裕をもって受けられる。
昼間のように
――交戦に時間はかけられない。
時間をかけた分だけあちらは包囲を固め、メルリィを圧し潰そうと目論むだろう。
「――――――っ!」
屋根を蹴り、這うように跳躍。踏み込む一歩で拳の間合いにまで肉薄する。
「――つあぁっ!」
疑似魔術構成の導線を通したその指先は、
ユイリィはその突きを、首を横に倒しただけの紙一重で躱して。
突き出したメルリィの前腕を軽く叩いて、その軌道を逸らす。
前腕にまでは、構成が通っていない。
逸れた手刀の軌道に引かれて僅かに横へ流れたメルリィの身体――その右側へと。ユイリィは伸びきった腕を盾にするように回り込み、無防備な背中を鋭く蹴り上げる。
「せッ!」
「ぐ――!?」
直撃。大きく吹き飛び屋根を転がったメルリィの身体は、落ちる寸前でかろうじて止まる。
落下寸前の身体を止めようと爪を立てた右手――その指先に形成した切断輝線が、凄まじい勢いで屋根を砕き割っていた。
直撃すれば自身が屋根瓦と同じになっていただろう、破砕の光景を前に、ユイリィは眉ひとつ動かすでもない。
膝をついて体を起こしながら、メルリィは理解せざるを得なかった。戦術を見切られている。
「ぅ――おぉぁぁぁッ!」
雄たけびを上げ、打ちかかる。
右の手刀で突き、左の拳で突き、深く踏み込んで肘を叩き込み、手刀で横薙ぎに切り払う。
ユイリィはその全てを躱し、払い、身を引いていなし――伸びきった腕を下から叩いて上方へ払うと同時にメルリィの懐へと飛び込みながら、胴を撃ち、太ももを靴底で踏み漬け、怯んだ瞬間さらに掌底で喉笛を打ちあげる。
「が、ぅ……!?」
呻く。
防御を固めた
――強い。
防御の薄い領域へ直撃が通ってしまえば、今のメルリィであってもひとたまりもない。
「――このっ!」
身を捻り、回し蹴り。
ユイリィは身を沈めてその下をかいくぐり、伸びあがるように身を起こしながら深く踏み込んで。
人間であれば心臓があるだろう、胴の中心――契法晶駆動基を内包する一点に、渾身の肘を叩き込んだ。
「ぁ、が……!」
全身を巡る霊素の循環が乱れ、視界の観測領域に強烈なノイズが走る。
(違う――これは)
防御の固い場所に当たっているのではない。
彼我の戦力差は明白だった。狙う気があれば、ユイリィはメルリィの顎でも脛でも、より防御の薄い打撃点を容易に狙い打てた。
彼女は敢えて、メルリィの防御の固い面を狙い打っている。
「なんの、つもり……ですかッ!」
「何が?」
よろめきながら後退するメルリィに、ユイリィは問い返す。
メルリィはきつく歯噛みする。
「
「うん」
微塵の躊躇もさしはさむことなく。ユイリィは認めた。
「そうだよ。ユイリィとあなたは同じ《Lナンバー》――『姉妹機』だもの。できれば壊したくなんかないよ」
「後悔しますよ!?」
「そうかもしれないね」
淡々と応じ、ユイリィは苦笑を広げるだけだった。
「……ほんとうのこと言うとね。ユイリィはあなたに対して、そこまでのこだわりはないんだ。姉妹機って言っても、
構えは隙なく。
けれど、メルリィを見つめる双眸は朗らかなほどに明るく――ユイリィははにかむ気配を含んで、困ったみたいに笑っていた。
「でも――あなたのことを姉妹機だって、『姉妹』だってゆっちゃったから。だからこんなところで、
「訳の分からない――
左前腕へ霊素充填。
圧閉装置起動。
青褪めた光が、振りかぶったメルリィの
「《
「――――――」
ユイリィの拳から、青白い光が溢る。
《
仮に最大出力は
ダメージを与える必要はない。ただ、わずかの間だけでも怯ませられればいい――今のメルリィが最優先で果たすべきは、この場からの『離脱』なのだから。
「――
熱した鉄板の上に水を撒いたような、じゃっ――と鋭い音が重なる。
メルリィの左手と、ユイリィの右手。
青白い光を帯びた熱衝撃波が、二人の間で激突する。
ふたつの熱衝撃波はぶつかり合い、拮抗し――
互いにその霊素を打ち消し合い、消滅する。
「………………そんな」
――今度こそ。
メルリィは戦慄し、愕然と立ち尽くした。
《
先手を取った一撃でまったくダメージどころか、怯ませることさえできなかったという事実も、無論のこと衝撃ではあったが。
目の前で起きた事態は、そんな表面的な結果を遥かに凌駕して深刻な脅威だった。
「
ユイリィはメルリィの《
メルリィの熱衝撃波が放たれるまでの、僅かの時間に。
ユイリィはその観測から熱衝撃波の威力を導出し、完全に拮抗・相殺をはかる分の出力だけを充填、放った――これは、単純な充填速度の差だけでもたらされた結果ではない。
――観測の精度が違う。
――反応の速度が違う。
――演算容量の、
それは、攻撃も、防御も、メルリィのそれら一切が通らないということ。
返す刀で、彼女はいつでもメルリィを破壊できるのだということ。
今この時に、そうしてみせたように。すべてを『後の先』で捌ききれるのだという――無言のうちに放たれた、明確な宣告だった。
(ここまでの……)
――何てコト、だろう。
こんなにも――こんなにも、差があった、なんて……
「ごめんね」
ぽつり、と。
メルリィから視線を外すことはしないまま。小鳥のように小首をかしげて、ユイリィは告げる。
「あなたはわたしを牽制して逃走をはかるつもりだったんだろうけど、それは無理。一度まわりをちゃんと見た方がいいよ」
「何を……」
反駁しかけ、その瞬間に気づく。
周囲を見回す必要すらなかった。ユイリィの後方――夜に沈んだ暗がりの中、ちらちらと光を放つ淡く輝きがある。
――魔力の輝きだ。
構成によって編まれた、魔術の輝きだった。それは、
(魔術障壁……!?)
《遊隼館》の内と外を隔てる塀を高く拡張するように。魔術構成に基づき広く強固に展開する障壁が高々と屹立し、敷地の四方を覆っている。
「夜間に視認可能な強度の魔術障壁――魔術を行使できない
その起動によって障壁を編む
だが、この館にそんな代物の備えはないはずだ。
少なくとも、メルリィはそんな情報は受け取っていない。そんなものがあれば、彼女がそれに気づかなかったはずがない。
「お屋敷に備え付けの
「魔術師、だというのか……?」
詠唱魔術による、魔力障壁。
だが、この屋敷全体を覆うような魔術障壁を持続的に構成し続けているのだとしたら、魔術師の数は十や二十ではきかないはずだ。
そんな人数を、どうやって――
「《諸王立冒険者連盟機構》……冒険者か――!」
《諸王立冒険者連盟機構》コートフェル支部。
ルクテシア第三の都市コートフェルに拠点を置き、王都に次ぐ規模を誇る連盟の支部は、拠点として籍を置く冒険者の数も群を抜く。無論――魔術士の類も。
「招集したのは祝勝会の間。あなたが、トーマ・ステフへの擬態がばれないよう一人で休息していた間のこと。人員の手配は昨日のうちにしていたみたいだけど」
「そんな、
「使わないまま終わるならそれでよかったんだと思うよ。準備はしておいたってだけで――備えってそういうものでしょ?」
「……………………」
絶句するメルリィに、ユイリィは苦笑する。
それはかすかに湿った、憐憫の温度を帯びていた。
「トリンデン卿は怖いひとだね。ユイリィも、あんまり敵にはしたくないな」
ぼやくように、そう、ひとりごちる。
そして、
「そして、わたしも。もうあなたを見失うことはない。
わたしには
――『油断』、ではなかった。
これは――『余裕』、だ。
わずかに数日。たった三度の襲撃で。
メルリィは、幾重にも張り巡らせた包囲の裡へと取り込まれていた。既に――
「ユイリィも、今はちょっと本気だから。できれば降参してほしいかな――あなたには」
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