84.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》④
――果たしてその時、
否、『思う』という形容は誤りだ。
ただその時、
その
『お前が人の娘であれば、信頼に足る誰ぞへ嫁にやるのもいい。どこぞの弁護士なりを後見人に立ててやり、正当な財産の分与もできた。だがお前はそうではない。お前は《
『……どこか、お身体が悪いのですか』
『悪いというなら体のどこもが悪い。最前から繰り返すとおり、私は老人だ』
いったい何がおかしいのだろう。
どうして、そんな話をするのだろう――このひとは。
『研究ばかりの人生だった。無理も不摂生も常態だった。ここ何年かはそうでもなかったが、さりとて過去に積み重ねた負の蓄積が帳消しになるものでもない。体の衰えも過去の反動も、己の身体のことだ。仔細は分からずとも、いい加減、自覚はする』
もっとも、と。彼は息をつく。
『差し迫った危機はなくとも、この先いずれかの時にはそれが訪れるのだ。その事実を自覚する程度には、私は衰えた――故に私は、
そう語る声音は、常より幾分か柔らかかった。
それはまるで、
『では……そのためだと
『ならば、
『……どうやら我々の間には、大いなる誤解があるようだ』
重ねて問いかける
『ようやく得心がいった。お前もロステムも、何故そこまで深刻に構えるのかと疑問でならなかったのだが。しかし敢えて厳しく答えるならば、お前の理解はそのすべてがまったく誤ったものだ』
『それは……では、それなら』
『まず、あれらを渡した理由は最前に述べたとおりだ。また――これもすでに述べた通り――必要なことのすべては私の頭の中に遺漏なく入っている。ロステムとカーレルに渡したあれらのすべては、あらためて書き直せば済むものだ』
『……………………』
『故に。まず第一の誤りは、私が研究を手放したという認識だ。私は自らの手で研究を続ける意思を持ち、あれらを共有したのは滞りない検証のためだ。
検証すべき技術も実装すべき技術も未だ多くあり、時間は全く足りない。若く情熱ある後進の技師らへそれらを委ねられれば、すべてはより迅速に進む』
『あ……』
……恥ずかしくなった。
それらはすべて、確かに
なぜ、そんな最前の出来事すら想起できなかったのか。これまでの話をまったく聞いていなかったものとして咎められても、
『第二の誤りは、研究の有無とお前の要否がイコールであるという認識だ。もし仮にこの先、私が研究の遂行すらままならないほどに衰え弱り果てたとすればだ。その時の私はむしろ、お前という存在にこそ縋らねばならない身の上だろう』
そんな、と口を挟みそうになって。
『今ですら、私はお前の存在に助けられている。お前は自覚がないようだが、メルリィ。メルリィ・キータイトという存在なしには、この家における私の研究は成立しなかった』
『それは……義肢の試験体と、して……?』
『それでは回答として不十分だ。五割――いや、二割にも満たんといったところだ』
『三度の食事。清掃。清潔な衣服。日々消費される物資の調達――この家で研究を遂行するにあたって求められる基盤、整然たる環境は、これまでお前の手で整えられてきた。研究者にとって最も重要なものが何であるか、私はかつて、お前に教えていたはずだ』
第五工廠を後にした、いつかの冬の日に。
この家での、
『整然たる環境……です』
『そうだ』
彼はその重要性を
『そう。私は日々の
あの日の激賞とどこか相似た熱を込めて、彼は語る。
『貢献の偉大さは、それが支えた私の成果と比例するだろう。そして私は、自身の研究が祖国の発展への、すべての欠けたる者達への偉大なる貢献であると確信している』
偉大なる貢献。
――すべてのひとの、幸いと可能性のための。
『故に私はお前の貢献を、その存在を偉大なものと確信する。その偉大な補佐官を、
それは、問いだった。
理解を試すものではない。それはきっと、ただ、
『……いいえ』
ゆっくりと、首を横に振る。何度も。
『いいえ
『そうだ。お前は愚かだ。杞憂に右往左往し、かつ己の果たした貢献に無自覚だ』
虚空へ向けて放たれたことばは、まるで勝利の後のように高揚していた。
いや、それは正しく勝利のことばだ。
『謙虚であることはひとつの美徳だ。だが、お前のそれを謙虚とは、少なくとも私は認識しない。卑屈は悪徳だ。健全な精神を蝕む腐った毒素だ』
どうしたものか――と言わんばかりで眉間にしわを寄せ、深くため息を吐く。
『どうやら私の補佐官は、揃ってそうした悪徳を抱える愚か者ばかりであるようだ。お前達は職責と貢献に自覚を持ち、それに相応しく振る舞うべきなのだ』
『はい――はい、
ええ。仰るとおりでした、
すべて、あなたの仰るとおり。
補佐官。あなたの幸いのための。
そのことばを、
『何を笑うのか、メルリィ。私は今、お前を叱っているのだ』
『はい――はい。承知しています
『……なら、いい。実に疑わしいことだが、確証をもって詰問できることでもない』
そうでしょう。けれど本当のことなのです。
だって、
『――
GTEM513-LⅥ――L-Ⅵ《メルリィ・キータイト》。
《
血臭と死と混迷に塗れた、この世のありとあらゆる祝福から遥か遠く隔てられた、その最果てのようだった、最初の
『――
弾劾と糾弾の果てに、何もなさず消えてゆくだけだったはずのもの。
『
『お前の、その理解を否とする明確な根拠を、私は持たない』
それは紛れもなく事実だ。
嘘で他者を慰める弁舌を、
ちゃんと、わかってる。
失敗の果てに、誰からも望まれることなく生まれてしまった忌まれる鬼子――それが『メルリィ・キータイト』なのだとわかっている。
けれど、
『形成人格の端緒は、
人工知能であれば、《
『すべての形成人格は人のためのものだ。人の隣人として、人と対話するために用立てられた作りものだ。人が好意を抱くよう、人に不快を与えぬよう。それら人格は定められた形に、数多の理由をもってその
ちいさく、彼は息をつく。
『――メルリィ・キータイト。お前はそうではない。お前は誰からも望まれることなく、ただこの世界に生まれ落ちた理由のない人格だ。仮にあの日、正しく想定通りの起動がなされていたならば――確かに、お前という人格は存在しえないものだった』
知っている。理解している。
何度もその可能性を振り返った。
振り返るたびに思い知り、打ちのめされた。
あの日、本当にそうして生まれることができたなら――
『だが、それゆえに並列して語り得ることがある。お前は望まれることなく今の形を得た。お前は理由を持たずに今の
ひとつ、もう一度、ちいさく息をつく。
それはどうしてか、諦観のように静かな吐息だった。
『――その厳然たる事実は、私にとっての幸いであったということだ』
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