82.それから先の顛末。いくつかの《後始末》に関すること・③


「その矢先に、ご両親からの手紙か」


「はい……」


 本来、約束の二年まであと二ヶ月あるはずだった猶予。

 その猶予期間が、フィッシャー家から届いた手紙で一気にゼロになった。


 かたやアノッド・ハンターの出世作たる『ドニー・ポワソンの探求』シリーズはドナの手によるものと明かせない。

 かたやドナ・フィッシャーの名義たる恋愛小説は今もって鳴かず飛ばず。


 そんな最中に届いた両親からの手紙は、ドナにとってのまさしく致命傷に等しい一刺しだったのだ。


「それで、君はまずスレナに相談を持ち掛けたと?」


「はい……その、スレナせんぱいには手紙のこと知られちゃったので、それで」


 屋敷の使用人たちに対する郵便物の集配は、各所の責任者を仲介して行われる。たとえばパーラーメイドであるドナの場合、アンリエットとスレナの手を介して彼女の手元へ届く形になる。


 受け取ったその場で手紙を読んで、さっと表情が変わったのを、手紙を手渡しに来ていたスレナにたまたま見咎められた。


「……成程。事情はよく分かったが」


 トリンデン卿は苦り切った顔で、スレナを見る。


「つまり、だ。手紙の件を秘匿し、今回の件を自分達でおさめようとしたのは――きみということでよいのかな? スレナ」


「仰るとおりです。旦那様」


 従容として認めるスレナに、トリンデン卿はきつく眉をしかめた。


「ならば、今回の経緯はきみらしくもない短慮だったと言わざるを得ないな。この一件、トリンデン家の当主たる私へ預けようとは思わなかったのか?」


「旦那さまにお出ましを願ってしまえば、事は家同士の問題に膨れ上がります」


 スレナは淀みなく応じる。


「所領はオルデリス州の一部、即ちオルデリス公傘下の小伯爵とはいえ、フィッシャー=ハーリンデン家も一領を預かる伯爵の家柄です。そも、家同士の間で取り決められた行儀見習いの扱いにおいて、旦那さまの一存のみで一方的にドナを庇うとなれば、先方との間に無用の軋轢を生むのではありませんか?」


「たしかに、その可能性は否めんが」


 もともと、結婚前の花嫁修業としての『行儀見習い』である。

 預かり元である家の方から「結婚が決まった」と言われてしまえば、まずその申し出を謝絶するための理由立てから始めなければならない。


「もちろん、事態はフィッシャー家のこと。最終的には旦那様の御力に縋らねばならないことではあったかもしれません――ですが、事を穏便におさめるとなれば、両家の間で話し合いの時間は必要でした」


 そして、その間に一度でもドナを家へ連れ戻されれば、その時点で即座に話し合いを打ち切りにされかねない。

 フィッシャー家――ドナの両親がそこまでやるかは判断をつけかねるところだったとしても、『二年』という約束を反故にされている時点で完全な信用は置けない。


「煎じ詰めれば今朝方からの一件は、善後策を打つための一時的な時間稼ぎ――状況が整うまでの間、ドナに身を隠してもらうのが目的でした」


 身を隠し、安全な場所で原稿を書き上げるための時間稼ぎだ。間近に出版が迫った新刊と、それからドナ・フィッシャーの名で世に出す小説の原稿である。

 そのためスレナは、出版社と事前に連絡を取り合ってあらかじめセーフハウスまで用意してもらい、状況が定まるまでドナの身柄はそこで匿う算段をとりつけていた。


「私は工作が済み次第、事が荒立たぬうちに館へ戻り――旦那様へ事の次第を相談させていただく手筈だったのですが」


「その最中さなかにメルリィ・キータイトの襲撃を受け、かどわかされたということか」


「はい」


 彼女達の目論見は、メルリィ・キータイトの介入で狂うこととなった。

 スレナとドナの話を総合すれば、経緯としてはそういうことだ。


「今にして結果を振り返れば、まず第一に旦那様へとお話するのが筋であったのは明らかなこと。私の短慮・浅慮と咎められることに返す言葉もございません――旦那様からのお叱りも懲罰も、甘んじてこの身ひとつがお受けいたします」


「スレナせんばい!?」


「いや、いい。きみ一人を咎めるのでは、ただただドナが気まずいばかりだろう」


 トリンデン卿が首を横に振るのに、ドナはほっとしたようだった。ランディも内心で胸を撫で下ろしていた。


「この一件、ひとまずはこのフレデリク・ロードリアンのもとで預からせてもらう。きみ達にも言いたいことはあろうが、異存は許さぬものと心得たまえ」


「旦那様――」


「きみ達二人が無事だったことは何よりだ。しかし、君達がこうして無事に帰ってこられたのは、あくまでメルリィ・キータイトが危害を加えなかった、あるいはそうできなかったからこその結果。それだけのものでしかない」


 トリンデン卿は烈火のように厳しい面持ちで、ふたりのパーラーメイドを見渡した。

 それは彼がこの場ではじめて露わにした、怒りと叱責の厳しさだった。


 ドナは青褪めた顔を俯かせ、気丈なスレナでさえ眉を垂らして消沈していた。


「きみ達が置かれた状況は、それほど危険なものだった。いや、仮に今回のような状況でなかったとしても――きみ達のなした勝手は許されるものではない。

 このフレデリク・ロードリアンにはトリンデン=オルデリス家の当主、すなわちきみ達の雇用者として負うべき責任があるのだということ、どうかこの場で重々承知し、そしてこの先決して忘れることなくいてもらいたいな」


「……はい」


「申し訳ありませんでした、旦那様」


 今にも消え入りそうなかすれ声で呻くドナ。

 スレナは深く頭を垂れ、トリンデン卿に詫びた。


 トリンデン卿はそこに至ってようやく男らしい面相に大きな笑みを広げると、ふたりのパーラーメイドの肩を励ますように叩いた。


「ドナのことは私が必ず何とかしてみせよう。そのことだけは、我が家名に誓って果たすと約束する――だから今日はもう、ふたりとも休みたまえ」


 膝をつき、肩を叩くトリンデン卿を、ドナはおずおずと見上げる。


「恐るべき刺客にかどわかされ、さぞ生きた心地がしなかったことだろう。きみ達には休息が必要だ。温かい食事と柔らかい寝床、今日一日の恐怖を忘れてゆるりと休む時間がだ」


 力強く言う彼と、ようやく視線が合って。

 ドナは、ようやくほんの少しだけ、青褪めた顔に笑顔を浮かべたようだった。

 そんな彼女の反応を認め、トリンデン卿もまたくしゃりと相好を崩して笑う。


 ――と。


 玄関の扉が開き、最後の護衛騎士達が戻ってきたのは、ちょうどそんな時だった。


「ただいま戻りました。閣下」


「おお、トーマ! よくぞ戻った、首尾はどうだったか」


 その答えは、主人の問いに沈痛な面持ちを広げる隷下の騎士達を見れば自ずと知れただろうが。

 だが、そんな騎士達の中で唯一表情を動かすことなく従容として、トーマが頭を垂れる。


「申し訳ありません。賊を取り逃がしました」


 トーマは粛然と報告する。


「刺客めが突破した市門に警戒隊を置き、私と直属二名でラウグライン大森林の近傍まで追跡を続行しましたが……力及ばずです。面目次第も御座いません」


「そうであったか……いや、ご苦労だった。トーマ」


 トリンデン卿はトーマの前まで進み出ると、肩を叩いてその顔を上げさせた。


「我が騎士達よ、諸君もどうか顔を上げてくれたまえ。彼奴きゃつめをコートフェルの外まで追い払ったというだけでも十分すぎることだ。これは我々の勝利と言っていい」


「捕まえなくて大丈夫なの?」


「ああ、問題ない」


 念のため、といった素っ気なさで問うユイリィに、トリンデン卿は即答する。


「我々の勝利条件はかの刺客の撃滅ではなく、またその拘束でもない。我々はこうして自らの身を護ることに成功し、かの刺客めは這う這うの体でコートフェルから遁走とんそうした――これはまがう方なき、我々の勝利である!」


 雄々しく両腕を拡げ、彼は声を大きくする。


「そして、完全勝利の日もまた近い! ゆえに、我がもとに仕える諸君よ! そして我が朋友なる冒険者達よ! 今宵はその背に負った荷を下ろし、肩を組んで共に勝利を祝おうではないか!!」


 朗々と響く、トリンデン卿の勝利宣言。

 館のホールに、どこか安堵にも似たどこか気が抜けたような空気が広がる。


 あらためて安堵に包まれたランディが傍らを見上げると、それに気づいたユイリィは小鳥のように小首をかしげて。

 ニコリと明るく、微笑んでくれた。



 ――トリンデン卿の勝利宣言を経て、場が散会となった後。


 ドナは先を行くスレナの背中を追う形で、とぼとぼと自室へ続く廊下を歩いていた。


 メイドサーヴァントたちの私室は、本邸の四階。使用人たちの部屋が集まっている階層の、女性用区画にまとめられている。

 四階へは裏手にある使用人用の階段からしか上がれず、邸宅の主人や客人達のためのスペースからはきっぱりと切り分けられている。


 使用人用階段へ向かう途中の廊下で、明るい足どりでホールへ向かう同僚のメイド達とすれ違った。

 スレナとドナが無事に帰ったという報告は聞いていたのだろう。同僚たちは無事を喜んでくれたり、ねぎらうように明るく声をかけてくれたりしてくれていたが、ドナはそのすべてに対して、ぎこちない笑顔を返すのが精一杯だった。


 後ろめたさで、胸をざくざく抉られ続けていた。

 同僚たちはドナの鈍い反応を、怖い目に遭ったばかりだからと受け止めてくれていたようだったが――そうした同僚たちの善良さもまた、ドナの胸を抉った。


「この後の祝勝会」


 振り返ることなく、前を歩くスレナが問うてくる。


「ドナはどうしますか?」


 あの危険な刺客――ドナとスレナを備蓄倉庫に閉じ込めた、フード付きマントの怪人だ――を追い払ったというトリンデン卿旦那様は、館の皆を集めて勝利を祝う祝勝会を開くと宣言した。

 実際にかの刺客と立ち会った騎士や衛兵達のみならず、館の使用人すべてが参加を許された立食会だ。時ならぬごちそうとふるまい酒に、ホールへ向かう同僚たちの顔は明るい。

 が――


「ええ、と……」


 スレナせんぱいはどうするんですか?

 と、問いかけそうになって、寸前でそれをやめた。


「その……あたしはもう、部屋に戻って寝ちゃおうかなって思ってます。なんかもう、みんなに申し訳ないし、合わせる顔もなくって」


「貴女を屋敷から遠ざけ、他の場所に匿うことを提案したのは私です。旦那様へ相談しようとした貴女を止めたのも私。ドナが引け目に感じるべきことは何もないわ」


「そんなこと……」


 スレナが旦那様へ相談しようとしたドナを止めた理由は、今なら嫌というくらいよく分かる。

 あのメルリィ・キータイトなる刺客のことを、下っ端メイドの一人でしかないドナなんかよりずっと詳しく訊いていたからに違いない。


 当の旦那様が命を狙われている、なんて切羽詰まった状況だったのだ。そのうえ余計な揉めごとで煩わせてしまうだなんて真似が、どうしてできるだろう。ドジで粗忽そこつで、小説を書く以外なにもとりえなんかないドナみたいな子のことまで、きちんと預かって面倒を見てくれていた、立派な旦那様なのだ。


 手紙が届いたのは、あのちいさな客人達が訪れたその日のこと。

 迎えまでに与えられた猶予はわずかに三日。

 ――明日には、もう、両親の寄越す迎えが来てしまう。


 パーラーメイドとしての仕事もある中、まともに対策を練る時間なんて、はじめから残ってやしなかった。書きかけの原稿を仕上げて『ドニー・ポワソン』の最新刊を世に送り出すことさえ、あと三日のうちでは到底かなわない。

 手紙が届き、残り二ヶ月の猶予期間を反故にされた時点で、事実上ドナはだった。


 旦那様は責任を持ってこの件を預かると言ってくれたけれど――正直、あまり期待はしていない。旦那様を見くびっている訳ではないし、今更期待を抱くのが辛いからというのもたしかにあるが――ドナの理性と常識を司る部分が、冷徹に現実を理解してしまっていた。


 子供の結婚を決めるにあたっては、未だ親の意向が強い。当人の意志次第でそれらを跳ね返せることだって当世ではないこともないようだが、少なくとも、行儀見習いで一時預かっているだけの『他人』などよりは、よほど強い。

 残り二ヶ月の猶予期間を反故にされたことだって、一年と十か月かけていっこうに芽が出ていない現状を指摘されてしまえば寄って立つ瀬としてはあまりに心許ない。本当は決して芽が出ていない訳ではないのだけれど、その事実をドナの一存で勝手に明らかとしてしまえば、それはお世話になってきた出版社への裏切りになりかねない。


 前もって身を隠すことさえできなかった現状、両親の決定を引っ繰り返してどうにかできる目は、なきに等しいものではないのか。


(うん、厳しいよね。もうダメな感じだよね、これは……)


 たくさんのひとに迷惑をかけた。スレナせんぱいに旦那様、お屋敷のみんな。


 これからもまた迷惑をかけてしまう。お世話になった担当さん、出版社や印刷会社のひとたち。せっかく新聞にまで新刊の広告を出してもらったのに、ドナの本をそこまで押し上げてくれたたくさんのひとの面目を丸潰れにさせてしまう。

 なにもかも、ぜんぶおしまいだ。ぜんぶぜんぶ、ドナのせいで――


「ドナさん!」


 背中を叩く呼び声で、底なしの自己嫌悪からはたと我に返った。

 冷水をかけられて目が醒めた心地で振り返ると、そこには息を切らせて走ってくる、ちいさなお客様がいた。


「ランディ様……」


「ごめ、なさ……おいついた……」


 よほど一生懸命に走ってきたのだろう。息が上がって、肩で大きく息をしていた。


「どうされたんですか、ランディ様。ランディ様たちはこれから祝勝会じゃ」


「そ、なんですけど。あの、その前に……ドナさんに、言いたいこと、あって」


「あたし――えと、わたしに、ですか?」


 弾む息を整えながら、ちいさな男の子はドナを見上げてくる。

 そして、


「ドニー・ポワソンのおはなしの続き、ぜったい待ってます!」


 訴えた。

 ドナを貫くみたいな、とても強いことばで。


「えと。もしかしたら、すぐには無理になっちゃうかもしれなくても、でも……ぜったい、待ってますから!」


「ランディ様――」


 なんだか、急にたまらなくなって。

 ドナは膝をつき、その男の子の小さな体を抱きしめていた。びっくりして彫像みたいに固まってしまった細くてちいさな体を、胸いっぱいに広がる熱と一緒に抱きしめる。


 とっさにそんな風にしてしまったのは――泣いてしまいそうだったのを、見られたくなかったせいだ。けれど、ほんのちょっぴりくらいは見られてしまったかもしれない。


 難しい言葉遣いの小説だって辞書を借りて読み解いてしまう、ドナの家のことだって知っていたような賢い男の子だから。

 見てなんかなくても、察してしまったかもしれない。

 ドナが世に送り出した物語の主人公――稀代の冒険者探偵ドニー・ポワソンみたいに。

 けれど、


「――ありがとうございます。わたし、頑張りますね」


 身体の芯から溢れて瞼の奥を湿らせ、喉をきつく震わせる衝動が過ぎ去るのを待ってから。

 ドナはランディの体を離した。


「さあ、ランディ様は祝勝会へ行かれてください! ドニー・ポワソンのことは――わたし、ぜったい何とかします。だから、安心してください」


 不安に大きな瞳を陰らせて、じっと見上げてくるそのやわらかくて子供らしい髪を、万感の心を込めて撫でた。願わくば、この気持ちが過たず伝わりますように。


 ――知ってる。わかってる。

 子供って移り気なものだ。新しくてキラキラした素敵なものが目の前に現れたら、今までたいせつにしていたものだって放り出してそっちに行ってしまうもの。

 ちいさい頃のドナがそうだったから。ちゃんと、そういうものだって分かってる。


「おはなしの続き。ぜったい、お届けしますから」


 けれど、そう訴えてくれる気持ちが本当のものなんだってことも、知っている。

 あるいは、本当に――本当に物語の続きを待ち続けてしまうことも、この世界にはあるんだって。


 ランディの薄い肩を両手でつかんで、くるりと180度回転。

 ぽん、と背中を押してやる。


「だから、ランディ様はこんなところに来てないで。皆さんのところへ戻ってさしあげてください。またひとりで来ちゃって、みなさんきっと心配してますよ」


「ぅえ。えと……はい」


 ランディは促されるまま、たたらを踏むように前へ踏み出して――それから何度かこちらを振り返りながら、もときた道を駆け戻っていった。

 その背が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、ドナは手を振って見送る。笑顔で。


「さて――」


「ドナ?」


「あたし、やっぱり部屋に戻ります。祝勝会へ行かれるのでしたら、どうかせんぱい一人で行ってさしあげてください」


 すくっと立ち上がり、スレナへ向かい合う。


「あたし、原稿書かなきゃだから」


 もう、ひょっとしたら何ともならないことなのかもしれないけれど。でも、そんなの今は、何の関係もないこと。


「ご迷惑ばかりおかけしてほんとうに申し訳ありませんでした、スレナせんぱい。でも、あたし――ギリギリまで足掻いてみることにしました」


「そうですか」


 スレナはちいさく微笑んだ。

 背を押すように、一度だけ頷いてくれた。


「旦那様には私から上手く言っておきます。どうか幸運を――また明日」


「――はい!」


 淑やかなメイドの足取りをかなぐりすてて。

 ドナはきっぱりと頷き、そして邸宅の廊下を走りだした。

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