85.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》⑤


人形工匠マエストロ……?』


 ――この方は、何を言っているのだろう。

 わたしには疑問しかなかった。


 わたしは、生まれるはずがなかった人格だった。

 望まれない形で起動し、機主マスターあやめてのうのうと永らえるできそこないの欠陥品だった。


 それが――そのことが、幸い?

 何故?


『私は自分の家族を持たなかった男だ。血縁であれば弟の家族がいると言えないことともないが、当の私自身は妻も子もない。無論それ自体は他ならぬ私自身の選択の結果であり、その選択を後悔しているということもないが』


 サンルームの大きな窓から庭を見遣りながら。人形工匠マエストロは口の端を歪めた。それは自嘲を含んだ、衒いのそれなのではないかと、不意に思い至った。


央都パレス操令人形マリオノールの権威などと呼ばれ始めた頃には、上司の勧めで婚約者なるものをあてがわれたこともあった。だが……まあ、上手くはいかなかったな。私は、今お前とこうしているようにしか、他者と対峙できん男だ』


『仰る意味を、理解しかねます……』


 人形工匠マエストロエクタバイナに婚約者がいたことは理解した。その婚約者――ないし妻――がいない現状、彼女とは死別したか結婚に失敗したかのどちらかであろうということ、おそらくはその後者であるのだろうということも。


『私は他者にことしかしなかった。他者へ術も、他者を情動も持たなかった。

 私はあの頃『婚約者』なる肩書にあった娘が、当時いかなる嗜好を持った娘であったかすら知らん。当時は言うまでもなく、今もそうだ』


 けれど、同時に理解できることもある。

 この国ガルク・トゥバスに冠たる技師――後に《人形工匠マエストロ》の称号を持つ方の妻となるのは、女性にとってひとつの栄誉であろうという理解だ。

 なのに、


『そのような男と添い遂げるのは不幸なことだ。なぜなら人とは、煎じ詰めれば己の理解を希求するものだからだ。原始的には三大欲求の充足にはじまり、社会における立脚点の確立、果ては己が精神性への承認に至るまで――存在を理解し、理解される、社会の調和はこの相補そうほによって成立する。私はその一方を欠いた。現在に至るまでだ』


わたしの記録を参照する限りですが――』


 だからこそ、人形工匠マエストロの結論に理解が追いつかない。

 わたしの理解には未だ重大な欠けがあり、齟齬そごが軋みを上げている。


 齟齬は修正しなければならない。

 そのために問いかけることばは、ひどくこわばった。


『――人形工匠マエストロわたしに対し、ご自身の理解を求められたことはなかった。そのように、記憶しています』


 むしろ、彼はいついかなる時も、わたしの問いに答え、あるいは世情や世界の在りようをこそ語ってくれていた。


 わたしを教え、導いてくれていた。 

 彼の在りようとは、そうしたものではなかったか。


『そうだ、メルリィ。その理解は正しい。私はお前に物事を教えてはいたが、を教えたことはなかったはずだ。それは若い頃からの私のならいであり――ゆえに元婚約者にとっての私とは、、対話不能の怪物であったということだ』


 自嘲か自虐としか受け止めがたい自己評価を口にしながら、彼はむしろ胸がすいたというように穏やかな横顔をしていた。


『その婚約者の方は、どうされたのでしょうか』


『上司へ直談判にき、突き返した。この娘は私の妻に相応ふさわしからざる娘であると、論拠を書き揃えて弁証した』


『突き……』


『実家へ戻されたのち、彼女は別の男と結婚したと聞いた。元々、私へあてがわれる前に婚約を結んでいた男とだ。あるべき元の鞘へ戻ったということだ』


 絶句しかけるわたしへ昔語りを続けながら。人形工匠マエストロはやわらかく口の端をゆるめる。


『一度は破棄した婚約を結び直すにあたって、かの娘の両親は先方へただただ頭を下げる羽目になったようだが。そればかりは彼ら自身の自業自得というものだ。

 私の都合はおろか、娘の都合も勘案せずに両者の婚約を進めた。『操令人形マリオノールの権威』なる肩書に目がくらんで不義理を働いた。浅薄な過ちの結果だ』


 瞳はどこか遠くを見つめていたようだった。目の前の庭ではなく、別のどこか。


『――つまるところ、私はそうした男だ。他者にを求める資格を持たない、孤立した男だった。しかし、にも関わらず私は、お前とこうして対話を重ねてきた。何年もの間、絶えることなくだ』


 長椅子の枕に埋めた首をねじるようにして、その瞳がわたしを捉える。


『仮にお前が形成人格であったなら。その成立は自明であり、求められてしかるべき機能のひとつに過ぎない。しかしお前の人格とはそうしたものではない――理由を持たずこの世界へ生まれ落ちた、の人格だ』


『わたし――』


『そうだ』


 首肯する。いちどだけ。

 深く。大きく。


『それは、この世のあらゆる生命が確立する自我と、同質の存在ではないのか。お前は誰のためのものでもない一個の存在であり、私にとってのだ。そう信じられる『何か』だ。それを表わすことばが何であるか、お前には分かるか、メルリィ』


『いえ……いいえ、わかりません。わたしには――』


ひとだ。私はそう結論した』


 ――これは、果たして論理だろうか。

 ただ、吸い寄せられるように、わたしはそのことばを聞く。


『何らの理由を持つことなく、ただ生まれるために生まれた被造物だ。人類が――想定されるもっとも原始的な人類の標準、その標準的資質のみでもって生み出すことが叶う、原初の被造物。己ならざる他者、即ち『人』だ』


 故に、と。

 まぶしいものを見つめるように眦を細めて、彼は告げる。


『故に私はひとつの幸いを得た。この老いらくの身で、ようやくにしてだ』


『それは、どのような幸いでしょうか』


『対話だ。資格を持たざる者が、それを得たのだ』


 告解のように、彼は答えた。一瞬さえためらうことなく。


『他者と対話し、という幸いをだ。私は幸運な男だ』


 ――かたらう。

 わたしと、


『それが幸いであることさえ、私は長く知らずにいた。いや、忘れていたと言うべきなのか――どちらが正であるのか、私自身にも判断のつかんことだが』


人形工匠マエストロは』


 わたしは僅かに身を乗り出し、彼の言葉を遮って問うていた。


『そのために、わたしを特務の方々から庇ってくださったのでしょうか。人形工匠マエストロは、あの時』


『その理解は誤りだ。合理的な疑問であることは理解するが、私が特務の求めを拒絶しお前を保護したのは、まず第一にそれが第五工廠の《人形工匠マエストロ》たる私の職責であったからだ』


 わたしの齟齬を、彼は修正する。

 

『第二に、お前の存在は私の望む研究――義肢ぎしの研究開発を推し進める助けになると判断したからだ。

 お前は人の霊脈を模して造られた人形ドールであり、その疑似霊脈網群デミ・レイラインは可変だ。その機構に疑似霊脈網群デミ・レイラインを搭載した、自在に動く義肢の開発。私はお前という機体に、その実現に繋がる希望を見た』


 希望。

 そうだ、希望――はじめて出会ったあの日、人形工匠マエストロは確かに、わたしをそう呼んだのだ。


『私は責務を正しく果たし、お前は私の希望を現実のものとした。そしてそれらとは関わりのないところで、私はまったく別の幸いを得た。私の職責とも、お前の持つ機能との一切とも関わりなく、メルリィ・キータイトという人格の存在によってだ』


『…………………………』


『望外にして得た――それが私の幸いだ。お前は己を果報者と言ったが、それは私こそが名乗るべきものなのだ、メルリィ』


 ――ああ。


 わたしが口にしたばかりだった、そのことばを。

 そっくりそのまま返した。この方は。


 いつかに、わたしを希望と呼んでくれた――わたしを、幸いであると教えてくれた、この方は。


『――人形工匠マエストロ


 なら、きっとわたしは返さなければならない。

 己が受けたそれと等しく釣り合う、相応しいものを。


人形工匠マエストロのお話を、わたしは了解できたと判断します。ですがそのうえで――僭越せんえつながら申し上げます。人形工匠マエストロのご認識には、いくつかの誤りがあるのではないでしょうか』


『聞こう。話しなさい』


『はい。人形工匠マエストロ


 ひとつ、頭を垂れて。わたしは語りだす。


『まず第一の誤りは、人形工匠マエストロが他者を、婚約者たる女性を理解しなかったというご認識です。それが十分なものであったかに疑義ぎぎを差し挟む余地こそあれ、人形工匠マエストロはかの女性を理解されていたはずです』


『理解しかねる認識だ。根拠を述べなさい』


人形工匠マエストロはかの女性に対し、自らと結婚するのが不幸であると断定しました。しかし、当時すでに『操令人形マリオノールの権威』という肩書を持ち、後に《人形工匠マエストロ》の冠を戴く貴方との婚姻は、一般的な判断に基づく限り、恵まれた婚姻であると断定可能です』


『それは私自身の人格が、結婚という行為に不適格と判断すればこそだ。然る後、そこに齟齬そごはないはずだが?』


人形工匠マエストロにはかの女性と結婚する選択も可能でした。身の回りを世話させる召使い代わりにすることもできたでしょう。ですが人形工匠マエストロ、貴方はそうはされなかった』


『召使いが欲しいのなら召使いを雇う。私はそれが可能な資産を持ち、彼女にそれを代行させる理由はなかった』


『はい。そのとおりです、人形工匠マエストロ


 不愉快さを滲ませて反駁する彼へ、一度、大きく首肯する。


『それは彼女にとっての不幸である――貴方はそのようにしました。彼女という人格は、それを不幸と感じる人格であると。それは貴方にとっての彼女が、『そのように理解された存在』であったということです』


『……………………………』


 この日はじめて、彼は気難しげに唇を曲げた。

 けれど反駁はなく、ゆえにわたしはことばを続ける。


『第二の誤りは、人形工匠マエストロがご自身を理解させなかったというご認識です。人形工匠マエストロは常に多くを語られていた。あとはわたしが、それに気づきさえすればよかったことなのです』


 杉の古木を思わせる人形工匠マエストロの面には、疑問の――否、戸惑いの色があった。


人形工匠マエストロが理解されなかったとすれば――少なくともわたし個人に限るならば、それはわたし自身の怠慢によるものです。ゆえにわたしは、それをあなたへお詫びしなくてはいけない』


『……私は他者に『理解させる』ことしかしなかった。お前へそうしてきたように、教導することしかしなかった。それはお前も了解していることではないのか』


『仰るとおり、人形工匠マエストロはこれまで幾度も、わたしの無知を教導なさいました。ですがそこには、常にあなたのがありました』


 職責に基づき、メルリィを保護した。

 だが彼には責任を回避するという選択肢があり、ゆえにそこには職責に殉じる責任感の発露があった。


 己が望む研究開発のために、メルリィを保護した。

 だが彼には厄介者を厄介払いするという選択肢があり、研究開発のために連れ出す機体はわたしでなくともよかったのだ。


 宛がわれた婚約者を召使いのように遇するという選択肢が。

 婚約者なる娘の幸いならざると知りながら、なお結婚を選ぶという選択肢が。


『そこには必ず、あなたの価値判断――があったのではないでしょうか。それこそがあなたです。メルリィはそのように判断し、これを信じます』


 たとえば、第五工廠に残してゆく多くのひとびとの可能性のため。

 たとえば、姪孫てっそんの、それに連なるひとびとの幸いのため。

 たとえば――かつて婚約者だったひとりの女性の、幸いと可能性のために。


『あなたは他者を理解し、理解されようとした。ゆえに人形工匠マエストロ、あなたは怪物ではありません。あなたはわたしのマスターです』


 ――ご清聴に、感謝を。

 語るべきすべてを語り終え。心からの感謝を込めて、スカートを抓むカーテシーの所作でこうべを垂れる。

 そのまま――どれほどのあいだ、静かな沈黙の時間が流れただろう。


『……どうも、いかんな。これは』


 ほろ苦く。いつになくくだけた口ぶりで、人形工匠マエストロは苦笑する。


『人形に提示された弁証へ反論がかなわんとは。私はそこまで老いたのか』


『わたしはです』


 胸を張って、わたしは告げる。


『そうおっしゃってくださったのは、あなたです』


『……参った。降参だ。私の完敗だ』


 肩の力を抜いて、人形工匠マエストロ両手を上げる。

 わたしは笑っていた。衝動で、ちいさく肩を震わせて。


『これまでの無理解に謝罪を。そしてあなたへの感謝を申し上げます、人形工匠マエストロ。わたしが敬し仰ぐ我が機主マイマスター――わたしがあなたの幸いとなれたのなら、それはあなたが素晴らしい方だったからです。わたしは――』


『……面映ゆいものだな』


 降参の両手を長椅子の手すりへ下ろして、人形工匠マエストロはひとりごちた。

 少し遅れて、人形工匠マエストロはばつが悪そうに唇を曲げた。わたしのことばを遮ったのではなく、完全な無意識の発露のようだった。


『お前から機主マスターと呼ばれたのは、これが初めてかもしれん。思えば私はこれまで、機主マスターとしてお前に何かを命じたことはなかった』


人形工匠マエストロ?』


『《L-Ⅵ》メルリィ・キータイトの機主マスターとして、お前にひとつ命令オーダーを与える』


 目をしばたたかせるわたしへ、彼は言った。


、メルリィ。以後、これを私からの最終命令オーダーと心得て、常に励むようにせよ』


『は、ぁ……』


 肯定でも否定でもなく。

 真っ先にわたしの口から零れたそれは、困惑の呻きだった。


人形工匠マエストロ――いえ、あの、マスター。そのご命令オーダーとは、具体的にはどのように……?』


 へどもどと問い返すわたしを。

 人形工匠マエストロは最初、目を剥いて見つめ、それから声を立てて大きく笑った。


『も、申し訳ありません人形工匠マエストロ! わたし、あのっ』


『いや、すまない。私の誤りだ。だが、そうか。いや、そうか――確かにお前の言うとおりだ。私の命令はきわめて具体性を欠いていた。これは私の過ちとして修正されるべきことだ』


 ひとしきり笑って、彼は大きく息をついた。


『どうやらお前には、まだまだ教導が必要だ――だが、今は少しばかり話しすぎた。具体的な話はまた後日あらためてとさせてくれ』


『はあ……』


 腹落ちしないわたしを他所に、人形工匠マエストロは目を閉じ、ゆったりと長椅子へ体を預ける。


『少し眠る。弟達が来るか、でなければ昼食の時間になったら起こしにくるように』


『了解しました。昼食は何がよろしいですか?』


 目を閉じたまま、人形工匠マエストロは少し考え込んだようだった。


『――煮魚がいい。できるか?』


『はい。問題ありません』


 材料も調味料も欠けなく揃っている。すぐにだって用立ててさしあげられる。

 わたしは彼の――機主マスターたる人形工匠マエストロの命に従い、退室のため下がった。


『では――失礼いたしました。おやすみなさい、人形工匠マエストロ


『ああ』


 去り際。扉を閉める直前のわたしへ、彼はまどろんだ声で応える。


『おやすみ。また後でな、メルリィ』


 …………………………。


 ……………………………………。

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