70.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》②
『なぜ、《
冬――
前日から降り続けた雪で足元は白く、重たい結晶を落としきった空は遠くまで青々と澄んでいた。
足下は靴底で踏むたび荒い音を鳴らす楽器みたいで、
『何故、というなら、それは私が
答える声は、このひとに拾われたあの日と変わらず揺るぎなく、確信に満ちている。
――けれど、
『
『事故当時の構造にさしたる意味はない。当時の管理を
雪を踏む
『それら一切と関わりなく、私は事故当時における第五工廠の責任者であり、責任者とは責任を取るためにいるものだ。ゆえに私は第五工廠の長を辞し、事故原因の究明を果たすことをもって《L-Ⅵ》最終起動試験におけるヴェルナー特務少尉死亡事故の責任を取る。現状はその過程に過ぎない』
『……………………』
『無論、それ以外の理由もある。メルリィ・キータイト、研究者にとって最も重要なものとは何だと思う』
『………………ひらめき、でしょうか』
少しだけ長引いた黙考の時間に続く回答。
『正解だ――と言ってやりたいが、私の見解とは異なる。研究に伴う予算の確保と事務手続き、これらの代行が確保されること。一言に要約するなら整然たる環境だ』
『環境……』
『叡智をもたらす閃きも、それを実現せしめる勤勉さも、雑事に惑わされつづければ容易に
『……………………』
『私一人が欠けようと才気煥発なる研究者はいくらでもあり、第五工廠には今なお閃きも勤勉さも備わっている。だが、ロステムの役目を代行できる者は他にいない。
彼奴の後釜たらんとする後継は乏しく、その乏しい後継も未だ十分たる域にはない――煎じ詰めれば工廠とは技術者の集団であり、それ以外を担保しうる人材は常に不足するものだ、ということなのだろうな』
掠れた息遣いは、溜息のそれだったろうか。
『私の目から見て、
真実、その声には確信の重さがあった。
『彼奴のような者こそが、真に《
『
『訂正が遅くなったが、メルリィ・キータイト。第五工廠の長という職責から離れた今、私は既に
杉の木を思わせる
前を行く彼の背を見つめながら、
『理由はまだある。第五工廠の長として留まりつづければ、自ずとこの
『それは、何か問題が?』
『特務どもが煩い。どうも彼奴らは、メルリィ・キータイトを罰することなしにはおさまりがつかんらしい。愚かなことだ』
一瞬、雪を踏む足取りがにぶりそうになった。
ついぞ歩調を緩めない
『実に愚かなことだ。そして原因究明の間にせよその後にせよ、連中に耳元で
前を行く
央都パレスの都市中央駅。そこからみっつの列車を乗り継いで、
『調査と研究だけならあちらにも設備がある。留守中は管理人をつけていたから掃除も不要だ。足りないものはあるだろうが、それは買い足せばよい――老いらくの我が身ひとつでは難儀な仕事だが、幸い今の私には《
彼は振り返らなかったが、
『あてにさせてもらうぞ。メルリィ・キータイト』
『はい』
だから、
理由は、何一つわからなかったけれど、
『はい。
彼はやはり振り返ることなく、ただ肩を震わせて笑った。
◆
『なぜ、
春――
海に面した豊かな土地のようにあたたかくなる日はない。けれど、春に萌える緑は――とても美しい土地だった。
『それは何かの哲学的な問いかけか? メルリィ・キータイト』
『いいえ、
『私は既に
『………………………』
『お前の疑問は
その間も
胸の内側にほんのりと光が灯る様を幻視しながら、
『《L-Ⅵ》の製造目的は、国外で活動する
『そのとおりだ。理解しているではないか。――今度は左手の親指、第一関節だけを曲げてみろ。十度だ』
『はい。――ですがこの目的設定には疑問符がつきます。仮に《L-Ⅵ》が想定通りの稼働を見たとして、この目的が達成されることはありえません』
なぜなら
朝に目覚めた時から、夜に眠る瞬間まで。絶えることなく異国の町へと溶け込み、潜伏し、任務に携わりつづける。
そうして『第二の肉体』が任務に従事する間――本来の肉体はどうするのか?
『食事・排泄・入浴・睡眠――
『そのとおりだ。当初の目標を達成するためには、《L-Ⅵ》完成の後もさらに二つ三つの段階を踏む必要はあっただろう。しかしそれらは同時に、操作する
つまりは、そうした形で先送りされた課題だったのだろう。
『また、《L-Ⅵ》本体の完成のみでも十全に活かす余地はある。たとえば前線へ赴く兵士だ』
『兵士ですか』
『かつて《北辺戦役》の折、各地から徴兵した兵士が酷寒の前線へと動員された。多くが故郷へ帰ることなく死に、さらに多くが己が手足、あるいは目や耳を失った』
『……………………』
『命を拾った彼らは、死んだものよりはまだしも幸運だったろう。だが、故郷へ帰った彼らの中に、元通りの生活へ戻れたものはどれほどいるか。そも手足どころか指一本を失っただけでも、それまで通りの稼働をし得なくなるのが人体というものだ』
果たして、何を思い返しているのか。
『機械と同じだ。僅かな欠けが時に全体の稼働へ影響する。だが《L-Ⅵ》の量産がなされた場合、これらの問題は自動的に解消される。彼らは各々の故郷にいながらにして、前線の兵士となることができるからだ』
彼らは故郷に在りながら、彼らが操る『第二の肉体』が戦場へと赴く。
『第二の肉体』がいくら損なわれようと、彼らの手足が、感覚器官が損なわれることはない。
『彼らは夜ごと交代で家に帰り、あるいは贔屓の店へ駆けこんで温かい夕食を採ることができる。命どころか、手足を失う危険からさえ遠ざけられながらだ。これは非常に価値ある成功であると私は考える』
『その達成は、従来の
それは他ならぬ、目の前の
『プランに要求される長距離間の同調接続は、従来の
『疑似霊脈に異常はないか?』
『? 計器の数値に異常があったのでしょうか』
『数値上の問題はない。私は
その沈黙に何を思ったか、
『異常を感じたか?』
『違います。いいえ。異常は、何も』
真実、異常は何もない。だが、焦燥にうわずった
だが、それは真実だ。
それは、本来の腕と異なる義肢を装着した『人』に対しても、同様の正常稼働を保証できるということだ。
『……そうか』
やがて、
『正常か。であれば、問題はない』
『はい』
――もっと適切な。もっとよりよい形で。
そう――在りたい。
◆
『たとえば手話だ。何らかの理由で聴覚を喪った者は、手話を用いることで周囲とのコミュニケーションをはかることができる』
夏――
テラスに出した長椅子で寝そべる
『手話は必要に基づき生まれた言語だが、完全ではない。聴覚を失った者と五体満足な者、双方に習熟のための意思と勤勉さを要求し、これらを欠きたる者の数だけ言語としての利便性を欠く宿命にある。好奇心、義務感、高潔さ――どのようなものであれ、ある種の動機なくしては成り立たず、母語のように万民に通ずるものではない』
必要なものを収納し、不要なものを廃棄し、人が生活しうるぎりぎりの水準にあった家の中をよりよい環境へと整えてゆく。
そう。環境は大事だ。環境の良し悪しはあらゆるものごとに影響する。
『だが、それはやむを得ない限界ではないのか。つまるところ人の学習領域とは、人生の在り方に依拠するものだ。
山間の
一年を通して温かいとは言い難い土地柄だが、それでも夏が来れば沿岸の春ほどには暖かくなる。
陽を浴びて
『怠惰なりと弾劾する者もあろう。勤勉たれと啓蒙する者もあろう。だが、私はそれらを正しい姿勢とは思わない。文明とは、あらゆる人間の当たり前の怠惰を実現すべく高められるものであると、私は考えるからだ』
洗濯ものも集めておく。後でまとめて洗うためだ。
『そも手話という言語そのものが、聴覚の喪失という『マイナス』を『ゼロ』へ戻すための発明だ。本来ありうべからざるマイナスを標準的な人類の標準域たるゼロへ戻すために、勤勉さと意思を要求される――これはそれらを満たし、何らかの障害によって挫折することなくいられた限られた人々の間にしか広まり得ない、そうした性質のものであるとも言える』
形成人格にも睡眠は必要である――というのが、
生命維持のための必要はなくとも、記憶――つまるところの観測情報を整理するための時間は、
『より容易な形で解消され、
それは、『それ』そのものの価値や素晴らしさとは、何ら関係ない。
あらゆるものはそうして後進にその道を譲るものなのだと、
より平易に、よりちいさな労力で目的を果たす、もっと別の何かへ。
『何より、失われたものはその能うる限りにおいて回復されねばならない。それは財産であれ権利であれ、肉体であれ――等しく同じことだと私は考える』
『だから
『そうだ』
腕を喪った者に義腕を。足を喪った者に義足を。
目を喪った者に視覚を。耳を喪った者に聴覚を。
『私一人の研究ですべての喪失を埋めることは到底叶うまい。仮にそれが達成されたところで、それは枝分かれする新たな課題を生むだろう。たとえば《L-Ⅵ》の量産によってすべての兵士が故郷へ帰されたとき、いかなる損壊をも無視しうる『第二の肉体』の存在は、操者の心に致命的な油断をもたらすやもしれない』
それはたとえば、『第二の肉体』でなく本来の肉体を動かしているときに、今現在の肉体に対する誤認によって取り返しのつかない事故をもたらす遠因となるかもしれない。
『《
『特務どもの横槍だ。彼奴らの政治の結果だ。嘆かわしいことだ』
それは本気の憤慨なのだろう。けれど、
同時に
『すべての問題が解消される日は、来ると思われますか?』
『その問いに意味はない。その日が訪れることなど未来永劫ないとしても、目の前の問題を捨ておく理由にはならないからだ』
『
この頃にはもう、
『今日のお昼ご飯はなにがいいですか?』
返答が戻ってくるまでには、少しだけ間があった。
『……煮魚だ。身がよくほぐれ、味が芯まで染みた、味蕾に幸福をもたらす煮魚が食べたい』
『了解しました
ああ、と答える声は、気が抜けてしまったみたいに脱力したものだった。
前日に記録していた食料保存庫の中身をバックグラウンドで参照しながら、
鼻歌を歌いたくなるくらい、
◆
『――申し訳ありません、
秋――
秋の終わり、
央都から離れる時に一度だけ列車を乗り換えた、ちいさな地方都市。
夜は更け、
『お前の謝罪は意図が不明瞭だ。いったい何に対して謝っている?』
『
秋の終わりのころ。
誕生日のプレゼントを抱えて。
『同じ遊び相手ならば、枯木のような老爺より年の近い娘の方がよほど好まれよう。何かおかしなことがあるか?』
『ですが、
ちいさな子供たちの興味は、
祝いのために訪った
かけっこの速さを競い、鬼ごっこに興じ、ボードゲームを囲んだ。
――また来てね、と。
彼らが真っ先に、無邪気に手を振ったのは、
『私はそのためにお前を連れてきた。姪孫らは喜ぶだろうと見込んでのことだ。
第三世代型――
中枢都市以外の地で第三世代型の機甲人形を所有するのは、ごくごく限られた上流の人々に限られる。そうでなければ、軍所有の局地型機甲人形だ。
それ以外は旧式の
現行第三世代型の主流たる民生型機甲人形は、この都市ではきわめて
『私の目論見通り、姪孫らはこぞってお前に群がり、お前に懐いた。そうなることを期待した、目論見通りの結果が出たことの一体どこに、謝罪すべき理由があるというのか』
『……申し訳ありません』
『メルリィ』
杉の木を思わせる
街灯の灯りがこぼれ落ちる街路。キンと空気が冷え切って、
『《
『……………………』
見当もつかなかった。
脚を止めたまま、しかし振り返ることはせず、
『すべての人の幸いと可能性のために。形成人格の基盤としてすべての機甲人形へ刻まれる
――メルリィ・キータイトは、《
『人に似せて造り上げたものが、人に似た人格を得た。指針を定められることなく、無から形成されたまったく固有の自我だ。しかし
『
『難しいことではない。たとえば今日、お前の存在は姪孫らの遊び相手となり、あの子らの喜びに貢献した。それは彼らの両親の喜びであり、祖父母の喜びであり、また私の喜びでもあった。大人達は労せずして子供らの幸福と笑顔を手に入れた。あの家に集った人々すべての幸いだ』
子供達はこぞって
『また、出会いとはそれ自体が可能性だ。お前という存在がひとつ追加されることで、姪孫らの選びうる未来は分岐するだろう。それは同時に、彼らの両親と祖父母の未来に対する分岐でもある。あるいはお前の
『手話のようなものだ。確固たる自我を得て後、新たに学ぶ――本来であれば当たり前に獲得されていたはずの、お前の同胞達が共有する原則だ。本来得るべき時に得られなかったがゆえの喪失を、後から埋めるための試みだ』
『……今までどおりにやればよい、ということでしょうか』
自分でも驚くほど頼りなく発せられた問いかけに、
『そうだな――では、それでよしとしよう。今までのように尽くし、それを果たす対象を広げてゆけばよい』
『なら、
だとするならば、何を躊躇うことがあっただろう。
不安に揺れる理由もない。
答えは既に、
『そうか。頼もしいことだ』
笑みを含んでちいさくひとりごち、
歩調と歩幅を合わせ、
より多くに対し、このように在ればいい。それは決して難しいことではない。
『帰るぞ、メルリィ』
『はい――
秋が過ぎ、冬を前にして。
けれど
………………。
…………………………。
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