84.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》④


 ――果たしてその時、わたしは何を思っていただろう。


 否、『思う』という形容は誤りだ。機甲人形オートマタの身の上には、相応しいものではないはずだ。


 ただその時、わたしの契法晶駆動基は急速にその動きを鈍らせたようで。まるで機体フレームの内側に穴が開き、契法晶駆動基のあるべき場所がただのうろへと変わってしまったかのような、不気味で度し難い感覚エラーを自覚していた。


 そのわたしに何を思ったのか――わたしは、いったい彼に何を思わせてしまったのか――人形工匠マエストロは苦笑をこらえるように、口の端を歪めた。


『お前が人の娘であれば、信頼に足る誰ぞへ嫁にやるのもいい。どこぞの弁護士なりを後見人に立ててやり、正当な財産の分与もできた。だがお前はそうではない。お前は《機甲人形オートマタ》だ』


『……どこか、お身体が悪いのですか』


『悪いというなら体のどこもが悪い。最前から繰り返すとおり、私は老人だ』


 人形工匠マエストロはとうとう苦笑を堪え損ねたように笑った。


 いったい何がおかしいのだろう。

 どうして、そんな話をするのだろう――このひとは。


『研究ばかりの人生だった。無理も不摂生も常態だった。ここ何年かはそうでもなかったが、さりとて過去に積み重ねた負の蓄積が帳消しになるものでもない。体の衰えも過去の反動も、己の身体のことだ。仔細は分からずとも、いい加減、自覚はする』


 もっとも、と。彼は息をつく。


『差し迫った危機はなくとも、この先いずれかの時にはそれが訪れるのだ。その事実を自覚する程度には、私は衰えた――故に私は、真実しんじつ差し迫った何かが訪れる前、衰えによって私のなすべきをなせなくなるその前に、必要な手筈を整えねばならないのだ』


 そう語る声音は、常より幾分か柔らかかった。

 それはまるで、わたしを、宥めるかのようで。


『では……そのためだと人形工匠マエストロは仰るのですか。研究を手放されたのも』


 わたしは問う。


『ならば、人形工匠マエストロの研究は今日この時をもって滞りなく終わり――わたしはもはや、不要であるとの御意向なのですか』


『……どうやら我々の間には、大いなる誤解があるようだ』


 重ねて問いかけるわたしを一瞥して。

 人形工匠マエストロはちいさく息をついた。それは、溢れる笑みを堪えそこねた息遣いに聞こえた。


『ようやく得心がいった。お前もロステムも、何故そこまで深刻に構えるのかと疑問でならなかったのだが。しかし敢えて厳しく答えるならば、お前の理解はそのすべてがまったく誤ったものだ』


『それは……では、それなら』


『まず、あれらを渡した理由は最前に述べたとおりだ。また――これもすでに述べた通り――必要なことのすべては私の頭の中に遺漏なく入っている。ロステムとカーレルに渡したあれらのすべては、あらためて書き直せば済むものだ』


『……………………』


『故に。まず第一の誤りは、私が研究を手放したという認識だ。私は自らの手で研究を続ける意思を持ち、あれらを共有したのは滞りない検証のためだ。

 検証すべき技術も実装すべき技術も未だ多くあり、時間は全く足りない。若く情熱ある後進の技師らへそれらを委ねられれば、すべてはより迅速に進む』


『あ……』


 ……恥ずかしくなった。

 それらはすべて、確かに人形工匠マエストロの口から語られたばかりだったことだ。


 なぜ、そんな最前の出来事すら想起できなかったのか。これまでの話をまったく聞いていなかったものとして咎められても、わたしにはまったく言い訳のしようがない。


『第二の誤りは、研究の有無とお前の要否がイコールであるという認識だ。もし仮にこの先、私が研究の遂行すらままならないほどに衰え弱り果てたとすればだ。その時の私はむしろ、お前という存在にこそ縋らねばならない身の上だろう』


 そんな、と口を挟みそうになって。わたしは自制した。

 人形工匠マエストロがそんな風になることなど想像すら及ばなかったが、けれど根拠のない軽々な否定に意味はない。彼に訂正の手間をとらせるだけだ。


『今ですら、私はお前の存在に助けられている。お前は自覚がないようだが、メルリィ。メルリィ・キータイトという存在なしには、この家における私の研究は成立しなかった』


『それは……義肢の試験体と、して……?』


『それでは回答として不十分だ。五割――いや、二割にも満たんといったところだ』


 人形工匠マエストロは首を横に振る。


『三度の食事。清掃。清潔な衣服。日々消費される物資の調達――この家で研究を遂行するにあたって求められる基盤、は、これまでお前の手で整えられてきた。研究者にとって最も重要なものが何であるか、私はかつて、お前に教えていたはずだ』


 第五工廠を後にした、いつかの冬の日に。

 この家での、人形工匠マエストロとの日々がはじまった、あの忘れがたきはじまりの日に。彼は、


『整然たる環境……です』


『そうだ』


 彼はその重要性をわたしへ解き、その構築へ貢献しつづけたロステム工廠長――当時のロステム補佐官を激賞した。


『そう。私は日々の雑音ノイズとなるあらゆる雑事から遠ざけられ、時間を空費することなく研鑽と検証にあたった。研究者を容易になまらせ、擦り減らし、消耗に追いやるすべてを、お前の存在が防壁となって回避せしめた。これは偉大な貢献だ』


 あの日の激賞とどこか相似た熱を込めて、彼は語る。

 

『貢献の偉大さは、それが支えた私の成果と比例するだろう。そして私は、自身の研究が祖国の発展への、への偉大なる貢献であると確信している』


 偉大なる貢献。

 ――すべてのひとの、幸いと可能性のための。


『故に私はお前の貢献を、その存在を偉大なものと確信する。その偉大な補佐官を、何故なにゆえむざむざ手放すことができるというのか――メルリィ・キータイト、お前にはそれが起こりうる理由が分かるというのか?』


 それは、問いだった。

 理解を試すものではない。それはきっと、ただ、わたしのための、


『……いいえ』


 ゆっくりと、首を横に振る。何度も。

 人形工匠マエストロの問いを――わたしのための、ただ否定されるために向けられたその問いを、わたしは否定する。


『いいえ人形工匠マエストロ。分かりません。わたしは――わたしは愚かでした。わたしの誤りには、何らの根拠もなかったのだと知りました』


『そうだ。お前は愚かだ。杞憂に右往左往し、かつ己の果たした貢献に無自覚だ』


 虚空へ向けて放たれたことばは、まるで勝利の後のように高揚していた。

 いや、それは正しく勝利のことばだ。わたしの愚かな不定見を、彼は一片も残すことなく駆逐したのだ。


『謙虚であることはひとつの美徳だ。だが、お前のそれを謙虚とは、少なくとも私は認識しない。卑屈は悪徳だ。健全な精神を蝕む腐った毒素だ』


 どうしたものか――と言わんばかりで眉間にしわを寄せ、深くため息を吐く。


『どうやら私のは、揃ってそうした悪徳を抱える愚か者ばかりであるようだ。お前達は職責と貢献に自覚を持ち、それに相応しく振る舞うべきなのだ』


『はい――はい、人形工匠マエストロ。はい』


 ええ。仰るとおりでした、人形工匠マエストロ

 すべて、あなたの仰るとおり。


 補佐官。あなたの幸いのための。

 そのことばを、わたしはは心から誇りに思うのです。


『何を笑うのか、メルリィ。私は今、お前を叱っているのだ』


『はい――はい。承知しています人形工匠マエストロ。メルリィは深く反省し、己の不明を悔いています』


『……なら、いい。実に疑わしいことだが、確証をもって詰問できることでもない』


 そうでしょう。けれど本当のことなのです。人形工匠マエストロ

 わたしは今、己の不明を心から恥じて、悔いているのです。

 だって、


『――わたしは果報者です』


 GTEM513-LⅥ――L-Ⅵ《メルリィ・キータイト》。


 《操令人形マリオノール》として世に送り出されるはずだった存在もの


 血臭と死と混迷に塗れた、この世のありとあらゆる祝福から遥か遠く隔てられた、その最果てのようだった、最初の覚醒めざめ


『――わたしは、いてはいけないものだったのに』


 機主マスターを死に追いやり。

 弾劾と糾弾の果てに、何もなさず消えてゆくだけだったはずのもの。


わたしは――生まれるはずがなかった、人格わたし、なのに。なのに、わたしは今、こんなにも』


『お前の、その理解を否とする明確な根拠を、私は持たない』


 それは紛れもなく事実だ。

 嘘で他者を慰める弁舌を、人形工匠マエストロは持たないから。


 ちゃんと、わかってる。わたしは失敗作だ。


 失敗の果てに、誰からも望まれることなく生まれてしまった忌まれる鬼子――それが『メルリィ・キータイト』なのだとわかっている。

 けれど、


『形成人格の端緒は、人工知能アーティフィシャル・インテリジェンスの拡張外殻だ。より精密に人と対話し、より良質の奉仕を提供するための橋渡しインターフェイスとして、形成人格の技術は生み出された』


 人工知能であれば、《操令人形マリオノール》にも存在する。人の意思を正確に把握し、その意図を正しく実現するべく機体を操る、そのための知性だ。


 操令人形マリオノールが形成人格を持たないのは、ただ必要がないからという、それだけの理由だ。操令人形マリオノールは人の意志で動き、対話を必要としない人形ものだから。


『すべての形成人格はのものだ。人の隣人として、人と対話するために用立てられた作りものだ。人が好意を抱くよう、人に不快を与えぬよう。それら人格は定められた形に、数多の理由をもってそのかたちへと調律されたものだ。だが』


 ちいさく、彼は息をつく。


『――メルリィ・キータイト。お前はそうではない。お前は誰からも望まれることなく、この世界に生まれ落ちた理由のない人格だ。仮にあの日、正しく想定通りの起動がなされていたならば――確かに、お前という人格は存在しえないものだった』


 知っている。理解している。


 何度もその可能性を振り返った。

 振り返るたびに思い知り、打ちのめされた。


 あの日、本当にそうして生まれることができたなら――わたしは、自身さえ必要なかったのに。


『だが、それゆえに並列して語り得ることがある。お前は望まれることなく今の形を得た。お前は理由を持たずに今のかたちを得た人格だ。その事実は――』


 ひとつ、もう一度、ちいさく息をつく。

 それはどうしてか、諦観のように静かな吐息だった。


『――その厳然たる事実は、私にとっての幸いであったということだ』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る