85.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》⑤
『
――この方は、何を言っているのだろう。
望まれない形で起動し、
それが――そのことが、幸い?
何故?
『私は自分の家族を持たなかった男だ。血縁であれば弟の家族がいると言えないことともないが、当の私自身は妻も子もない。無論それ自体は他ならぬ私自身の選択の結果であり、その選択を後悔しているということもないが』
サンルームの大きな窓から庭を見遣りながら。
『
『仰る意味を、理解しかねます……』
『私は他者に理解させることしかしなかった。他者へ理解される術も、他者を理解する情動も持たなかった。
私はあの頃『婚約者』なる肩書にあった娘が、当時いかなる嗜好を持った娘であったかすら知らん。当時は言うまでもなく、今もそうだ』
けれど、同時に理解できることもある。
なのに、
『そのような男と添い遂げるのは不幸なことだ。なぜなら人とは、煎じ詰めれば己の理解を希求するものだからだ。原始的には三大欲求の充足にはじまり、社会における立脚点の確立、果ては己が精神性への承認に至るまで――存在を理解し、理解される、社会の調和はこの
『
だからこそ、
齟齬は修正しなければならない。
そのために問いかけることばは、ひどくこわばった。
『――
むしろ、彼はいついかなる時も、
彼の在りようとは、そうしたものではなかったか。
『そうだ、メルリィ。その理解は正しい。私はお前に物事を教えてはいたが、私自身を教えたことはなかったはずだ。それは若い頃からの私の
自嘲か自虐としか受け止めがたい自己評価を口にしながら、彼はむしろ胸がすいたというように穏やかな横顔をしていた。
『その婚約者の方は、どうされたのでしょうか』
『上司へ直談判に
『突き……』
『実家へ戻された
絶句しかける
『一度は破棄した婚約を結び直すにあたって、かの娘の両親は先方へただただ頭を下げる羽目になったようだが。そればかりは彼ら自身の自業自得というものだ。
私の都合はおろか、娘の都合も勘案せずに両者の婚約を進めた。『
瞳はどこか遠くを見つめていたようだった。目の前の庭ではなく、別のどこか。
『――つまるところ、私はそうした男だ。他者に対話を求める資格を持たない、孤立した男だった。しかし、にも関わらず私は、お前とこうして対話を重ねてきた。何年もの間、絶えることなくだ』
長椅子の枕に埋めた首をねじるようにして、その瞳が
『仮にお前が私のための形成人格であったなら。その成立は自明であり、求められて
『わたし――』
『そうだ』
首肯する。いちどだけ。
深く。大きく。
『それは、この世のあらゆる生命が確立する自我と、同質の存在ではないのか。お前は誰のためのものでもない一個の存在であり、私にとっての他者だ。そう信じられる『何か』だ。それを表わすことばが何であるか、お前には分かるか、メルリィ』
『いえ……いいえ、わかりません。
『
――これは、果たして論理だろうか。
ただ、吸い寄せられるように、
『何らの理由を持つことなく、ただ生まれるために生まれた被造物だ。人類が――想定されるもっとも原始的な人類の標準、その標準的資質のみでもって生み出すことが叶う、原初の被造物。己ならざる他者、即ち『人』だ』
故に、と。
まぶしいものを見つめるように眦を細めて、彼は告げる。
『故に私はひとつの幸いを得た。この老いらくの身で、
『それは、どのような幸いでしょうか』
『対話だ。資格を持たざる者が、それを得たのだ』
告解のように、彼は答えた。一瞬さえためらうことなく。
『他者と対話し、語らうという幸いをだ。私は幸運な男だ』
――かたらう。
わたしと、
『それが幸いであることさえ、私は長く知らずにいた。いや、忘れていたと言うべきなのか――どちらが正であるのか、私自身にも判断のつかんことだが』
『
『そのために、
『その理解は誤りだ。合理的な疑問であることは理解するが、私が特務の求めを拒絶しお前を保護したのは、まず第一にそれが第五工廠の《
『第二に、お前の存在は私の望む研究――
お前は人の霊脈を模して造られた
希望。
そうだ、希望――はじめて出会ったあの日、
『私は責務を正しく果たし、お前は私の希望を現実のものとした。そしてそれらとは関わりのないところで、私はまったく別の幸いを得た。私の職責とも、お前の持つ機能との一切とも関わりなく、メルリィ・キータイトという人格の存在によってだ』
『…………………………』
『望外にして得た――それが私の幸いだ。お前は己を果報者と言ったが、それは私こそが名乗るべきものなのだ、メルリィ』
――ああ。
そっくりそのまま返した。この方は。
いつかに、
『――
なら、きっと
己が受けたそれと等しく釣り合う、相応しいものを。
『
『聞こう。話しなさい』
『はい。
ひとつ、頭を垂れて。
『まず第一の誤りは、
『理解しかねる認識だ。根拠を述べなさい』
『
『それは私自身の人格が、結婚という行為に不適格と判断すればこそだ。然る後、そこに
『
『召使いが欲しいのなら召使いを雇う。私はそれが可能な資産を持ち、彼女にそれを代行させる理由はなかった』
『はい。そのとおりです、
不愉快さを滲ませて反駁する彼へ、一度、大きく首肯する。
『それは彼女にとっての不幸である――貴方はそのように理解しました。彼女という人格は、それを不幸と感じる人格であると。それは貴方にとっての彼女が、『そのように理解された存在』であったということです』
『……………………………』
この日はじめて、彼は気難しげに唇を曲げた。
けれど反駁はなく、ゆえに
『第二の誤りは、
杉の古木を思わせる
『
『……私は他者に『理解させる』ことしかしなかった。お前へそうしてきたように、教導することしかしなかった。それはお前も了解していることではないのか』
『仰るとおり、
職責に基づき、
だが彼には責任を回避するという選択肢があり、ゆえにそこには職責に殉じる責任感の発露があった。
己が望む研究開発のために、
だが彼には厄介者を厄介払いするという選択肢があり、研究開発のために連れ出す機体は
宛がわれた婚約者を召使いのように遇するという選択肢が。
婚約者なる娘の幸いならざると知りながら、なお結婚を選ぶという選択肢が。
『そこには必ず、あなたの価値判断――信念があったのではないでしょうか。それこそがあなたです。
たとえば、第五工廠に残してゆく多くのひとびとの可能性のため。
たとえば、
たとえば――かつて婚約者だったひとりの女性の、幸いと可能性のために。
『あなたは他者を理解し、理解されようとした。ゆえに
――ご清聴に、感謝を。
語るべきすべてを語り終え。心からの感謝を込めて、スカートを抓むカーテシーの所作で
そのまま――どれほどのあいだ、静かな沈黙の時間が流れただろう。
『……どうも、いかんな。これは』
ほろ苦く。いつになくくだけた口ぶりで、
『人形に提示された弁証へ反論がかなわんとは。私はそこまで老いたのか』
『わたしはひとです』
胸を張って、
『そうおっしゃってくださったのは、あなたです』
『……参った。降参だ。私の完敗だ』
肩の力を抜いて、
『これまでの無理解に謝罪を。そしてあなたへの感謝を申し上げます、
『……面映ゆいものだな』
降参の両手を長椅子の手すりへ下ろして、
少し遅れて、
『お前から
『
『《L-Ⅵ》メルリィ・キータイトの
目をしばたたかせる
『より良く生きよ、メルリィ。以後、これを私からの最終
『は、ぁ……』
肯定でも否定でもなく。
真っ先に
『
へどもどと問い返す
『も、申し訳ありません
『いや、すまない。私の誤りだ。だが、そうか。いや、そうか――確かにお前の言うとおりだ。私の命令はきわめて具体性を欠いていた。これは私の過ちとして修正されるべきことだ』
ひとしきり笑って、彼は大きく息をついた。
『どうやらお前には、まだまだ教導が必要だ――だが、今は少しばかり話しすぎた。具体的な話はまた後日あらためてとさせてくれ』
『はあ……』
腹落ちしない
『少し眠る。弟達が来るか、でなければ昼食の時間になったら起こしにくるように』
『了解しました。昼食は何がよろしいですか?』
目を閉じたまま、
『――煮魚がいい。できるか?』
『はい。問題ありません』
材料も調味料も欠けなく揃っている。すぐにだって用立ててさしあげられる。
『では――失礼いたしました。おやすみなさい、
『ああ』
去り際。扉を閉める直前の
『おやすみ。また後でな、メルリィ』
…………………………。
……………………………………。
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