69. 《公爵》はひとり、夜に物思う


 フレデリク・ロードリアン・ディル・トリンデン=オルデリスという人間が、この世界においていかなる立場に置かれた存在ものなのか。

 他ならぬ彼がそれを知ったのは、九歳のときだった。


 幼い頃の彼は、使用人の子供達が身近な友人だった。


 使用人の子を幼い我が子の友人にあてがう貴族の当主は少なくない。ゆえにそれ自体は、トリンデン家のみならず多くの家で見られる光景ではあっただろうが、トリンデン家の場合はひとつ大きな違いがあった。


 当主たる父は、彼が『雇用主の息子』という権威を振るうことの一切をよしとしなかった。

 彼と友人達を平等に――否、むしろ我が子にこそひときわ厳しく当たる、そうした人格の持ち主だった。


 たとえばこんなことがあった。六つか七つの頃に一度、自分がしでかした悪戯を友人のせいにしようとしたのが父にばれた。

 顔の形が変わるほど強かに、杖で何発も殴られた。


 冤罪を着せられかけた当の友人とその両親が真っ青になりながら止めに入ってくれたおかげで、歯が折れるまでいくことはなかったが――彼らにそうでもしてもらえなければ、前歯の一本か二本くらいは永遠に失われていたかもしれない。

 今にして振り返っても、彼らにはいくら感謝してもし足りないくらいだ。


 たとえばこんなことがあった。

 ある友人と取っ組み合いの喧嘩になった。些細な理由ではあったが、少なくとも先に手を出したのは彼ではなく、自身に非はないと確信していた――が、にもかかわらず、父は友人を殴った罰としてその日の夕食抜きを命じた。

 すきっ腹を抱えてひもじい夜を越し、世の不条理に憤慨しながら迎えた翌日の朝、向こうの親から同じ罰を受けていた件の友人と出くわし、お互いすっかり気力の削げた顔を突き合わせて、失笑しあったものだった。


 そうした――よく言えば公明正大な、悪く言えば息子へ厳しい、そんな主の家だったからこそだろう。


 彼と使用人の子供達は実に気の置けない遊び仲間として、一緒に育った。


 そんな中の、一人に。彼といっとう仲が良かった、庭師の娘がいた。

 取り立てて目立つ美少女ではなかったが、よく笑う屈託のない娘で、とても可憐な甘い声をしていた。


 ――劇場の歌手になりたいの。


 幼い夢を語る彼女はいつだってまぶしく輝くようで。おそらくそれは、フレデリク・ロードリアン少年にとっての幼い初恋だった。


 事の発端は、メイドのひとりにこっそり分けてもらったお菓子を、その娘と半分こしたことだった。

 何のことはない。数ある友人達の中で、特別大好きだった女の子への、ささやかな依怙贔屓えこひいきだった。


 たまたま彼女が先に食べ、彼は何か別のものに気を取られて口にするのが少しだけ遅れた。

 それが、二人の運命を分けた。



 菓子には毒が入っていた。



 一命はかろうじてとりとめた。

 だが、内側から喉を焼かれた彼女の声は永久に失われ、庭師とその一家は屋敷を去った。娘が消えない傷を負わされた場所で変わらず働き続けるのが、庭師は耐えられなかったのだろう。


 見舞いには、何度も行こうとした。

 だがそのたびに足が竦んで、一度も彼女のもとへは立ち入れなかった。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 命を取り留めたから何だというのか。

 彼女の声は喪われた。彼女の夢は喪われた。

 それ以上に、声と言葉を喪った彼女のこの先に待つ辛苦の数々は、子供ながらに聡明だった彼にとって想像するだに余りあるものだった。


 謝ることさえ許されない。

 なぜなら、『雇用主の息子』――それ以上に、である彼が頭を下げて詫びれば、トリンデン家の雇われであり、平民でしかない彼女の両親は、彼を許すほか術がない。

 たとえ愚かなフレデリク・ロードリアンに対し、どれほど煮え滾る憤懣と憎悪を胸のうちに抱えていたとしても――謝罪する子供の頭を上げさせ、謝罪を受け入れねばならなくなる。


 できるはずがない。そんなむごいことを。

 許されるはずがない。


 一人娘に取り返しのつかない瑕を負わされた哀れな二親に、娘の友人としてずっと優しくしてくれた夫婦に、さらなる塗炭の苦しみを塗りたくるがごとき愚行など――そんなものは、決して。


 彼にとっての、それが運命の分岐点だった。


 トリンデン=オルデリス家の嫡子である自分が、他者からその命を狙われる立場であることを知った。


 証拠こそないが、他ならぬ彼の叔父がその首謀者であろうということも。

 早くに亡くなった母もまた、その手にかかった一人であったということも。


 叔父、ダモット・マクベインの手が迫っているのは明らかだった。

 だから、これ以上の巻き添えとすることなきよう、友人達から離された。


 何年か過ぎた頃、仕えていた使用人の一人が彼の巻き添えで――身代わり同然の形で『事故死』し、とうとう家からも離れることになった。トリンデン=オルデリス家が彼を護り切れなくなりつつあることは、もはや疑いようもなかった。


 数年の間、各地を転々としながら過ごした。

 トリンデン=オルデリス家の次期当主として求められる知性と心構えを叩き込まれるだけの、まるで目の前に帳をかけたような年月を従順に俯きながらやり過ごし、十五歳になるのと同時に家を飛び出した。


 ――民草の当たり前の暮らしを知り、貴種としてなすべきを学びたいと思います。


 お為ごかしの言い訳をつけて。

 一人で出奔し、人に紛れて日々を送った。

 『放蕩貴族』のレドを名乗り、ほら吹きのお調子者として振る舞いながら。家の者達からさえ身を隠し、職と住処を転々としつづけた。


 そんな風にしながら――ずっと、諦めることなく探し求めていた。

 身を護り、対抗する術を。そして執念の果てにそれを見つけた。


 《海に眠る蒼石の洞窟》。その深奥に眠るもの。


 ちいさな造船の町に船大工として潜り込み、機会を待った。《海に眠る蒼石の洞窟》へ赴くには、船に頼るほかなかったからだ。

 目的のためには船が必要で、それ以上に迷宮を踏破する力が必要だった。それらを手にしなければならなかった。


 ――機会は来た。

 それは彼にとって千載一遇の好機であり。反撃の始まりを告げる嚆矢こうしであり。


 人生で二度目の、短くもまばゆい日々――めくるめく冒険の、始まりでもあった。



 護衛騎士のトーマを伴わせ、ランディ少年を部屋へと返したその後。

 ひとり、私室に残ったトリンデン卿はソファにどっかりと身体を預け、応接テーブルに開いた地図を見下ろしていた。


 《大陸》の友邦より取り寄せた最新の大陸地図。

 ランディとテーブルを囲んだ時の茶器はそのままに、じりじりと焦げるような音を立てるランプの灯りが、陶器のふちを赤々と艶めかせていた。


(冒険者……か)


 ほろ苦い笑みが、口の端に浮かぶ。

 ああ、何と歯が浮くような物言いであったことか。


 懐かしい過去。輝かしい思い出。

 それは今もまぶたを閉じれば、胸の奥底より克明に描き出すことができる。


 目的たる真人時代の遺産を手にして、なお離れがたく、彼らの冒険にずるずると未練がましくついてまわった。迷惑も面倒もさんざんにかけてしまったが、何物にも代えがたい勝利と喜びも、そこには確かにあった。


 『放蕩貴族レド』の名は、いつだってあの輝かしい冒険の想い出と共にある。彼らの記憶と、シオン・ウィナザードが弟に語って聞かせた物語の中だけに、今も。


「旦那様」


 寝室へ続く扉の前に、一分の隙もなく燕尾服を身に着けた老家令スチュアートの姿があった。

 音もなく。気配も感じさせず。

 老爺が、胸元に手をあてがい、恭しく腰を曲げていた。


 トリンデン卿は首をねじってソファの背もたれ越しに振り返り、老家令を視野に捉えた。それから窓を見遣り、そのすべてに分厚い緑のカーテンがかかっていることを確かめた。


「いささか油断が過ぎるのではないか? あまり人間離れした真似をするべきでないぞ、パーシュバル」


「お許しを。少々急ぎでございましたゆえ」


「聞こう。何事か?」


「トーマが御身のお側へ戻ります」


 老家令の報告に、トリンデン卿は眉をひそめた。


「ランディ少年を部屋まで送り届けてきたにしては早い帰りだな。何事か?」


「トーマとランディ様は階段の前で別れました。ランディ様が、おひとりで部屋までお戻りになられると仰せになりましたゆえ」


「……つくづく油断が過ぎるな。貴様達は」


 ひそめた眉が、壮絶にその剣呑さを増した。


「『』。私は確かにそう命じたはずだな? 私の安全は度外視して構わんとも言った」


「承知しております。しかし、あれは旦那様の護衛騎士としてる者ございますれば――御身をお守り奉ることこそが、かの者にとって第一の務め」


 老家令は一層深く首を垂れる。


「ゆえに、ランディ様のお見送りにはをつけました。これをもって、トーマの独断にお目こぼしをたまわれればと」


 トリンデン卿は眉をしかめたまま、溜息をついた。

 まったく、どいつもこいつもどうしようもない。


「つまりは、トーマがここへ戻る前に赦免を取りつけようという算段か――まあいい。ランディ少年に気づかれたということはなかったろうな?」


「委細問題なく」


 パーシュバルは答える。


「ただ――の方は、我々の存在に感づいていたようではありますが」


 トリンデン卿は失笑する。大儀ぶって、それがいかほどのことだというのか。


「その程度であれば構わん。ドラゴンとはいうが、あれは未だ我々との会話もままならぬ、生まれたての幼体だ」


 執務机へ目を向ける。

 机の傍らには台座に吊った鳥かごがあり、中では一羽の鳩が止まり木で体を休めている。


 《諸王立冒険者連盟機構》支部からの伝書鳩だ。

 ヴィム・マクアイネンに任せていた《幻獣》の調査――その第一報を預かり飛んできた鳩だった。


 自然現象の具現と奉られる竜種。

 その身に体毛を備えたファー・ドラゴン種。

 《炎》《光》《闇》の三重属性――《真人》時代の竜種たる《古竜エインシェント》の一種。


「――《宝物を護る竜ファフニール》」


 はるかふるき時代、真人種族が世界を統べたいにしえの時代。その黄昏に――カミオンなる《貴種ノーブル》の手で生み出されたと伝えられる、自然ならざるのひとつ。


「懐かしいか? お前達にとって、かの竜は二重の意味での同胞であろう」


「お戯れを」


 叩頭したまま、パーシュバルは応じる。


「懐かしむ術などございませぬ。が知るいにしえの時代とは、あの迷宮ひとつのみにございますれば」


 ――その時。

 扉を叩くノックの音が、トリンデン卿の私室に響いた。


「トーマです。戻りました――入室いたします」


「うむ。入れ」


 失礼いたします、と一声かけてトーマが入室したとき、老家令の姿は影のように失せていた。

 だが、それでも何か気配なり感じるものがあったか、トーマは眉をひそめて室内を見渡した。


「今しがたまで、どなたかいらしていましたか?」


「いいや?」


 トリンデン卿は首をねじってトーマを見遣りながら、大仰に肩をすくめて笑った。

 トーマは不審げにしていたが、重ねて問うては来なかった。彼は忠実で、従順な騎士だ。いつの頃からか、それらしくなっていた。


「まだ、お休みにはなられないのですか。閣下」


「考えたいことがあってな。――ああ、件の刺客のことではないぞ? 我が叔父ダモット・マクベインのことでもない」


 ――フレデリク・ロードリアンにとって、あるいはトリンデン=オルデリス家にとって。そんなものは既に脅威ではない。

 今この時の話ではない。ずっと前からそうだった。そうなるように、切り札を備えてきた。、少年少女達をこそ第一に護らせることができる。


 フレデリク・ロードリアンは己が身の責任の重さを忘れたことはない。ゆえに、我が身を無用の危険へ投げ出すこともしない――それらに対する十全の、そうと信じられる保険があればこそ、未来ある少年少女を護りの第一に置くことができる。

 そうした己の在り方を、卑小とも、卑劣とも、心のうちで嘲りながら。


「御身を大切になされませ。貴方の役目は、ダモット・マクベインの陰謀から身を護ることばかりではないのです」


「そのためにがいる。そうでなくば、いったい何のためのお前達だ」


「……失礼を」


 頭を垂れるトーマ。

 その姿を見遣りながら、トリンデン卿は過去を思わずにいられない。


(迷宮……迷宮、か)


 《海に眠る蒼石の洞窟》。その奥に隠された、いにしえの迷宮。

 かつてはその内に、かの《凪の船》を眠らせた――シオン・ウィナザードらと共に挑んだ迷宮。


(だが、私にとってはそうではない……私が、あの迷宮に求めたものは)


 あの時、放蕩貴族のレドが《海に眠る蒼石の洞窟》へ挑んだ理由は何だったか。

 少なくともそれは、《凪の船》などというのためではなかった。


 それを知る者はない。勘づいている誰ぞはいるかもしれないが。

 たとえばビアンカ・レオハルトやロニオン・クレンダールなどは、それに気づいていたかもしれない――共に遺跡へ潜った放蕩貴族のレドが、いともあっさり《凪の船》を譲り渡したその時に。


 それを誰かに語ったことはなかったし、そのような見解を抱く己を後ろめたくも思う。しかし同時に、それは決して不当なものではないはずだとも思う。


 ――魔術を極め、瞬きのうちに千里の距離を跳んだと伝えられる真人たちにとって、船などという『乗り物』は移動の手段たりえない。

 遊興のための、『玩具』以上のものではありえない。


 そう。『謎の放蕩貴族』レドが、あの日のフレデリク・ロードリアンがシオン達に目をつけ、共にあの迷宮へ挑んだのは――そんなもののためではなかった。


(ああ……やれやれだ。フレデリク・ロードリアンとは、トリンデン=オルデリス公とは、斯様かような在り方しか選べないのだ。私は……)


 胸の内側を毛羽立たせるざらつきに堪えかね、苦く口の端を歪める。

 真意を胸の奥底へ押し込めながら――そのくせ『冒険者』のように振る舞い、仲間のように手を取り合う時間に、たとえようもなく心を躍らせている。あの日も、今も。


 ――ルクテシア王国

 代々その任を担う旧家にして名家、トリンデン=オルデリス公爵家。その領袖。


 ゆえに今この時も、フレデリク・ロードリアンの――トリンデン=オルデリス公爵家当主の視座は、ダモット・マクベインの刺客などではなく、さらにその先にこそある。

 この状況を影で糸引く、指揮者コンダクターたる者に対してこそ、


 ――コンコン。


 扉を叩くノックの音が、緞帳のようにしんと降りた夜分の空気を震わせる。

 トーマが露骨に警戒を強めるのを横目に見ながら、トリンデン卿は呼びかけた。


「どなたかな?」


「ユイリィ・クォーツです。少しおはなし、いいですか?」


「いいとも。入りたまえ」


 扉を開けて入室するユイリィ。

 その無垢な美貌に広がる表情を前にした瞬間、トリンデン卿は驚きに目を剥いた。


「随分と、すっきりした顔をしているようだ。そんなきみを見るのはこれが初めてかもしれない――何かいいことでもあったかね? ユイリィ・クォーツ」


「そうだね。いろいろ整理がついたから。あなたとはもう一度、きちんとおはなししておこうと思ったの」


「どんな話かな? もしや、遂に私は君の敵という話か?」


「それは違う。ユイリィがしたいのは、あなたとの協力のおはなし」


 ふるふるとかぶりを振って。むしろ挑むような目をしながら、ユイリィは告げる。


「メルリィ・キータイトに対抗するのでしょう? ユイリィはこれより先、そのために必要な機能のすべてを尽くすと約束します――だから、あなたもユイリィに協力して」


「ほう……」


 その姿を、眩しいと思った。

 人ならざる人形でさえ、時として斯様かように目覚ましく変わりゆく。だというのに、


「かけたまえ。詳しい話を聞こう」


 ああ、なのに私は。


 何と不実な、がらんどうの道化であろう。私は――



 ――昔も、今も。

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