67.トリンデン邸の夜は更けて。公爵さまと《夜ふかし》です・⑤
ぱたん、と扉が閉まると、屋敷の廊下は青褪めた月明りだけが照らす、夜そのものみたいな空間だった。
ランプの灯りに慣れた目では、足元もちょっとおぼつかない。
「ランディ様、お手を」
案内のためついてきてくれたトリンデン卿の護衛騎士トーマが、ランディの手を取って先導してくれる。
ほっと胸を撫で下ろしながら、ランディはありがたく手を引かれていくことにした。
「階段には常夜灯として、夜間も魔光灯が灯っています。このような子供扱いはご不快かもしれませんが、そこまではどうかご容赦を」
「あ、いえ。へいきです。だいじょぶなので」
いまいち感情の薄いバリトンで、しかし気づかわしげに言ってくるトーマへ、ランディは空いた方の手をわたわたと振ってみせた――トーマの側からそれが見えたかまでは、さすがに定かでなかったが。
トリンデン卿――レドと話していると特に思うのだが、このおやしきのひとたちはランディ達を子供扱いしていない気がする。うまく言えないのだけど、ランディ達のことを一人前として扱ってくれている感じがするのだ。
正直、そんな風にしてもらえるのはちょっと気分がよかった。
なので――トーマの歩幅が大きくて、自然と足取りが駆け足になってしまうのも、ランディは気にしないことにする。これもいちにんまえとして扱ってもらえているからこそなのだ、たぶん。
階段まで出ると、確かにトーマの言うとおり、各階とその間の踊り場のところにランプに似せたデザインの魔光灯が灯っていた。
脚を止めたトーマは、それまで歩いてきた廊下の方を振り返る。
「……………………」
――くぅ。
どうかしましたか? と声をかけそうになった、その一歩手前くらいのところで。
すっかり耳慣れてきた甲高い鳴き声が、足元から響いた。
「あ。クゥ……おまえこんなとこまで来ちゃったの?」
トーマの手を解いて両手で抱き上げようとすると、クゥはその手の間をするりとすり抜けて、とん、とん、と軽やかな足取りで上の踊り場まで駆け上がっていく。
踊り場のところで振り返り、くぅ、と一鳴き。
ちょこんとお座りしながら、じぃっ……とランディを見下ろし首をかしげるクゥの目は、さも「おまえは来ないのか?」とでも言いたげな色をしていた。
何となく、それで踏ん切りがついた。
ランディは、脚を止めたままだったトーマの、高い位置にある頭を仰ぎ見る。
「ぼく、ここまででだいじょうぶです。トーマさんはレドさんのところへ戻ってあげてください」
「……いえ、どうかお気遣いなく。貴方方の警護も、今は我々の職責のひとつです」
そう述べる彼は、表情こそ動かなかったが。
ああ、やっぱり――と、ランディは腑に落ちた感じがした。
ここまでトーマが早足だったのは、きっとそのせいだ。
「でも、いちばんあぶないのはやっぱりレドさんだと思います。レドさんはそういうの気にしないかもですけど、トーマさんはたぶん、レドさんのこと心配なんじゃないかなって」
「……………………」
「えっと、ちがいましたか? 変なことゆってたらごめんなさい」
「いえ――」
トーマは目を伏せてかぶりを振り、胸元に右の拳を当てる騎士の礼で頭を下げた。
「御慧眼、敬服いたしました――ありがたくお言葉に甘えさせていただきます、ランディ様。お心配りに感謝を」
「ううん、じゃなくて、ここまでありがとうございました。おやすみなさい、トーマさん」
「はい。ランディ様も、どうかごゆるりとお休み下さいますよう」
トーマは踵を返し、早足でもと来た道を戻っていく。
その背を見送ってからあらためて上の踊り場を見遣ると、クゥはまだそこにいて、後足でカリカリと顎の下あたりを掻いていた。
「おまたせ、クゥ。今行くよ」
ランディが駆け足で階段を駆け上がると、クゥは得たりとばかりに踊り場を離れ、三階へ駆けあがる。
三階に上がり、クゥのふわふわしたしっぽを追いかけていく。暗い廊下でちいさなクゥの後を追いかけるのはうっかり見失ってしまいそうでちょっとひやひやしていたが――クゥが時折立ち止まって振り返ったり、きょろきょろと周囲に目を走らせたりしていたせいで、ランディの脚でも置いていかれることはなく済んだ。
やがて暗いなりに見覚えのある廊下へ出た。並んだドアの中にひとつだけ細い隙間の空いたものがあって、クゥはするりとその中へ滑り込む。
扉を開けて中に入ると、自分達の客間だった。
ソファのところで、遮光カーテン越しに差し込む月明りにユイリィのトートバッグが照らし出されているのを見つけて、間違いなく自分たちの部屋だと確信し、ほっとする。
「クゥ、部屋まで案内してくれてた? もしかして迎えに来てくれてたの?」
くぅ、と一声鳴くのが聞こえたが、否とも応ともわからなかった。
とにかくクゥの方はもうランディには興味をなくしてしまったみたいで、ソファのところに誰かが作ってくれたらしい自分用の寝床――ふかふかの毛布をたたんだものだった――にぴょいと飛び乗り、すぐにもぞもぞとまるくなってしまった。
「ランディちゃん」
そこへ、呼びかける声。
振り返ると、寝室の扉が薄く開いて、ユイリィがちょいちょいと手招きしていた。
◆
この時の本心を正直に言うと。
そういえば今夜は、というかお屋敷で寝起きしている間だけはユイリィとおんなじベッドで寝るのを回避しておきたかったのだというのを今になってようやく思い出したのだけど、そもそもいったい何をどう言えばまず今晩、ユイリィを傷つけたりなんかすることなく乗り切ることができるだろうかと――あれ? そもそもこれもうどうしようもないやつ? と半ば諦観の混じった懊悩に襲われ、頭のなかがぐるぐるしていたのだが。
いずれにせよ、突っ立っていてもどうにもならない。
ユイリィの手招きに応じ、ランディは重たい足をむりやり動かして寝室に向かう。
部屋の中は灯りが落ちて暗い。
それでも、月明りを頼りにそっと部屋の中を覗き込むと――さっきもごろごろしていた広いベッドで、幼馴染み四人がまとまって寝息を立てていた。
「ユイリィは今日もランディちゃんと一緒に寝たいけど、ランディちゃんは気にするかなぁと思って」
「ぅ」
完全に見抜かれている。
「それに、みんなで固まってた方が何かあったとき安全だからね。合理的合理的」
ユイリィはぴんと立てた人差し指を振りながら、言って聞かせる調子で明るく放言する。
その様子で、ランディは不意にひらめく。
みんなのことも、そんなふうに言って説得したんだろうな――たぶんだけど。
ほっと胸のうちを軽くしながら、ランディは足音を殺して――もう眠っているみんなを起こさないように――ベッドへと向かう。
「ランディちゃん、お風呂は?」
「あ……やっぱり入らなきゃだめ?」
ベッドに上がろうとしたところで横合いから問われてしまい、おずおずとユイリィの顔色を伺う。
ユイリィは唇を曲げて「うーん」と唸るが、さほど長くそうしていた訳ではなかった。苦笑混じりで肩を落とす。
「しょうがないね、今日はもう遅いし」
「ほんと?」
やった、と快哉を上げかけたのは、さすがに自重した。いそいそとベッドへのぼり、そのまま横になろうとして、
「え?」
――ぐい、と体ごと引き寄せられた。
ぐるん、と目の前が回転して、そのままベッドで横になったのだと気が付いた時には、ランディはユイリィの胸の中にいた。
青褪めた月明りに照らされながら、眦を緩めて微笑むユイリィのきれいな顔が、すぐ目の前にあった。
「ちょ……ユイリィおねえちゃ」
「ランディちゃんがねむたくなるまで、すこしだけこうさせて。朝までにはちゃんと離れるから」
ね? とおねだりするみたいに小首をかしげて、ランディがとっさに抗議しかけたその機先を制してしまう。
口にしかけたことばを寸前で止められて、ランディはぱくぱくと力なく口を開閉させるばかり。
主観的にはだいぶん長い懊悩の時間を挟んで――ランディはがっくりと力を抜いた。
「……寝るまでだよ? 約束だからね?」
「うん、やくそく。今晩寝るまで。朝にはちゃんと離れるよ」
やむなし。ランディは諦めた。
意図を完全に見抜かれていたうえ、ついさっきにはお風呂を免除してもらったばかりな手前、今の自分は立場が弱い。
だから、ぱぁっと輝くみたいに表情を明るくしてぎゅっと抱き寄せてくるユイリィを、今日のところは信じてあげることにして。
ため息は内心だけに留め、ランディはされるがままを受け容れることにした。
(べつに、これくらいどってことないし)
そうとも。気にしない。だいたい、今まで特に気にせずおんなじベッドで寝てたくせに、この段に至って友達に見られるのは恥ずかしいとか言い出すのが今更だったんだから。
だから、そう。すぐ傍でユーティス達が寝てるのを別にしたら、これはいつもとなんにも変わらない。なんだかそわそわして落ちつかない自分の胸に、そう言い聞かせる。
「ね。ランディちゃん」
「なーに?」
「トリンデン卿――レドさんと、どんなおはなししてたの?」
「んー……いろいろ。シオンにいちゃんのおはなしとか――」
隠し事の重さで、喉がつかえる。
ぜんぶが嘘じゃないけど、それは本当じゃない。
「あと、《大陸》のおはなしとか。レドさんが持ってた地図見せてもらった」
「《大陸》の?」
「うん。ユイリィおねえちゃんの国の場所、教えてもらったりしたよ」
「そっかぁ……」
ぎゅ。
と、抱き寄せる、抱きしめる腕の力が、ほんの少し強くなったみたいだった。
「ユイリィおねえちゃん、もしかしてレドさんのこと嫌い?」
そう問いかけたのが、あまりに唐突だったせいだろう。ユイリィは目をぱちくりさせて、ランディを見つめる。
「えっと、どうして?」
「なんとなく」
――いや。
そうじゃない。ランディの中にはもう少しだけはっきりと、そう感じるだけの理由がある。
「レドさんがユイリィおねえちゃんの『おじーちゃん』の話をしたの……ユイリィおねえちゃんはイヤだったのかなぁ、って思って」
ユイリィはランディよりずっとおとなで、『おねえさん』だ。
叔父のアーヴィンや、ジーナスみたいなちょっと怖い感じがするひとを前にしてもいつだってニコニコしてて、必要なことを上手におはなしする。そんな彼女を、カッコイイと思ったくらいだった。
でも、今のユイリィはちょっとぎこちない。
うまくかみ合わなくて――まるで、歯車が軋む音を上げているみたいで。
それは多分、あの馬車の中での一幕から――レドさんが言うところの、『ほのめかし』を聞いた、その後から。
「ランディちゃんは鋭いね。なんでもお見通しみたい」
ユイリィは溜息みたいに静かな息遣いで、笑ったようだった。
「えっと、じゃあ」
「ううん、嫌いじゃないよ。ちょっとニガテだけどね」
「それって、嫌いとどう違うの?」
「彼は偽りなく、ランディちゃん達の味方なんだと思う。でも、あのひとはなんだか言うこともやることも大袈裟だから。なに考えてるかわかんなくて」
「シオンにいちゃんとおんなじことゆってる」
「そうなの?」
うん、とランディは頷く。
「言うことやることいっつもお芝居みたいで、なに考えてるのかよくわかんなかったって。シオンにいちゃんゆってた」
シオンが、自分の冒険のおはなしをしてくれたときに。
世の吟遊詩人達が歌う『《凪の船》にまつわるみっつの冒険』――その中では決して語られることのない、自称『放蕩貴族』の謎の青年。
ちいさな造船所で働いていて、船乗りか海賊みたいに伊達を気取って見栄を切る、そんな、
「シオンは真面目だからなぁ……トリンデン卿とはあんまりウマがあわなそう」
「でも、友達だってゆってたよ」
「そうだね。きっとそれも、本当のことなんだよね」
ユイリィは背中にまわしたてのひらで、ぽんぽんとランディの頭を撫でた。
「そうだよね。うん――きっと、そう」
「ユイリィおねえちゃん?」
「シオンはずっと、こんな気持ちでいたのかなぁ……」
――
胸のうちでだけ、ひっそりと零すことばが、ランディに届くことはない。ただ、ユイリィが力なく笑ったところが、見えただけで。
「えっと……レドさんに、ってこと?」
「うん――ううん、そうじゃないの。ただ、どう考えたらいいのかわからないことがあったんだ。ずっとね」
ユイリィは目を伏せて、ちいさく笑う。
「でも、今なら上手に納得できそう。きっと明日からは、いつもどおりのユイリィでいられる」
「わ」
力いっぱい、ぎゅっと胸の中に抱きしめられた。
くっつきあった胸を通して、ユイリィの中のごうごう唸る何か――機甲人形にとっての『心臓』である、契法晶駆動基の振動が伝わって、ランディの心音に重なる。
「だから見ててね、ランディちゃん。本気のユイリィおねえちゃんは、ほんとにほんとにすごいんだから」
「……知ってるよ、そんなこと。今までだってそうだったじゃない」
「――そうだね。うん」
そうだったね、と。
どうしてか、突き返すみたいにぶっきらぼうになってしまったランディの言葉に、笑みを含んで応えて、
繰り返し耳元で鳴る声は――優しくて、とてもとても暖かだった。
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