66.トリンデン邸の夜は更けて。公爵さまと《夜ふかし》です・④
「はじまりはひとつの濡れ衣だった」
じりり、と――ランプの灯がくすぶる音を立てて揺れる。
「経緯は不明だ。が、おそらくはかの翁が築き上げた《
体の芯がこわばってしまったみたいなうそ寒さは、いつかのキャンプで怪談話を聞いたときの感覚とよく似ていた。
たぶん、本当によく似ている。だってこれは、とても怖い話だ。
「彼は名を変え姿も替え、身分を隠して身を潜めた。そしてようやく落ち着いたその先で、唯一祖国から持ち出した未完成の
――お隣のアトリおばさんから譲ってもらった、とてもきれいな
ユイリィはそれの着方を知っていた。同じものを着たことはないけれど、よく似たものを知っているんだと、確か。
あれは、そういうことだった。
きっと、その頃の――まだ、『おじーちゃん』といっしょだった頃の、
「――が、その折だ。ガルク・トゥバスとその周辺の国との間で、戦争が起こったそうでね」
「せんそう……」
ぽつりとつぶやくその響きには、実感が欠け落ちていた。
ランディのような子供にとって、それは無理からぬことだった。というより、ルクテシアにおいては、ほとんどの大人だって大差ないだろう――戦争なんてものは、
「詳細な経緯は言葉を濁されてしまったが……ともあれかの翁は戦火に巻き込まれるのを厭い、隠れ潜んでいた国を出た」
祖国からの追っ手を躱しながら。
「額面通りに受け取るならば、かの翁の旅路には無駄がない。険しい山脈を盾に
脱出行は無事果たされた。
だが、すべてが上手くいった訳でない。
「――ユイリィ・クォーツは脱出行の
ユイリィをはじめて見つけた時、彼女が眠っていたガラス筒をおさめた棺桶だ。
たしかユイリィ自身が、あれのことをそんな風に呼んでいた。
「ウィナザード夫妻はいずれ目覚めるであろうユイリィ・クォーツを報酬として、《
――ランディ少年のご両親であるデルフィン・ウィナザ ードとエルナ・ウィナザードは、先代オルデリス公爵――即ち我が父と親交篤かった冒険者だ。
――彼らは我が父からの仕事を幾度となく果たし、ゆえに我がトリンデン家もまた彼らのため、求められれば必要な便宜をはかってきた。
「じゃあ、レドさんはほんとに、ずっと前からユイリィおねえちゃんのこと」
「もちろん知っていた」
青年貴族は首肯し、認めた。
「と言っても、彼女と直接会話をかわしたことはなかったがね。《棺》に封ぜられた眠り姫の尊顔を、
――それはどうだろう。もしかしたらだが、それは少し違うのかもしれない。
だって、ユイリィは眠っている間も、周囲の音を『観測』していたと言っていた。
もしかしたら彼女にとって、トリンデン卿との出会いは、彼自身が認識しているよりずっとたくさんのできごとがあったのかもしれない。
けれど、ランディはそれを話すのをためらった。
『レドさん』に対して隠し事をする後ろめたさは募ったけれど、それでもこれはほかのひとに話してはいけないのではないかと、そう押しとどめる予感があったのだ。
胸の底にぐっと予感をしまいこんで、ランディは代わりに、別の疑問を吐き出した。
「どうしてマードックのおじいちゃんは、ユイリィおねえちゃんをおいてっちゃったんだろう……」
「彼は祖国から追われていた。
トリンデン卿はよどみなく、ランディの疑問に答えてくれた。
ランディの隠し事には、気付かずいてくれたようだった。
「追手の存在を思うのなら、あの大仰な《棺》は、数年の眠りを待たねばならなかったユイリィ・クォーツは、どう
だが――と。
トリンデン卿は喉元に何かつっかえているみたいな顔で、唇を曲げていた。ランディは首をかしげる。
「レドさん?」
「……マードックが言っていたことがある。自分は、ユイリィ・クォーツを造るべきではなかった、と」
「え――」
「いかなる
膝の上で両手を組み、机上に広げた地図の上へと目を落とす。
「ユイリィ・クォーツは自らには過ぎたものだと――そう、かの《
「…………………………」
――何で。
真っ白になっていた頭の中が、今は疑問符でいっぱいだった。
造るべきじゃなかった、なんて。そんなのひどい。何で。
ユイリィおねえちゃんのおじいちゃんなのに。なのに、なのに何で、そんな、
「ランディ少年」
はっと我に返る。
トリンデン卿が、気遣う眼差しでランディを見ていた。
「あ……えと、ぼく」
「かの翁の真意は我々の知り得るところではない。だが、こうは考えられまいか」
声を明るくして言いながら、トリンデン卿は大袈裟に両腕を広げる。
「かの翁はそう思いつめ、しかしただ置き去りにするのもまた忍びなく思えばこそ、ウィナザード家に彼女を預けることをよしとしたのではないだろうか。少なくとも」
そう、少なくとも。
トリンデン卿は芝居がかった所作で、びしりとランディを指差した。
「今のユイリィ・クォーツは充実していることだろう! かの少女はランディ少年を大事に思い、少年のために己が力を尽くそうとしている――それは『人』として、例外なく充実した生き方であると、フレデリク・ロードリアンはそのように考えるね!」
「……そう、なの……かなぁ」
「少年、そこを疑っては彼女の立つ瀬がない。このフレデリク・ロードリアンの至らなさが少年にそのような疑念を植え付けてしまったことは
ちら、と視線を上げてトリンデン卿を伺ったとき、彼は困ったみたいに眉を下げて、ランディの反応を伺っていた。
しかし、長くそうし続ける時間に耐え兼ねたのか、彼は手持無沙汰の空白をごまかすように、テーブルの隅に寄せたきりだった紅茶のカップを手に取った。
「……いかんな、茶が冷めてしまった。温め直そうか、ランディ少年」
「えっ!? いえ、へいきです。つめたい牛乳も好きだし」
「そうか」
トリンデン卿はおかしげに、どこか力なく笑う。
ランディはこくこくと頷いてカップを手に取り、すっかり熱をなくした牛乳をこくこくと飲み干した。
◆
ユイリィの『おじーちゃん』の話が一段落つき、続けるべき話がなくなった頃。
静かな沈黙の時間を持て余してぼんやりしていたランディだが、不意に眠気を感じて大きく欠伸をした。
その様子に気づいたトリンデン卿は懐から懐中時計を取り出し、その文字盤を見るなり「おっと」と声を上げた。
「もうこんな時間か。遅くまでつきあわせてしまってすまなかったね、ランディ少年」
「ううん、ぼくのほうこそありがとうございました。ぼくが知りたかったこと、おはなししてくれて」
「――すまない。どうも私は、まだ語るべきを語り終えていなかった。かの《
「あ」
そうだ。もとを糺せばそこが問題なのだ。
だが――と、落ち着いた今になってランディは思う。
果たしてそれは、ランディが聞いてもいいことなんだろうか。
「現在の足跡までは私も追っていない。なにぶんにも、かの翁を我が遊隼館へ招いたのは三年も前だ」
トリンデン卿はそう前置きし、「しかし」と話を続ける。
「しかし、我がトリンデン=オルデリス家が手を尽くして彼らの足跡を攪乱した後――三年前の彼がどこを目指したかならば、私も聞かされている。彼らはルクテシアを縦断し、《大陸》へ渡るつもりだと言っていた」
「《大陸》――」
――ユイリィの生まれた土地。
――ランディの両親が渡った土地。
たしか両親から届いたいちばん新しい手紙では、世界樹の麓にある《聖都》――大陸で一番大きな都から南下して、《
(もしかして……)
ふたりはユイリィの『おじーちゃん』と一緒にいるんだろうか。今も、まだ。
「最終的にどこの港から大陸へ渡ったかは定かでないが、彼らがコートフェルから目指した先はオーベサス=シグレオン。ルクテシアで最も南に位置する港だ」
「オーベサス……」
地理の授業で習ったことがある。
ルクテシアでいちばん南の、商港にして軍港。
「かの翁について私が語れることはこれがすべてだ。これをユイリィ・クォーツへ語るべきか否か、それは少年の心ひとつに委ねることとしよう。無論――」
トリンデン卿はテーブルに身を乗り出し、ランディの胸をトンと叩く。
「相談ならいつでも乗ろう。少年がこのフレデリク・ロードリアンを、頼もしき男と信じ頼ってくれるのならばね」
籠った力は軽いものだったが、ランディは彼の拳が叩いたその場所に、熾火のような熱を感じた。
トリンデン卿はニッと大きく笑みを広げると、茶器と一緒にテーブルの隅に寄せていたベルを手に取って鳴らす。
澄んだ音が響くのに続いて、隣室に控えていたトーマが入室した。
「お呼びですか、閣下」
「ああ、ランディ少年との語らいが終わった。彼を客室へ連れていってさしあげてくれ」
「
トーマは胸に手を当てて騎士の礼をすると、ランディの傍らへ来て「さあ」と促す。
促されるまま立ち、ぺこりと一礼してからその場に背を向けて、
「ランディ少年」
「? はい」
きょとんと振り返ったランディからふいと視線を背け、青年貴族ははざらつくような溜息を零した。
「ランディ少年。私は君に――いや、君達にひとつ、
彼は再び言葉を途切れさせた。
手入れのいい金髪をぐしゃぐしゃとかき回し、それでもなおたまりかねたように、ドン、と一度足を踏み鳴らした。
「あの……レドさん?」
「……夕食の時の、
「へっ?」
ラフィがおねだりした、
「えっと。あのことなら、ぼくたちは」
「いいやランディ少年、私は懺悔しなければならない。私は臆病風に吹かれたのだ」
「ふえっ?」
もういいんです、ととりなしかけたランディを遮り、トリンデン卿はきっぱりと首を横に振る。
「我々は運命共同体! 力を結集しかの忌々しい刺客より互いを護りあう――そう誓っておきながら、私は臆病風に吹かれたのだ! 安全な屋敷に閉じこもり、シオン・ウィナザードらが我が叔父ダモット・マクベインを誅伐しすべての嵐が過ぎ去るまで、待てばよいと! 私の心は
青年貴族はランディへと駆け寄り、その場に膝をついてはっしと両手で少年のちいさな手を取った。
「だが、そうではない! そんなものは冒険者の生きざまではないのだ、決して! ゆえにランディ少年、どうか――どうか私の臆病を許してくれたまえ。そして叶うならばこの私に、君達とともに歩む冒険者となることを許してくれたまえ!!」
「閣下」
「少年、どうかこのフレデリク・ロードリアンを、いやさ、冒険者レドを、君たちの六人目の仲間に加えてくれたまえ! そして今度こそ真に我らすべての力を結集し、かの忌々しき刺客を打ち倒す剣となろうではないか!!」
「えっと……」
ランディは――
後ろでひっそりと嘆くようにかぶりを振っているトーマの気配を伺いながら、燃える眼差しで訴える青年貴族の勢いに目を白黒させていたが。
「その……ぼく一人で『はい』って言っちゃうのは、できないかなって思うんですけど」
「そうか。いやさそれでもよいのだ。答えを急かすつもりは」
「でも」
と。ランディは笑って、
「六人目はむりですけど、七人目だったら――きっと、みんなも『いいよ』ってゆってくれると思います」
ぽかんと目を丸くする青年貴族に、へにゃりと笑って。
ランディは、そう請け負った。
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