83.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》③
秋を過ぎ、冬を越えて。
春を待ち、夏を迎えて。
――そんな風に。どれだけの季節を重ねただろう。
それは、さほどの数多くを積み重ねることができたものでは――決して、なかったのだろうけれど。
けれど、
◆
『――では、我々はこれで』
『はい』
その日の朝。
ひとりは、針金のように痩せて顔色の悪い、神経質そうな壮齢の男性。
もう一人は、ふくふくと血色のいい頬と丁寧に整えた口髭をした、パンのように恰幅のいい老境の男性。
痩せた男性は《
もう一人はカーレル医局長といい、《
『駅までお見送りをするよう、
『いえ、結構……駅までの道は一度通ってきておりますので』
元補佐官が、丁重な所作で見送りを謝絶する。
彼らが大事そうに抱えた鞄の中には、先ほど渡されたばかりの資料がおさまっている。
研究資料だ。
言うまでもなく、《
『お二人には遠方よりのご足労をいただきました。《
『……《
《
彼はそのことを気にしているのだ。
『承りました。ロステム工廠長』
『ええ』
――第五工廠の長である彼は、
その観点に則れば、
だが、彼は自らがそう呼ばれることを良しとしないひとだ。
だから、むしろ彼は、
《
そんな彼に《
『頑固な愚か者だ。称揚に対する最悪の非礼だ。然るべき地位を得たものがその冠を戴かずいるのは
――と。
けれど今日、その罵りの一切が、当の本人へとぶつけられることはなかった。決して。
その彼の、痩せた面相にあったぬくんだ安堵が、不意に昏く陰る。
『では……私はこれで。《
『伝えます。帰路の道中、どうぞお気をつけてお帰りになられますよう』
腰を折って頭を垂れた
かろうじて視界におさめることができた革靴が踵を返して、《
――彼らの表情。
その理由が、
それはきっと、今この時に
ふたりの客人を見送り、ぱたんと玄関の扉が閉まる音を聞いて。
『《
日当たりのいいサンルーム。
庭へと続く大窓の窓辺で。
長椅子へ寝そべるように体を預けた
あるいはその先――駅へと向かう二人の男の先行きを。
杉の古木を思わせる老爺は長椅子に痩せた体を横たえて、まるで真実、そうした形の古木であるかのようだった。
『お二人がお帰りになられました。駅までの見送りは不要とのことでした』
『そうか』
『……お二人とも、今回のことは随分と困惑しておいでのご様子でしたが』
『いつも通り、研究成果と技術開発の共有だ。本来であれば緊密に、綿密に行われて然るべきことだ。それをどうして困惑することがあるというのか。理解に苦しむ』
『僭越ながら《
『未完成の内容とはいえ、あれらは彼らに共有した研究と技術の延長上にあるものだ。検証のまったく不足したものばかりだが、真実それが有益なものとして検証されれば、第五工廠なり国立医局なりの誰ぞが後の糧と活かすだろう』
『ですが
『必要なことはすべて頭の中に入っている。幸いにして未だ私の理解に遺漏はなく、あれらはすべて書き直せば済むものだ。だが、それでも私は老人なのだ』
彼は大きく息をついて、より深く体を長椅子に沈めたようだった。
『私の体は衰え、以前ほどには無理がきかなくなった。集中力が落ち、長く作業を続けるのが困難になった。検証すべき技術も実装すべき技術も未だ多くあり、時間は全く足りない。にも関わらず、私の衰えた体はその時間を無為にすり潰す』
衰えた、と彼は自らを評したが。
杉の古木――その樹肌を撫でたときの触れ心地を思わせる硬く静かな声は何ら変わることなく明瞭にして明晰で、流れ出す言葉は強く雄弁だった。
『それを承知していながら、推し進められるべき技術と研究のすべてを我が身ひとつのうちへ抱え込みつづけるのであれば、それは無意味を越えて害悪だ。老害と弾劾されて然るべき害悪だ』
『そんなことは』
『若く情熱ある後進の技師らへそれらを委ねられれば、すべてはより迅速に進むだろう。私が記したすべてが後に繋がるものではあるまいが、役に立たぬ無用と検証されることも進歩のひとつだ。失敗は誤った道を封鎖し、あるいはその理由の検証を促し、然る後に正しい道へと歩みを進める契機となるからだ』
否定しかける
『それら蓄積は常に、
それより、と。
ひとしきり言うべきことを言い終えてか、
『弟と甥夫婦はまだ来ないのだな。そろそろ約束の時間だが』
手にした懐中時計を見下ろし、そうひとりごちる。
『今日は列車が遅れていたようでした。その可能性を見越して、ロステム工廠長とカーレル医局長も昨晩のうちにこちらへ』
『《
ぴしゃりと指摘が入る。
『今のロステムは第五工廠の長、《
……お前が私を今なお
『申し訳ありません、《
𠮟りつける言葉を受けて、
『しかし、そうか。列車か。であれば、致し方ないことだ』
『……戦争には勝ったというのに、世情はあまりよくなりませんね』
ぽつりと零したそれは、《人形》らしくもない愚痴のように聞こえてしまったかもしれない。
けれど、だからこそか。
『戦時中であればまだ理解もできましたが、今は戦後です。戦争に勝利し、平穏を取り戻し――国は強く豊かになったはずです』
『
今年のはじめまで、
隣国との戦争だ。一年と半年あまりの戦争だったが、食料をはじめとする主要な物資が配給制となり、交通も民間のそれが滞るなど、少なからぬ影響はあった。
今年のはじめ、この国は戦争に勝った。
戦争に勝利したガルク・トゥバスは諸国を併呑、ミスヴァール凍土地方一帯を支配域に置く統一国家へと成長した。
『にもかかわらず、列車は戦争の前より遅れることが増えました。とてもではありませんが、強く豊かになったとは――』
『記録は取っているのか?』
『え?』
困惑する
『遅延の回数、ないしは頻度だ。戦争が始まる以前に、お前はその記録を取っていたのか? メルリィ』
『それは、……いいえ』
『であれば、それはあくまでお前の感想だ。断定すべきことではないな』
『……はい』
けれど、口の端を吊り上げたその横顔は、どうしてか楽しげなようだった。
『だが、そのうえで、だ。お前の体感はさほど大きく的を外してはいないだろうと私は考える。おそらく列車は戦前よりも遅延が増え、いくつかのものごとが以前より不便になった』
意外な答えだった。
あるいは、『虚を突かれた心地』というのは、こうしたものだろうか。
『なぜ、そうお考えになられたのでしょう』
『要約するなら、
くつくつと肩を震わせて、
『統一したといえば聞こえはいいが、獲得した新領土はかつて他の国があった土地だ。長年に渡りその土地を占めた社会があり、組織があり、人がある。真実そこを新領土とするならば、それらすべてをガルク・トゥバスへ組み入れるための労力が求められる。要請されるそれが何であるか、お前は分かるか、メルリィ』
『…………人と時間、でしょうか』
『正解だ、と言っておこう。少なくともその答えは、私の考えと一致するものだ』
誇らしさで、胸が膨らむようだった。
正解と評される回答を導いたこともそうだが、彼と同じ思考と評されたことが、
『そう。人と時間だ。時間は常に平等に存在する干渉不能の資材だが、問題は人だ。もともとまったく別の国であった新領土を治め運営するにあたって、必要な能力と忠実を備えた人材。それをどこから持ち出すか。言うまでもなく、それは本国から持ち出される』
現地で獲得した協力者――というカテゴリも存在はしうるだろうが、その数は限られるだろう。
もとより彼らは祖国を裏切った背信者であり、信用に値する人格ではない。
『人が足りないのだ。社会の中核をなす熟練の労働者、練達なる彼らの技術を十全に運用せしめる
杉の古木を想起させる声で、
『お前の体感はその結果であると推測する。数も技術も不足した人材が、無理を推して社会の運営を続けている。その齟齬がお前の体感の正体、列車の遅延に代表される
『対策はあるのでしょうか』
『時間が解決するだろう。未熟な労働者もいずれ熟練の域へ至り、後進が新たな労働者として未熟の席を埋める。人材の獲得と育成が正しく継続されることでもって、組織の編成は緩やかにあるべき状態まで回帰する――もっとも、現状の平穏が続けばという但し書きのうえに立つ解決ではあるがな』
『当座の解消は見込めない、ということなのですね』
ふぅ、とちいさくため息が零れる。
《
『珍しく気に病むのだな。列車の運行が遅延したところで、私やお前にとってはさして問題となるものでもあるまいに』
『今この時に問題となっています。《
『確かにお前の言うとおりだ。どうやらこれは、私の浅慮だったようだ』
白旗を揚げる体で肘から上の手を上げ、《
『メルリィ』
『はい、《
『いい機会だ。お前にも言い伝えておく』
『はい』
何だろう。
傾注する
『もしこの先私に何かあったときは弟達の家へ行き、彼らの
『……え?』
『家の場所はお前も覚えているな? 毎年、
『《
『今日、弟と甥夫婦を呼んだのもその話のためだ。遺産整理のためだ。私はご覧のとおり枯木のような老人だが、研究のために得た資産、研究の成果として得た資産がこの家には多くある。
ずっと庭を見ていたその目が、
『お前もそのひとつだ。《L-Ⅵ》メルリィ・キータイト――その先行き、新たな所有者、ないし管理者の存在は、
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