83.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》③

 秋を過ぎ、冬を越えて。

 春を待ち、夏を迎えて。


 ――そんな風に。どれだけの季節を重ねただろう。

 それは、さほどの数多くを積み重ねることができたものでは――決して、なかったのだろうけれど。

 けれど、



『――では、我々はこれで』


『はい』


 その日の朝。

 わたしはふたりの男性を玄関まで見送っていた。


 ひとりは、針金のように痩せて顔色の悪い、神経質そうな壮齢の男性。

 もう一人は、ふくふくと血色のいい頬と丁寧に整えた口髭をした、パンのように恰幅のいい老境の男性。


 痩せた男性は《人形工匠マエストロ》エクタバイナのかつての補佐官にして、現在の第五工廠を長として預かる《人形工芸士ドールクラフト》ロステム工廠長。

 もう一人はカーレル医局長といい、《人形工匠マエストロ》エクタバイナから受けた説明によれば彼は央都パレス国立医局の長であり、人形工匠マエストロの旧い知己なのだそうだ。


『駅までお見送りをするよう、人形工匠マエストロより言いつかっております』


『いえ、結構……駅までの道は一度通ってきておりますので』


 元補佐官が、丁重な所作で見送りを謝絶する。

 彼らが大事そうに抱えた鞄の中には、先ほど渡されたばかりの資料がおさまっている。


 研究資料だ。

 言うまでもなく、《人形工匠マエストロ》エクタバイナのものだ。


『お二人には遠方よりのご足労をいただきました。《人形工匠マエストロ》に代わってメルリィより、あらためて深く御礼おんれいを申し上げます』


『……《人形工匠マエストロ》には、どうかお大事にとお伝え願います』


 《人形工匠マエストロ》エクタバイナは三日前から微熱が続いていた。

 彼はそのことを気にしているのだ。


『承りました。ロステム工廠長』


『ええ』


 ――第五工廠の長である彼は、人形工匠マエストロと呼ばれて然るべき立場の人間ではある。

 その観点に則れば、わたしの呼び方は紛れようもなく非礼にあたる。


 だが、彼は自らがそう呼ばれることを良しとしないひとだ。

 だから、むしろ彼は、わたしが自分を『人形工匠マエストロ』と呼ばなかったことで、血色の悪い細面に安堵めいた感情を滲ませていたようだった。


 《人形工匠マエストロ》エクタバイナが央都パレスを去ったことを未だよしとせず、工廠の長となった今なお人形工匠マエストロの冠を固辞しつづけるひと。

 そんな彼に《人形工匠マエストロ》エクタバイナは、


『頑固な愚か者だ。称揚に対する最悪の非礼だ。然るべき地位を得たものがその冠を戴かずいるのは怯懦きょうだであり、のみならず責任に対する怠惰だ。優秀な男と思っていたが、よもやロステムがこのような悪徳の持ち主とは思いもよらぬことだった。私はロステムをかいかぶっていたのだ』


 ――と。

 わたしを相手に、憤慨を隠すことなく延々と罵りの文句を並べ立てていた。

 けれど今日、その罵りの一切が、当の本人へとぶつけられることはなかった。決して。


 その彼の、痩せた面相にあったぬくんだ安堵が、不意に昏く陰る。


『では……私はこれで。《人形工匠マエストロ》には、くれぐれも、その』


『伝えます。帰路の道中、どうぞお気をつけてお帰りになられますよう』


 わたしは深く頭を垂れ、主人を代行する従者の礼節を以て彼を見送る。



 腰を折って頭を垂れたわたしからでは、その時のロステム元補佐官の顔色はうかがえなかったが。彼は陰った面持ちを、より一層の苦渋にゆがめていたかもしれなかった。


 かろうじて視界におさめることができた革靴が踵を返して、《人形工匠マエストロ》エクタバイナの家を辞する。


 央都パレス国立医局長たる老人は私と彼の背をおたおたと交互に見ていたようだったが。やがて私へ向きなおっていとまを告げ、ロステム元補佐官の後を追ってこの家を後にした。


 ――彼らの表情。

 その理由が、わたしはおそらく理解できる。


 それはきっと、今この時にわたしが抱いているそれと、同じ懸念に依拠するものだから。


 ふたりの客人を見送り、ぱたんと玄関の扉が閉まる音を聞いて。

 わたしは足早にこの家で一番広いリビングへと引き返し、奥のサンルームへと向かう。


『《人形工匠マエストロ》』


 日当たりのいいサンルーム。

 庭へと続く大窓の窓辺で。

 長椅子へ寝そべるように体を預けた人形工匠マエストロエクタバイナは、生垣に囲った芝ばかりのちいさな庭を、見るともなく見遣っていた。

 あるいはその先――駅へと向かう二人の男の先行きを。


 杉の古木を思わせる老爺は長椅子に痩せた体を横たえて、まるで真実、そうした形の古木であるかのようだった。


『お二人がお帰りになられました。駅までの見送りは不要とのことでした』


『そうか』


『……お二人とも、今回のことは随分と困惑しておいでのご様子でしたが』


『いつも通り、研究成果と技術開発の共有だ。本来であれば緊密に、綿密に行われて然るべきことだ。それをどうして困惑することがあるというのか。理解に苦しむ』


『僭越ながら《人形工匠マエストロ》エクタバイナ。それは今回、未完成分の研究や走り書きのメモに至るまで、資料としてお渡しされたためと存じます。あれではまるで』


『未完成の内容とはいえ、あれらは彼らに共有した研究と技術の延長上にあるものだ。検証のまったく不足したものばかりだが、真実それが有益なものとして検証されれば、第五工廠なり国立医局なりの誰ぞが後の糧と活かすだろう』


『ですが人形工匠マエストロ、それでは人形工匠マエストロの研究が』


『必要なことはすべて頭の中に入っている。幸いにして未だ私の理解に遺漏はなく、あれらはすべて書き直せば済むものだ。だが、それでも私は老人なのだ』


 彼は大きく息をついて、より深く体を長椅子に沈めたようだった。


『私の体は衰え、以前ほどには無理がきかなくなった。集中力が落ち、長く作業を続けるのが困難になった。検証すべき技術も実装すべき技術も未だ多くあり、時間は全く足りない。にも関わらず、私の衰えた体はその時間を無為にすり潰す』


 衰えた、と彼は自らを評したが。

 杉の古木――その樹肌を撫でたときの触れ心地を思わせる硬く静かな声は何ら変わることなく明瞭にして明晰で、流れ出す言葉は強く雄弁だった。


『それを承知していながら、推し進められるべき技術と研究のすべてを我が身ひとつのうちへ抱え込みつづけるのであれば、それは無意味を越えて害悪だ。老害と弾劾されて然るべき害悪だ』


『そんなことは』


『若く情熱ある後進の技師らへそれらを委ねられれば、すべてはより迅速に進むだろう。私が記したすべてが後に繋がるものではあるまいが、役に立たぬ無用と検証されることも進歩のひとつだ。失敗は誤った道を封鎖し、あるいはその理由の検証を促し、然る後に正しい道へと歩みを進める契機となるからだ』


 否定しかけるわたしを遮るように、人形工匠マエストロは口早の声を強める。


『それら蓄積は常に、あたうる限りの迅速で行われるべきものだ。そうした判断のもと、私は未完成の研究資料も含めたすべてをあの二人に委ねた。あとは彼らが余計な謙譲けんじょう躊躇ちゅうちょに妨げられることなく、冷徹にあれらの検証を推し進めることを期待するだけだ』


 それより、と。

 ひとしきり言うべきことを言い終えてか、人形工匠マエストロは話題を切り替えにかかる。


『弟と甥夫婦はまだ来ないのだな。そろそろ約束の時間だが』


 手にした懐中時計を見下ろし、そうひとりごちる。

 人形工匠マエストロは後に来客が控えているのを理由に押し立て、困惑と不安が露わだった元補佐官と医局長を追い払うように帰らせた。その肝心の来客がこうして遅れているとなれば、さすがに最前の二人を粗雑に扱ったことへ、多少はばつの悪さを覚えるのかもしれなかった。


『今日は列車が遅れていたようでした。その可能性を見越して、ロステム工廠長とカーレル医局長も昨晩のうちにこちらへ』


『《人形工匠マエストロ》だ、メルリィ』


 ぴしゃりと指摘が入る。


『今のロステムは第五工廠の長、《人形工匠マエストロ》ロステムだ。やつの悪徳にお前まで付き合う必要はない。

 ……お前が私を今なお人形工匠マエストロと呼ぶ件はとうに訂正も諦めたが、それでも聞き捨てならないことはある。改めなさい、メルリィ』


『申し訳ありません、《人形工匠マエストロ》エクタバイナ』


 𠮟りつける言葉を受けて、わたしは謝罪する。

 人形工匠マエストロは、ひとまずそれでよしとしてくれたようだった。


『しかし、そうか。列車か。であれば、致し方ないことだ』


『……戦争には勝ったというのに、世情はあまりよくなりませんね』


 ぽつりと零したそれは、《人形》らしくもない愚痴のように聞こえてしまったかもしれない。

 けれど、だからこそか。人形工匠マエストロは興味を示して横目にこちらを見ていて、わたしはらしくもないその話を続けざるを得なかった。


『戦時中であればまだ理解もできましたが、今は戦後です。戦争に勝利し、平穏を取り戻し――国は強く豊かになったはずです』


央都パレスは確かにそう喧伝しているな』


 今年のはじめまで、この国ガルク・トゥバスは戦争をしていた。

 隣国との戦争だ。一年と半年あまりの戦争だったが、食料をはじめとする主要な物資が配給制となり、交通も民間のそれが滞るなど、少なからぬ影響はあった。


 今年のはじめ、この国は戦争に勝った。

 戦争に勝利したガルク・トゥバスは諸国を併呑、ミスヴァール凍土地方一帯を支配域に置く統一国家へと成長した。


『にもかかわらず、列車は戦争の前より遅れることが増えました。とてもではありませんが、強く豊かになったとは――』


『記録は取っているのか?』


『え?』


 困惑するわたしへ、人形工匠マエストロは重ねて問う。


『遅延の回数、ないしは頻度だ。戦争が始まる以前に、お前はその記録を取っていたのか? メルリィ』


『それは、……いいえ』


『であれば、それはあくまでお前のだ。断定すべきことではないな』


『……はい』


 人形工匠マエストロは、わたしの浅慮をたしなめる。

 けれど、口の端を吊り上げたその横顔は、どうしてか楽しげなようだった。


『だが、そのうえで、だ。お前のはさほど大きく的を外してはいないだろうと私は考える。おそらく列車は戦前よりも遅延が増え、いくつかのものごとが以前より不便になった』


 意外な答えだった。

 あるいは、『虚を突かれた心地』というのは、こうしたものだろうか。


『なぜ、そうお考えになられたのでしょう』


『要約するなら、我々ガルク・トゥバスは勝ちすぎたということだ』


 くつくつと肩を震わせて、人形工匠マエストロは笑う。


『統一したといえば聞こえはいいが、獲得した新領土はかつて他の国があった土地だ。長年に渡りその土地を占めた社会があり、組織があり、人がある。真実そこを新領土とするならば、それらすべてをガルク・トゥバスへ組み入れるための労力が求められる。要請されるそれが何であるか、お前は分かるか、メルリィ』


『…………人と時間、でしょうか』


『正解だ、と言っておこう。少なくともその答えは、私の考えと一致するものだ』


 誇らしさで、胸が膨らむようだった。

 正解と評される回答を導いたこともそうだが、彼と同じ思考と評されたことが、わたしはなにより嬉しかった。


『そう。人と時間だ。時間は常に平等に存在する干渉不能の資材だが、問題は人だ。もともとまったく別の国であった新領土を治め運営するにあたって、必要な能力と忠実を備えた人材。それをどこから持ち出すか。言うまでもなく、それは本国から持ち出される』


 現地で獲得した協力者――というカテゴリも存在はしうるだろうが、その数は限られるだろう。

 もとより彼らは祖国を裏切った背信者であり、信用に値する人格ではない。


『人が足りないのだ。社会の中核をなす熟練の労働者、練達なる彼らの技術を十全に運用せしめる技術官僚テクノクラート、その双方がだ。彼らはより困難な仕事タスクを果たせしめるべく新領土へと引き抜かれ、結果として本国には未熟な人材と、全盛をとうに過ぎた老人だけが残る』


 杉の古木を想起させる声で、人形工匠マエストロは言う。


『お前の体感はその結果であると推測する。数も技術も不足した人材が、無理を推して社会の運営を続けている。その齟齬がお前の体感の正体、列車の遅延に代表される社会機構システムの機能不全であろう、とな』


『対策はあるのでしょうか』


『時間が解決するだろう。未熟な労働者もいずれ熟練の域へ至り、後進が新たな労働者として未熟の席を埋める。人材の獲得と育成が正しく継続されることでもって、組織の編成は緩やかにあるべき状態まで回帰する――もっとも、現状の平穏が続けばという但し書きのうえに立つ解決ではあるがな』


『当座の解消は見込めない、ということなのですね』


 ふぅ、とちいさくため息が零れる。

 《機甲人形オートマタ》にとって呼吸にさしたる意味はないはずだが、時折さしたる必要もなくこうした吐息がついて出ることがある。


『珍しく気に病むのだな。列車の運行が遅延したところで、私やお前にとってはさして問題となるものでもあるまいに』


『今この時に問題となっています。《人形工匠マエストロ》ロステムとカーレル医局長に余計なご足労をかけ、かつ弟様や甥御様ご夫妻の時間を空費させてもいるでしょう』


『確かにお前の言うとおりだ。どうやらこれは、私の浅慮だったようだ』


 白旗を揚げる体で肘から上の手を上げ、《人形工匠マエストロ》は楽しげに肩を震わせる。


『メルリィ』


『はい、《人形工匠マエストロ》』


『いい機会だ。お前にも言い伝えておく』


『はい』


 何だろう。

 傾注するわたしへ、人形工匠マエストロは、


『もしこの先私に何かあったときは弟達の家へ行き、彼らの指示オーダーに従うように。また何らかの明確な指示オーダーが得られぬ場合、私にそうしてきたこれまでの業務タスクに準じ、彼らのもとで働くようにせよ』


『……え?』


『家の場所はお前も覚えているな? 毎年、姪孫てっそんらの誕生日を祝いにゆくあの家だ』


『《人形工匠マエストロ》』


『今日、弟と甥夫婦を呼んだのもその話のためだ。遺産整理のためだ。私はご覧のとおり枯木のような老人だが、研究のために得た資産、研究の成果として得た資産がこの家には多くある。後々のちのちに混乱を残さぬよう、遺漏いろうなく整えねばならないことだ』


 ずっと庭を見ていたその目が、わたしへ向く。


『お前もそのひとつだ。《L-Ⅵ》メルリィ・キータイト――その先行き、新たな所有者、ないし管理者の存在は、遺漏いろうなく整えられねばならないことだ』


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