65.トリンデン邸の夜は更けて。公爵さまと《夜ふかし》です・③
応接テーブルを挟んでソファに座り、ランディはトリンデン卿と向かい合っていた。
部屋の灯りは既に落とされ、カーテンを閉め切った室内は暗い。スレナが置いていったランプの灯りだけが、どこか暖かな色合いを放って、ランディとトリンデン卿の間をぬくませるように照らし出していた。
「紅茶とミルク、どちらがお好きかな?」
「どっちも好きです!」
とっさにそう答えてしまってから、ランディははたと我に返って言い直す。
「……けど、今日はミルクがいいです。寝る前にお茶を飲むと寝られなくなるって、にいちゃんゆってて」
「そうか、シオンがか……では、今日のところは彼に
トリンデン卿は口の端を緩めて微笑むと、温めたミルクをカップに注いだ。
ランディの前へ、ホットミルク入りのカップを指でそっと滑らせ、続いて自分のカップに紅茶を注いでいく。
その様をじっと見ていたランディにふと気づき、トリンデン卿は穏やかな手振りでミルクを勧めてきた。
「私のことは構わなくていい。どうぞ、めしあがれ」
「えっと。じゃあ、いただきます」
勧めに従い、カップへ口付ける。
ホットミルクは暖かくて、ほんのり甘かった。表面に張った薄皮が唇に張り付くのを嘗めとりながら、甘いミルクをちびちびと少しずつ啜る。
――焚火みたいだな、と思った。
前に学校のキャンプで、みんなと一緒に焚火を囲んだ夜を思い出す。冒険者として野営する夜はこんな感じなのかなと想像して、胸を躍らせた夜。
晴れた星空を見上げながら、焚火を囲んでみんなで焼きマシュマロを食べた。あれほど素晴らしい夜はこの先の人生でだってきっと何度もありはしないと、ランディは心から信じている。
スレナは一礼して退室し、護衛として控えていたトーマもトリンデン卿が隣室へと下がらせた。
室内は、ランプの灯りを囲んであたたかな飲み物を啜る、ランディとトリンデン卿のふたりきりだった。
「シオンの話をしたいのだと聞いたが」
不意打ちのように、青年貴族は切り出した。
ランディはびっくりして、両手で抱えていたカップを落としかけた。
「あの、すみません……それ嘘なんです。ごめんなさい!」
振り下ろすように頭を下げる。
それはドナにお願いするとき、その場でうまい言い訳を思いつけなかったせいなのだけど。でも、こうしてトリンデン卿とふたりで話す時間が欲しくてランディが嘘をついたのだけは、疑いなく確かなことだ。
――ずっと確かめたいことがあった。
《諸王立冒険者連盟機構》でそれに気づいてから、ずっと。このお屋敷に来てからも、夕飯の間も、折に触れて泡のように胸の奥底から浮かび上がってきた、それを。
「ほんとうは……ユイリィおねえちゃんのことで訊きたいことあって、それでレドさんとおはなししたかったんです」
「ユイリィ・クォーツの? しかし彼女は」
「ユイリィおねえちゃんのこと、っていうとほんとは少し違うんです。レドさんに聞きたいのは、ユイリィおねえちゃんの――おじいちゃんのことで」
短い沈黙が落ちた。
トリンデン卿が、ひっそりと溜息をつく息遣い。謝罪で伏せたままだった面の鼻先を、紅茶の香りに擽られた気がした。
「《
どこか、沈んだ声で。青年貴族はひとりごちる。
おずおずと顔を上げると、どっかりとソファにもたれて天井を仰いでいたトリンデン卿がそんなランディの動きに気づき、口の端に苦笑を刻んだようだった。
「つかぬことを訊くようだが、ランディ少年。君は何ゆえに、彼のことを訊きたいと思ったのかな?」
「なんで――」
居住まいを正し、真っ直ぐにランディを見るトリンデン卿。瞳を通してその奥、頭の中まで透かし見るようなそのまなざしの強さに、たじろいでしまいそうになる。
「《
――そうかもしれない。
でも、そういうことじゃない。そんなに単純なことじゃないんだと、体の奥の方、背骨のあたりから訴えかけてくる感覚がある。
「そばにいるから、話せないこともあるんだ――って」
トリンデン卿はじっとこちらを見つめている。
目を逸らしそうになるのを、お腹の底に力を入れてぐっと堪える。
「シオンにいちゃんがそうだったんです。にいちゃん、ぼくには話せないことがあって、でもその時は、ユイリィおねえちゃんが代わりにシオンにいちゃんのおはなしを聞いてくれて」
「シオンが……」
「はい。だから、ユイリィおねえちゃんだってきっとそうなんだって」
――違う。これも違う。それは確かにほんとうのことで、ランディがこうしてトリンデン卿と話をしたかった理由だけど。でも、きっと正しいことばじゃない。
ぺしぺしとほっぺたを両手で叩いて、動きの悪い頭をむりやり働かせる。
「ぼくは、ユイリィおねえちゃんからおはなしを聞きたいんじゃないです。ぼくが訊きたいのは、レドさんがユイリィおねえちゃんにしようとしたおはなしだから」
「私……?」
太く男らしい眉をひそめて。
トリンデン卿は、不意に思い至ったようだった。
「ああ、そうか。馬車の時の――あの時の、ユイリィ・クォーツに対する私のほのめかしを、その意図するところを求めて、少年はここへ来たということか」
「……ユイリィおねえちゃんは、訊けないかもしれないから」
《
ユイリィの『おじーちゃん』。
そのひとの話を、ランディはほとんど聞いたことがない。ユイリィはその『おじーちゃん』が作った
ユイリィが生まれた国のおはなしを聞いたことだってある。
けれどその時だって、ユイリィは『おじーちゃん』のことは何も口にしなかった。
べつに、おかしなことなんかないかもしれない。たまたま話すに至らなくて、そのまま今日まで来てしまっただけなのかもしれない。
けれど、
それでも、もしかしたら、
「……そうか」
トリンデン卿は、赤金色の水面からあたたかな湯気を立てる紅茶を啜った。
大理石のローテーブルにカップを置き、静かに息をつく。
「あまり面白い話ではないが、それでも構わないかな」
「!……はい、だいじょぶです。おねがいしますっ!!」
ランディは息せくように、何度も首を縦に振る。
レドさんは話してくれる。なら一瞬でもためらったりなんてできない。このチャンスは、ぜったい逃すわけにはいかなかった。
トリンデン卿はなおもじっとランディを見つめていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「率直に言えば、私がかの
ランプの灯りに、その横顔が照らされている。
眉間にしわの寄ったその面は厳しいものだったが、怖くはなかった。彼が怒っているのでないことだけは、何となくだけどわかったから。
「ただし、ひとつだけ――私には、彼女の知り得なかったことを語り得る余地がある。かの
「ユイリィおねえちゃんの、おじいちゃんの?」
「そのとおり」
一度、深く首肯する。
「ランディ少年。君はかの
「それは、えっと……たしか、おとうさんとおかあさんが、ユイリィおねえちゃんのおじいちゃんからおしごとの依頼を受けて」
――その仕事の『報酬』として、ユイリィを受け取った。
ユイリィは、その身体を修めた《
「
ユイリィから、彼女が生まれた国の話を聞いたことがあった。
一年のほとんどが、一面の雪に包まれる国。窓の外は毎日真っ白。街から出るとどこまでも雪で、遠くの方の森もずっと白い帽子をかぶっている。
とってもとっても寒い国。
あんまり寒い国だから、雪がいっぱいあっても雪だるまを作るひとのいないところ。みんな雪で遊ぶよりも暖炉の前であったかくしてばかりいるほうがいいみたいで、ランディは何てもったいないんだろうと憤慨しかけたものだった。
熱くした石に水をかけて部屋の中を熱い蒸気でいっぱいにする、
そう――そんな国。
漠然と夢に想い描いてた、真っ白な雪とこわいお風呂の、ユイリィが生まれた《大陸》の国。
トリンデン卿はソファから腰を上げ、執務机へ向かう。
そして、大きな紙を丸めた巻物を手にして戻ってきた。
「これを見てほしい」
茶器とカップをどけて、テーブルに広げたそれは、地図だった。
ランディが学校の授業でよく見る《
「これ……」
「《大陸》の地図だ」
地図の東端に
「まず、ここがユイリィ・クォーツの故国だ」
大陸の東部、そのいちばん北に位置する、まるで竜の翼を思わせる形をした土地。
その南側の、細長い内海の北岸に面する一帯を、ぐるりと指でなぞってみせる。
「ここが……」
思ったよりずっと近い。船があれば今すぐにでも行けそうだ。
ランディがそう思ったのを見透かしたように、トリンデン卿は首を横に振る。
「ミスヴァール凍土地方の南方一帯を統一せし、凍土と鋼の皇国ガルク・トゥバス――南岸を《氷結海》の氷に、東岸を極北より
茶目っ気を含んで付け加えられた最後の一言に、ランディはぴんときた。
――《凪の船》。
「だが、例外は所詮例外だ。かの国からルクテシアへ渡るには、いったん西へと迂回し、このように南へ下り……凍ることのない海に面した、他国の港まで出なければならないのだ」
龍の翼の根元のほう。
高い山々を示す灰色に塗られた一帯に指を滑らせ、さらに《氷結海》の南側に広がる土地へと動かす。
そこからさらに、
「デルフィン・ウィナザードとエルナ・ウィナザード――ランディ少年のご両親がかの
然るに
我知らず、ランディはごくりと重い
地図の上でなぞった距離は、ルクテシア島の端から端までよりずっとずっと長い。
国境らしき線だっていくつも越えている。ランディは国境どころか、おとなりの領都にさえまだ行ったことがない。
「何ゆえ彼は祖国を離れ、このような旅を選んだか。無論、故なきことではない――かの
――未知の冒険へと高らかに飛躍する勇気と探究
――祖国の基盤となって数多の探求を支える精励と献身
――これらはルクテシアの長き繁栄を支える両輪であり、いずれのひとつとて欠けてはならぬ一対の雄々しき翼であります――
「では、その
――ああ。
そうだ。ランディの中で、一本の線になって繋がる記憶があった。それは他でもないトリンデン卿が、ユイリィへ向けて語ったことばだ。
『あれほど高らかに讃え上げた少年少女を、これより後に多くの未来ある子供たちを我がトリンデン家の巻き添えとし、かの忌まわしき刺客めの手にかけさせるようなことがあれば――これは醜聞です。いえ、仮に事実が異なるものであったとしても、それを醜聞に仕立て上げることはできる』
起きうるのだと。彼はそう言った。
醜聞も冤罪も、人の手で作り上げることができる。
そう――
『――貴女ならその可能性を理解できるはずだ』
乱暴な断定に、ユイリィは返す言葉を持たなかった。
ランディなんかよりずっと頭がよくて、ランディなんかじゃ一度だってきちんと説得できたことのない、ランディの『お姉ちゃん』は。
「故国を追われたかの
『沈黙』という、ひとつの答えをもって。
ユイリィは確かに、それを認めていたのだ。
頭の中が真っ白になって何も言えないランディへ、トリンデン卿は慰めるように微笑む。
「私はかの翁から、それを聞き得た男なのだ」
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