81.それから先の顛末。いくつかの《後始末》に関すること・②
ドナ・フィッシャー――本名、ドナ・アンネ・エア・フィッシャー=ハーリンデンには、幼いころからひとつの夢があった。
小説家になって、物語を書くという夢――自分がしたため形にした物語を、ひとりでもたくさんのひとに読んでもらうのだ、と。幼い彼女は夢見ていた。
読書家の両親のもとに生まれ、幼い頃から物語に囲まれて育った彼女は、家に所蔵されたありとあらゆる物語を読みあさった。挙句、夜中まで本の読みすぎで視力を落とし、眼鏡をかけることになった。
そんな彼女の無軌道な乱読ぶりを、揃って読書家の両親は咎めるどころか、むしろ微笑ましく見守っていた。ふたりは物語を愛していたし、物語を愛する娘のことも深く愛していた。
鷹揚な両親の庇護のもと、ドナはすくすくと、文学少女として育った。
そんな彼女が物語の『書き手』でありたいと志すようになったのは、ある意味において自然ななりゆきの結果ではあったのだが――
しかし悲しいかな。
両親にとってはそうではなかった。
両親は数多の物語を『人生を豊かに彩るためのもの』として愛してこそいたが、それらを『書く』側に立つという発想は露ほども抱かずにいたふたりであった。
またふたりは、自分達の娘が物語の書き手という、未踏の野を征くがごとき道なき道へ踏み出すことも望まなかった。
ふたりが愛娘に望んだのは、もっとありきたりな、平凡な幸福だった。
しかし、ドナは諦めなかった。それまで喧嘩どころか叱られたことすらろくろくなかった両親へ角突き合わせるように自分の意志をぶつけ、どれだけ諭してもいっこうに諦めない娘を前に両親も遂に折れた。
無論、無条件の容認ではない。
その妥協は、ひとつの条件を引き換えにしたものだった。
『花嫁修業の行儀見習いに出る二年の間に、おまえが世の中に認められるような物語を書けることを証明しなさい』
もしそれができたなら。
自分達は今後一切の口出しをやめ、夢を応援すると約束する。
けれど、もしそれを果たせなかった時には。
自分達の言うことを聞いてふつうに結婚し、家庭を築いて女性らしい幸せを掴みなさい、と。
それが、二年前のこと。
ドナ・アンネ・エア・フィッシャー=ハーリンデン、十六歳の夏のことだった。
◆
『冒険者探偵ドニー・ポワソンの探求』は、著アノッド・ハンターによる冒険小説である。
《大陸》帰りの高名な冒険者にして稀代の名探偵であるドニー・ポワソンは、旧知の元従軍医師ワットマン卿と二人、王都リジグレイ=ヒイロゥはイーニッド街の定宿に下宿している。
そんなふたりのもとへ持ち込まれる難事件を、ドニー・ポワソンはその
物語の主人公たる冒険者探偵ドニー・ポワソンは、ランディの中でシオンとその仲間達の次かその次くらいに憧れの冒険者だ。
――閑話休題。
もちろんランディだって、物語と現実の区別をつけるくらいの
なので、ワットマン卿の手記という体裁で記された物語を書いているのが、本当は『アノッド・ハンター』なる人物であることもちゃんと理解していた。
だが――いや、だけど、こればかりは納得いかない。
いや、だってそうだろう、だって、
「名前が違う!!!」
「たぶんだけど、
横合いから、ユイリィがほんわりと口を挟んだ。
「
「はい……仰るとおりです……」
今にも消え入りそうな声で、深く項垂れたドナはそれを認めた。
(じゃあ、ほんとうに……)
――ドナさんが、作者。
『冒険者探偵ドニー・ポワソンの探求』の著者、アノッド・ハンター。
正直に言えば、まだこれっぽっちも実感がない。だいたい、物語を書く先生というのはもっとずっとずっと遠くの、どこかランディ達とは隔てられた遠い遠いところにいるものなのだと、ランディはぼんやり無自覚に思い込んでいたし、なのにその作家さんが身近にいたなんてこと、とてもじゃないけど信じられない。
ああ、でも。
そうだとしたら、いろんなことが腑に落ちる。あの『盗み聞き』の理由も。
『ほんとは盗み聞きなんてするつもりじゃなかったんです! あたしあの時は単なる御用聞きのつもりでっ、な、なのにノックしようとしたら急にお部屋の中からドニー・ポワソンって聞こえちゃったから! それでついあたし――』
どんな風に読まれているのか、気になって仕方がなかったんだ。
だって、自分が作った物語だから。自分が世に送り出した主人公だから。
『あの、ぼくもドニー・ポワソン好きなんです! 大人の女のひとでも『ドニー・ポワソンの探求』読むんですね!!』
『あ、はい。その、読みます……読んでます。わたし。はい』
――それは読んでいるだろう。当たり前だ。もしかしたら、この世の誰よりいちばん読んでいるかもしれないくらい。
だって、あの物語を書いたひとなんだから。
『あの、ランディ様――ありがとうございました。わたし』
『いってらっしゃいドナさん。ドニー・ポワソンのおはなしできて、楽しかったです』
だから、そう。
あの時だって――あれは、
『……ありがとうございます。ほんとうに――』
『あの……ほんとうにありがとうございます、ランディ様! ドニー・ポワソンが好き、って』
あの、お礼の言葉は、
(そういうこと……だったんだ)
ぜんぶ、わかったような気がした。
ほんとうはそんなしっかり理解できてなんかいないかもしれないけど、でも分かった気がした。
図工の授業で作った工作や国語の作文を褒めてもらえたら、ランディだってきっと嬉しい。
宿題で描いた絵を表彰されてたくさんのひとに見てもらえたら、ランディだってきっと嬉しい。
まして、それが自分の選んだ――かく在りたいと願った果てに生み落とされたものであったなら。
だって、ランディだってやっぱり嬉しかったのだ。『遺跡』の発見を祝福されて、冒険者として認めてもらえた――あの、時には。
「あの。ねえ、セシェル……」
ともあれ。
どれほどの間、耳まで赤くした顔をがっくりと項垂れていたか。実のところ、さほど長い時間ではなかっただろうが。
ドナはのろのろと上目遣いに同僚を伺い、おずおずと問いかけた。
「セシェルはどうして、あたしが『ドニー・ポワソン』の作者だって知ってたの……?」
「前に借りたブラシを返そうと思ってドナの部屋へ行ったとき、書きもの机に原稿があるのを見つけたから」
悪びれもせずに言うセシェル。ドナは目を剥いて絶句する。
「最初は、ドナもわたしみたいな『ドニー・ポワソン』のファンで、同人誌でも作ってるのかと思った……けど翌月の新刊で、その時見た原稿にあったのと一言一句違わずおんなじ描写が出てきたから。これはもう、そうだって思うよね」
「ええ……なんで勝手に部屋入ったの……?」
「鍵が開いてたから」
やはり悪びれる様子もなく、きっぱりと言うセシェル。
「ああ、これは入ってもいいやつ――って思う。ふつうに」
「思わないでよおぉぉ……!」
完全に泣きが入っていた。
隠し通せているつもりだったのだろう。かわいそうに――あれは恥ずかしいやつだ。
「あの」
なので、そんなところへ嘴を突っ込むのは、正直ちっとも気が進まなかったのだけど。
ただ、訊かずにおくわけにもいかないので、ランディは控えめに手を挙げた。
「そういうことなら、もう問題は解決してるんじゃないかなって思うんですけど。『ドニー・ポワソンの探求』、おもしろいですし」
「そう。面白いし、書店でもよく売れてる」
セシェルも重々しく頷き、同意する。そういうことなら、ドナの問題は端から解決済みのように思えるのだけれど。
しかし、当のドナは気まずげに視線を背けるばかり。
ふむ、とユイリィが思慮深げに――若干わざとらしく――口元に手をあてがいながら唸った。
「つまり、『作家:アノッド・ハンター』がドナ・フィッシャーだと明かせない、何かしらの理由があるんだね」
ドナの肩がぎくりと震えた。
石みたいに黙り込んでしまうドナに代わり、溜息をついたセシェルが手を挙げた。
「ひとつ心当たりが。出版業界の
「ジンクス?」
「はい」
頷くセシェル。
「『女性作家の冒険小説は読まれない』、というジンクスです。出版社の間では、以前からそうした話があるらしくて」
「……そうなの?」
そんなバカな。ランディにはさっぱり意味がわからなかったが。
けれど、説明するセシェルの表情は真剣だった。
「わたしの知る限りですけど、傾向はたしかにあります。女性作家は恋愛小説が鉄板」
怪訝に唸るランディに、セシェルはきっぱりと答える。
念のためドナの方を伺うと、彼女も控えめながら首を縦に振った。つまり、理由は分からずともそうした偏りは実在するのだろう。たぶん。
「でも……」
なら、『冒険者探偵ドニー・ポワソンの探求』――ドナの書いた小説は?
さっき『売れてる』と断言したのは、他ならぬセシェルだ。
「『アノッド・ハンター』がドナ・フィッシャー――女性作家であることは伏せるのが、出版社との契約のうちなんです」
最前に話題へのぼった
けれど、それならたしかにひとつ問題が残る。ものすごく根本的な問題が。
「じゃあ、ドナさんがおとうさんやおかあさんとの約束を果たすのって、ぜったいに無理なんじゃ……?」
「だから、代わりにドナ・フィッシャーの名前か、でなければ女性作家と分かる
ドナが書きたいのは冒険小説だった。昔からむさぼるように読み続けて、自分でも書きたくてたまらなかった物語だ。
けれど、出版社の意向としては、女性作家に冒険小説を書かせるのはどうにも縁起が悪くて、勧められないのだという。
なら、ほんとうに書きたいものは生別不詳の冒険作家『アノッド・ハンター』に任せよう。『ドナ・フィッシャー』の名前は女性作家として別のフィールドで出せばいい。
出版まで熱心に支えてくれた編集さんと話し合って、そう決めた。編集さんには感謝された。
実際、ドナの名前で小説を出すのは両親に対する証立て以上のものではない。もとより、作品や作家名のイメージを重視して複数のペンネームを使い分ける作家の存在は、読者の間ですら公然の秘密と言っていい。
である以上、出版社の意向や不安をねじ伏せてまで『ドナ・フィッシャー』の名前で冒険小説を出すのにこだわる理由は、ドナの側にもなかったのだ。
「まあ……その、ダメだったんですけどね。恋愛小説の方は」
「ダメだったんですか……」
「はい。ええ。ほんと、笑っちゃうくらいダメダメでした」
ははは、と零れる乾いた笑いが痛々しい。ランディはいたたまれなかった。
とはいえ出版社の側も、売れゆきのいいシリーズ小説を書いているドナを手放すのは惜しがっていた。
なので、この件については前から相談にも乗ってくれていたし、『ドナ・フィッシャー』名義の小説を出版するにあたってはいろいろと便宜を図ってもらってもいた。
期限が近づいているとはいえ、まだ二ヶ月の時間はあった。
その間に一冊。一冊だけでもいいものを出せれば、それで証立ては事足りる――その、はずだったのだ。
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