75.闇に潜む刺客を探せ! 《冒険者》達の出撃です!!・⑤
アンネリーとエレオノーラの、ふたりぶんの声が遠ざかった後――代わりに聞こえてきたのは、ペンを走らせる音。コツコツと床を鳴らすブーツの踵。誰かの寝息。
そして、
『……ふぅ』
満足げな感嘆の吐息。そして、装丁の分厚い本を閉じるパタンという音。
『面白かった……。やっぱりドニー・ポワソンは……クールで、いい』
「ドニー・ポワソン!?」
ランディが食いついた。
「ねえ、ねえ今の、今のってたしか、セシェルさんってメイドさんの声だったよね!? セシェルさんドニー・ポワソン読んでるんだ! ねえリテーク、今ドニー・ポワソンってゆってたよね!? ね!?」
「ランディうるさい」
口元に人差し指を当てて、じとっとした目で「静かに」と訴えるリテーク。
ランディは慌てて両手で口を押えた。
――いや、悪いのはもちろん、全面的にランディなのだけど。
でも、今のは仕方ないことなんだと、心の中でだけこっそり言い訳する。
だって、昼間のドナに続いてふたりめの同好の士が見つかってしまったのだ。どっちも大人のおねえさんなのが不可解というか若干気が引けるけど、でも同じ冒険小説を愛する同好の士がいたという事実を前にすれば、そんなのはとっても些細でちっぽけなことだ。
『お給料のいい仕事は、やっぱり、素敵……読みたい本がたくさん買える。ふふっ』
上機嫌に、うっとりとひとりごちたセシェルは、読み終えたハードカバーを棚かどこかに戻したようだった。
『明日は……そう。そうね、これにしようかな。『魔剣ダナーリーヴの叛逆』の新刊。明日も楽しい夜になりそう』
ランディは思わず叫びかけた。
「――新刊出てたんだ!?」
結局、叫んだ。
「ランディ」
「わぁ。ごめんって……!」
今までにないくらい、かなり本気で睨まれた。怖かった。
セシェルの声が遠ざかる。
たぶんだけど、これ以上ランディに騒がれるのがうんざりだったんだろう。リテークほんとうにごめん。
邸内の見回りらしき靴音。蛇口から水の流れる音。クゥの鳴き声――たぶん、これは寝言。
『――う、時間がないんです』
「!」
人の声。魔術の焦点が、そこに集中する。
『これ以上は、もう……ごまかしつづけるのも限界です。あっちの都合で急に予定を早められたのは、それは……ですけど』
――ドナさん?
余裕がないのか早口で、少し籠って聞こえるが、間違いない。パーラーメイドで、ドニー・ポワソンのおはなしに詳しいドナ・フィッシャー。彼女の声だ。
『でも、もともと期限つきのことなんだって言われたらそれまでだし……だから、ほんとうにやるんなら、もう明日しかチャンスはないと思うんです』
『そうね』
応じる声は、スレナのそれだった。
『予定外のお客さまと旦那様の気まぐれとで、屋敷の中はいつもより浮ついてる。みんないつもより余裕がないぶん、周囲を注意して見る目も薄れるでしょう。貴女の側の期限を思うなら――たしかに、それが最善なのでしょうね』
『……はい』
ごめんなさい、と。
ドナが詫びる、悄然とした声。
『スレナせんぱいには、今日までたくさんご迷惑おかけしました。協力もたくさんしてもらって、またご迷惑をかけます。でも』
けれどその芯の部分には、強烈な熱があった。
今にも崩れ去りそうな、燃え盛る熱意の楼閣。
『わたし、やります――明日、決行します』
◆
――リテークが魔法を操り、ふたりの声が遠ざかったその後も。
ランディは混乱した頭を抱えて、床に座り込んだままでいた。
(決行……?)
何か、しようとしてるってことだ。
何かを――何を?
「ねえ」
「うい」
「さっきの……ドナさん達。どう思った? リテーク」
おそるおそる、問いかける。
山吹色の魔法陣の光に横顔を照らし出されたリテークの答えは、実に端的だった。
「あやしい」
「だよね……」
今、このお屋敷の――トリンデン卿の置かれている状況を鑑みれば。
メルリィという刺客の存在を鑑みれば、今のやりとりは、あまりにも。
けれど、
「けど、はっきりしない」
リテークはぼそりと、苦い声音で言葉を続ける。
――そう。そうなのだ。あのふたりは、決定的なことは何も言っていない。たまたま間が悪かっただけで、まったく違うことの相談だと考えるほうがふつうなんじゃないだろうか。
それに、と。リテークはさらにひとりごちる。
「刺客としてあまりにもウカツ。おやしきのなかで悪だくみの相談など」
「だよね!?」
あ、と口元を抑える。
また騒いでしまった。二回も注意された後なのに。
けれど、今度は怒られなかった。
リテークはふるふるとかぶりを振り、ランディの肩をぽんと叩いただけだった。
「もどろ」
「リテーク……」
「しらせるべき」
同い年とは思えない、異論を許さない強い声が主張する。
「あやしいだけ。あまりにもウカツ。でも、ほんとうだったら取り返しがつかない」
リテークは言う。
「もともと
「それは――!」
それは違うことだ。
ランディは他ならぬドナからそれを聞いた。知っている。
『いえ違いませんけど! やっぱりアレってそういうことになっちゃうと思いますけどほんとは盗み聞きなんてするつもりじゃなかったんです! あたしあの時は単なる御用聞きのつもりでっ』
(あれ? でも)
いや――でも、それは本当に本当のことだろうか。
それは、ドナがそう言っただけだ。
それが、あの時とっさに言いつくろっただけの嘘なんかじゃないって、どうやってそれを証明できる?
ちょっと仲良く話したから、肩入れしてしまっている。それだけの理由じゃないって。
どうしたら、そんな風に言える……?
「きのうのよるも、ひとりでぶつぶつ言ってるのを聞いた。あのひとはあやしい」
「……昨日もこれやってたの?」
コクンと頷く。
たぶんだけど、トイレに行ったんだと誤魔化せるくらいの時間で。少しでも情報を集めようとして。
「わかったことをちゃんとしらせて、かんがえてもらう。おれのかんちがいなら、おこられてもしかたない。いいかげんなことをゆったって」
「…………うん」
ランディは、頷くしかなかった。
「ランディはだまってていい。おれが言うし」
「だっ――そ、それはダメ」
いつになく多弁な幼馴染みのことばを遮り、ぶんぶんとかぶりを振る。
「それは、だめ……だって、思う。なんかそれ、ぼくひとりだけズルい気がする」
「なにもズルくない。むりしなくていい」
リテークはにべもない。
――いや、違う。これはその逆だ。
「ランディは、あのひとをあやしくないと思ってる」
――だって、そうだ。それでも自分は、
スレナのことだってそうだけど――だって、そう。おんなじ本が好きなひとだから。
頭がよくて、正義と秩序を愛する、冒険者探偵ドニー・ポワソン。
その彼と、彼の冒険の物語を好きだというひとが、彼が憎むような悪いことやひどいことなんて、しない。悪いひとだとか怖いひとだなんて、思えずにいる。
たとえ、心から信じられてはいないかもしれなくとも。
「うたがっているのは、おれ。ランディじゃない。ともだちだからって、おれにあわせるひつようはない」
「リテーク……」
「おれにさんせいできないのは、ズルじゃない。それをまちがえたら、ダメだ」
それは、きっとその通りだ。リテークが正しい。
でも、たぶんそういうことじゃない。そのおかしさは、何を正しいと思うかなんてこととは、違う
「そういうことじゃなくて……そうじゃなくて――」
「何をなされているのです?」
「フギャ――――――――――――――――!?」
おもむろに扉が開き、廊下から声がかかった。
手にしたランタンの灯りに照らされたメイド服と、大人の女性らしい顔立ち。ぞろりとしたメイド服を通してすら浮かび上がる、妖艶なシルエット。
「あ、あああああアンリエットさん!? 何で!?」
「ランディ様とリテーク様でしたか。わたくしは就寝前の見回りですが――」
アンリエットは部屋を見渡した。
「手洗いの帰りですか? ですが、ここは皆様のお部屋ではありませんよ――皆様の客室は、あとふたつ先です」
「うい」
「ごめんなさい! すぐに出ますっ!!」
あたふたと立ち上がって、焦りでおぼつかない足どりで部屋を出るランディ。リテークがすすっとその後に続く。
ふたりの子供が空き部屋の客室を出た後、アンリエットはもう一度だけ部屋の中を見渡して、扉を閉じた。
「よろしければお二人とも、部屋までお送りを」
アンリエットの申し出に、ぶんぶんと首を横に振るリテーク。
その様子を横目に一瞥してから、ランディはぺこりと頭を下げて言う。
「ありがとうございます……けど、ぼくらだけでもちゃんと帰れます。ふたつ先の部屋ですよね?」
「はい」
「なら、へいきです。ありがとうございました――おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
美しい所作で一礼するアンリエットにもう一度ぺこりと頭を下げて、部屋への帰路につく。
アンリエットは踵を返して、反対の方向へ歩いていった。
「リテーク」
「?」
囁くくらいのちいさな声で。ランディは幼馴染みの彼へと告げる。
「やっぱり、ぼくも一緒に言う」
「ズルじゃ――」
「それはさ、リテークの言うみたいには思えないけど。でもさ、ぼくだって知っちゃったんだもの」
それは、ほんとうにただの偶然がもたらした結果でしかないのだろうけれど。
でも――もしここにいるのがランディじゃなくて、ランディが心から尊敬する、冒険者の中の誰かだったら。どうだろう。
「任せっぱなしがイヤなんだ。それは――そういう理由は、ダメかな」
いつもより多弁な幼馴染は、少しだけいつもみたいに黙考し、今度はふるふると首を横に振る。
そのことにランディはほっとして、少しだけ口の端を緩めた。
◆
「――そう。うん、わかった。わかったと思う」
部屋へ戻った後。
ふたりはユイリィだけを揺すり起こして談話室まで来てもらうと、さっき自分達が見聞きした――大半は、『聞いた』ことだったけれど――内容をぜんぶ話して伝えた。
「ふたりともなかなか戻ってこないと思ったら、そんなことやってたんだね」
「起きてたの!?」
「起きてないよ。ちゃんと寝てた」
唖然とするランディの呻きに、ユイリィはふるふると首を横に振る。
「でも、観測はずっと続けてたからね。リテークちゃんが昨日もお部屋から抜け出してなかなか戻ってこなかったのも、さっきまでのふたりがここからふたつお隣の部屋にいたのも、ぜんぶ観測してたよ」
「ひええ……」
眠ってる間も観測は続けてた、と。ユイリィは以前にも言っていたことがあるけれど――いや、あれは《棺》の観測だったっけ?
とにかく、漠然と「すごい」くらいにしか思っていなかったそのことばの意味するところを、ランディはあらためて思い知った。
起きていても眠っていても、いるところがぜんぶわかってしまうんだ。
隠れてつまみ食いなんかしようとしたら、それだってきっとぜんぶばれてしまうのだ。
「おれは、あのメイドがあやしいと思う」
声を低めて、リテークは唸る。
ランディは「違う」と言いかけて、その反駁を喉元におしとどめた。
ユイリィはランディの「お姉ちゃん」だ。
ランディがリテークと反対のことを訴えたら、もしかしたら無条件にそちらを支持してしまうかもしれない。
ドナもスレナも、リテークが思ってるみたいな刺客なんかじゃないしその仲間でもないと思う。でも、その予断を与えてしまうのは、きっとよくないことだ。
リテークは、ぎゅっと拳を握るランディを一瞥してから、言葉を継ぎ足した。
「あやしいと思うけど、ちがうかもしれない。はっきりとはしてない」
そう言い添えてくれたことに、少しだけほっとする。リテークには、悪いことをしているのかもしれないけれど。
でも。
そう。ドニー・ポワソンだって言ってた――机上の論理は理想と夢を映す鏡のようなもの。論理の見えざる欠損、鏡の裏側を埋めるのはささやかなる事実ひとつひとつの積み重ね、即ち探求である。
予断を廃して、探求しなくてはいけない。
なぜなら、
(……シオンにいちゃん達だって、きっとそうする)
だって――ぼくたちは冒険者なんだから。
冒険者なんだって、そう言ってくれたひとがいるから。だから、もしかしたら今だけのことかもしれないけれど、ランディはそうありたい。
シオンや、他の立派な冒険者みたいに。
理想のようで、ありたい。
「――わかった」
ユイリィはいちどだけ、深く頷いた。
リテークを見て、ランディを見て、そして春の日差しみたいにやわらかく微笑む。
「ふたりの言いたいことは、わかったと思う――あとはユイリィに任せて」
ぽん、と薄い胸をてのひらで叩いて、ふたりが抱えたぜんぶを引き受けてくれる。
「トリンデン卿にもきちんと伝えるよ。明日の朝いちばんで、今のおはなしを彼に伝える」
「今すぐじゃなくていいの? レドさんあぶなくない? すぐに知らせてあげたほうが」
「明日の朝に決行なんでしょ?」
するりと、ユイリィは何でもない事みたいに指摘する。
「眠るときはトーマやほかの護衛騎士がついてるから、彼に何かしようとしてもすぐに見つかっちゃうよ。それにユイリィだって、朝までの間で何もないように、彼のまわりはきちんと観測を続けるしね」
口ぶりからして、トリンデン卿の動向まできっちり把握しているらしい。
いったいどこまで『観測』していたんだろう。今まで。
(もしかして……ぼくたちが聞いたおはなしとか、ユイリィおねえちゃんはぜんぶ知ってたんじゃ……?)
「ちょっと節約しなきゃで
「えと、聞いてたのはリテークなんだけど……ぼくはおまけで」
「ランディ、それはズルい」
「え、これズルなの!?」
思いがけないツッコミに愕然とするランディ。いや、でも実際に聞いていたのはリテークだし、自分はほんとうにただのおまけでは?
ユイリィがクスッと笑って、
「心配いらないよ。ふたりがおはなしを聞いてたなんて、向こうはきっとこれっぽっちも思ってないもの。
だから明日の朝、誰よりいちばん早くに起きて、今のをぜんぶおはなしする」
それでいい?
と、確認を取るように、こちらの表情を伺ってくる。
ランディはリテークとお互いの顔を見合わせて、
「……わかった。お願いするね、ユイリィおねえちゃん」
「あとはまかせた」
「うん、まかせて!」
ぱっ、と表情を華やがせて。ユイリィは力強く請け負った。
そして、
スレナ・ティンジェルとドナ・フィッシャーの失踪が発見されたのは、その翌朝。
未明の出来事だった。
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