60.招かれてトリンデン邸、四泊五日の《お泊り会》です!・④

 《遊隼館》の離れは、正面の門から向かって右手側。本邸の裏手に位置する、小作りな三階建ての家である。


 もちろん、小作りというのは本邸の威容と比べた場合の話で、別邸の一軒だけでもちょっとしたお屋敷くらいの大きさはあった。


 離れへ続く渡り廊下からは、季節の花が美しく咲き誇る庭園、そして丁寧に刈りこまれた背の高い生垣の群れが、敷地の四方を囲う木々のところまで続いているのが見渡せた。


「きれいなお庭だねぇ」


「うい」


 エイミーが弾んだ声でひとりごちるのに、リテークが同意と思しき首肯を返す。


「ほんとうに立派な庭園ですね。花もそうですけど……あちらの生垣も。よく手入れされているのがここからでもわかります」


 ユーティスが、先頭に立って進むメイド長――アンリエットの背中へと話しかけ、如才なく庭園を褒める。 


「それにあんなに大きな生垣、僕は生まれて初めて見ました。あそこは何があるのでしょうか」


「あれは迷路ですわ」


「迷路?」


 聞き捨てならない単語に思わず問い返してしまうランディへ、アンリエットは振り返るでもなくただ「はい」と応じる。


生垣ロッジ迷路と呼ばれるものです。王城や都市の公園に……時には大きな貴族の邸宅の庭園でも、余興として造られることのあるものですが。しかしこのお屋敷ほど大きな迷路は、ルクテシアどころか広く《多島海アースシー》を見渡したとて、そう見つかるものではないでしょう」


 アンリエットの説明に、ランディは呆けたように、感嘆の息をつく。


「そんなに大きいんだ……」


「あ。でも、そんなおおきいとお手入れ大変なんじゃないですか? あたしのママなんか、宿屋の中庭だけでもいっつも大変そうにしてるくらいだもの」


「専門の庭師を雇っておりますから」


「あのっ!」


 大きく手を挙げるランディ。

 初めて脚を止めて振り返ったアンリエットに、ランディは声を弾ませて訊ねた。


「あの迷路、あとで行ってみてもいいですか!?」


「ランディ……」


 渋い声で唸ったのは、ユーティスだった。何を馬鹿なこと言ってるんだと言わんばかりの表情だった。


「……念のため言っとくけど、僕ら遊びにきたわけじゃないんだよ?」


「そーよランディ! あんたもっと緊張感持ちなさいよねっ!!」


「す、すぐにって訳じゃないよ!? でも、迷路なんてめったにないしさ……」


「あの、わたしも。わたしも、行ってみたいな」


「エイミーまで……」


 げっそりと呻くラフィ。

 一方のエイミーは頬を上気させながら、のほほんと可愛らしく微笑む。


「だって、ほら。迷路。冒険。ねっ?」


「あのねぇあんた達。ほんとそれどこじゃないでしょ、今は」


 そんな子供たちの様子を、じっ――と見下ろしていたアンリエットは。やがて、緩めた唇の間から、小さく息をついた。


 呼気と認識できる、およそ下限に位置する微かな息遣いで。彼女は笑ったようだった。


「もちろん、行かれるおつもりとあればお止めはいたしませんが――ですが、わたくし個人としては、あまりお勧めはいたしませんわ」


「ふえ?」


「どうしてですか?」


 きょとんと目を丸くして振り返るランディ達。

 エイミーとランディが口々に言うのに、アンリエットは背の高い生垣を眺めやった。


生垣ロッジ迷路のために専門の庭師を雇っている、というのは、先程、申し上げたばかりでしたが」


 まるでひとりごちるように、ぽつり、ぽつりと零しながら。

 アンリエットは、睫の長い眦を三日月のように――にぃっ、と――細める。


「ごく、たまに――ですけれど。あの迷路の中へ手入れに行った庭師が、外へ出てこないことがあるのですよ」


「え?」


 ――と。

 怪訝に零したかすれ声は、ランディ達の中の誰のものだったか。


 ただ、その絶句寸前の体で引き攣れた呻きを聞き留めてか、メイド長はゆるりとランディ達へ振り返った。


「仕事上がりの刻限になっても戻らない者がいるのに気づいた庭師たちの要請を受けて、邸宅の護衛騎士隊に中を捜索させる運びとなったのですが……結局、消えた庭師の姿はどこを探しても見当たらず。以来、姿を消した庭師は家に帰ることさえなかったとか――」


 ――微かに紅潮した美貌の面に。

 メイド長はどこか恍惚とした、妖艶な微笑を広げる。


「「「「…………………」」」」


 心なしか、顔を撫でる空気が冷えていたようだった。

 ぺろりと唇を嘗める彼女の姿を前にして、なぜかその時ランディの脳裏をよぎったのは――木の枝の間に巣を張った、大蜘蛛の姿だった。


 糸にかかった哀れな獲物を、不気味に長い前足で引き寄せる、毒々しい蜘蛛の姿だった。


「……冗談、ですよね?」


 頬を引きつらせて、ぽそりと呻くラフィ。

 アンリエットはその眦をいっそう細めて、笑みを深めながら、


「さあて、どうでしょうか。皆さまはどちらだと思われます?」


 ――と。


 すぅっと冷たく澄み、重く垂れこめる静寂の中。

 もはやランディ達の間に、言葉はなかった。


 ただ――このうえあの迷路へ行こうと言い出す者は、一人としていなかった。臆病なエイミーに至っては、完全に涙目になっていたくらいだ。


「さ、そんなことよりも。皆様のお部屋へご案内いたしますので、どうぞこちらへ」


 別邸の玄関を開け、中を手で示すアンリエット。

 

 ランディ達は一度だけ、うそ寒い表情を浮かべた互いの顔を見合わせると――あとはアンリエットに招かれるまま、おとなしくそそくさと、別邸の中へと入っていった。



「こちらが、皆さまのお部屋になります」


 別邸の三階。

 ランディ達が案内された煌びやかな客間は、それだけでまるで一つの家のようだった。


 応接のソファセットと暖炉を備えた、広々とした談話室。その左右の扉は、大人が三人は寝られそうなベッドをふたつずつ並べた寝室。

 談話室から続きになった部屋の中には、シャワーにバスタブ付きのバスルームや、上端が天井まで届く大きな鏡と蛇口つきの洗面台を備えた洗面室まであった。コートフェルの市内は、上下水道が完備されているのだ。


 談話室の高い天井からいくつも下がる、シクラメンの花を思わせる傘は、日没の後に室内を照らす明かりとなる魔光灯である。

 差しこむ陽光をはらみながら白く波打つカーテンを左右によけた窓の外は、大理石の欄干らんかんに囲まれたバルコニーで、そこからは最前に渡り廊下から見た中庭と《遊隼館》を囲う広葉樹の群れ、さらにその先にあるコートフェルの市街までを見晴るかすことができた。


「きれい……おひめさまのお部屋みたい!」


 と。さっきまで怯えていたのもどこへやら、感激で頬を紅潮させていたのはエイミーだったが。

 ランディ達は一人残らず、好奇心たっぷりに目を輝かせて、初めて立ち入る客間の探検に、ひとしきり駆け回った。


 その間、廊下に続く部屋の入口の隅で控えていたアンリエットは、少年少女のはしゃぎようを静かに見つめていたが。

 ややあって、天上から下がる紐を手に取り、おもむろに引いた。


 ――ちりりん。


 と、涼しげなベルの音が鳴り、開け放したままだった扉から、どこぞの部屋の扉が開く音――続いて、毛足の長い深紅の絨毯を踏むしずしずとした複数の足音が流れ込んでくる。

 その時にはランディ達もベルの音に気づき、めいめい訝るような顔つきをしながら談話室のアンリエットのもとへ戻っていた。


「失礼いたします」


 ちょうどそのタイミングで、足音の主――さりげなくも上品な刺繍のほどこされたメイド服姿のメイドたちが入室し、洗練された所作で一礼した。


 一様に若く、それ以上に姿勢の良さが際立つ娘たちだった。

 身に着けたメイド服も決して派手なものではなかったが、キャップから下がるリボンやエプロンにさりげなく刺繍が施された、見る者が見れば一目でそうと分かる美しいしつらえをしている。


「彼女達は皆様のご滞在の間、身の回りのお世話をさせていただく者達です」


 横一列に整列したメイド達を手で示し、アンリエット。

 ランディはその場でぱっと姿勢を正すと、ぺこりと深く頭を下げる。


「あの、ランディ・ウィナザードです。お世話になりますっ!」


 これにつられる格好で、ユーティスやラフィ達も次々と自己紹介し、頭を下げる。

 整列したメイド達は――表情や姿勢こそ崩さなかったが――揃って目をしばたたかせ、きょとんとしていたようだったが。

 そのうちの一人、一番の年長と思しき背の高い一人がアンリエットと顔を見合わせると、列から一歩前に進み出た。

 スッと鋼のように伸びた髪を丁寧に切りそろえたそのメイドは、口の端にものやわらかな微笑を浮かべながら、しずしずと一礼を返す。


「皆さまのお世話係を取りまとめる、スレナ・ティンジェルと申します。後ろの者は、アンネリー・ヘブンス、セシェル・セリー、エレオノーラ・カレット――御用の際はなんなりと、私どもにお申し付けください」


「「「「おせわになります!!」」」――ますっ」


 互いに頭を下げるメイドとランディ達を、アンリエットは笑みを含んで見つめていたが。

 ふと、その笑みを消すと、スレナと名乗ったメイドへ問いかけた。


「一人足りないようですが。ドナはどうしました」


「それが――」


「お、遅くなりましたぁ!」


 ――と。

 どたどたと足音も高く、息を切らして駆け込んでくるメイドが一人。


 くしゃくしゃの癖っ毛に大きな丸眼鏡。

 制服こそ他のメイド達と同じものだったが、よほど慌ててきたのかキャップの角度がずれているうえに乱れた前髪が汗で額に張り付いていて、衣装の清楚な印象がおおよそ台無しだった。


 彼女が駆け込んできたのを見た途端――スレナが急にそれまでの笑みを消し、厳しく眉を吊り上げる。


「遅いわよ、ドナ・フィッシャー! いったいどこで何をしていたの!?」


「ひっ――す、すみませんスレナ先輩! あ、ああのわたし、あの」


「背筋を伸ばしてしゃんとなさい、みっともない! お客様の前ですよ!?」


「は、はひっ……」


 涙を浮かべて身を縮める彼女を、スレナは激しく叱責する。

 最前までのものやわらかな微笑が、嘘のような苛烈さだった。


「――スレナ」


 アンリエットがため息まじりで、見兼ねたように口を挟んだ。


「貴方もですよ、スレナ・ティンジェル。お客様の前でそのような大声を出して。当家のメイドとして、貴女の振る舞いこそ恥ずかしいこととは思いませんか?」


「……申し訳ありません。つい、言葉が荒くなりました」


 静かな詰問に。スレナははたと我に返った体でランディ達を見ると、悄然と眉を曇らせて謝罪した。

 一転して怒気を消したスレナは、子供達に向き直ると、あらためて深く頭を下げる。


「お客様方には、みっともないところをお見せいたしました。どうか、最前の非礼をお許しください」


「……いえ」


 彼女の謝罪に対し、かろうじてそれだけ呻いたのは、ラフィだったが。

 ランディ達はそれ以上の言葉もなく、突然の怒声の後で完全にすくみ上がってしまっていた。

 アンリエットは眉間に皺寄せ、ひっそりと溜息をつく。


「隣室に、彼女達のうち一人を必ず待機させております。何か御用の際はこちらの紐を引き、呼び鈴を鳴らしてくださいませ」


 アンリエットのそれは今までで一番やわらかい、とりなすような声だったが。

 最前の叱責の余韻がびりびりと残る中では、それも場の空気を和らげる効果として、気休めにもならないものだったろう。


 ランディは最前の、遅れてやってきたメイドの様子を、こっそりと伺う。

 栗色の癖っ毛にメガネをかけた彼女は、他の同僚がすんと綺麗な姿勢で他人事を決め込む中、いたたまれない様子で悄然と肩を落としていた。


「では、私どもは失礼を――どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」


 そう言い置いて、アンリエットが退室する。

 スレナと他のメイド達も彼女の後に続き、しずしずと退室する。


「あの」


「へ? は、はいっ」


 最後に退出しようとしていたメイド――ドナ、と呼ばれていたか――へ、ランディは呼びかけた。呼び掛けてしまっていた。

 唐突に呼び止められたことで、びくりと竦むメイド。その露骨な反応に、退室間際だったスレナが露骨に眉をしかめるのを視界の端に見てしまったが――ランディは強いてそちらを見なかったふりを決めこみ、ぎこちなくドナへ笑いかけた。


「えっと。メイドのおねえさんにおねがいしたいことあるんですけど、いいですか」


「あ――はい、畏まりました。どのようなご用件でしょう」


 殊更に甘える調子で作ったおねだりする声は、だいぶんぎこちないものだったかもしれない。


 こういう感じの、要領の悪い女のひとに、ランディはものすごく覚えがあった。

 つまるところ、落ち込んだままの彼女を放っておけなくなってしまって、うかつに声をかけたりなんかしてしまったのだけれど。


 ――大丈夫ですか? とか。

 ――元気出してください。とか。


 とっさにそういった類のことをつい言いかけそうになって、ランディはその衝動をぐっと喉元で堪えた。

 自分みたいな子供がそんなことを言ったって、彼女みたいなひとは余計に落ちこんでしまったりするものなんだと――ランディは経験上、よく知っていたから。


 なので、代わりにちょいちょいと手を振って、手振りで内緒話がしたいことをアピールする。

 不思議そうに「?」を浮かべながらしゃがみ込んでくれたメイドの娘に、ランディは小声で耳打ちした。


「レドさん――じゃなくてトリンデン卿に、聞きたいおはなしがあるんです。ほかのひとに知られないように伝えてほしいんですけど、おねがいできますか?」


「は、はあ。はい、承りました……どのようなお話ですか?」


「えっ?」


 思いがけず問い返されて、ランディは呻く。


 困った。トリンデン卿と話したいことがあるのは本当だったが、その内容を説明するとなるとちょっと長くなるし、そもそも事情も何も知らない人を相手にどこから説明したらいいかもわからない。

 半ば衝動で呼び止めてしまったせいで、そこまで頭が回っていなかった。


 なので、


「えと……ランディが、シオンにいちゃんのおはなしを聞きたがってるって言ってくれたら、レドさんならきっとわかると思います」


 メイドの娘は、なおも不思議そうにしていたが。ややあって何かしらの理解に至ったか、でなければ悩んでもしかたないと踏ん切りをつけたようだった。

 子供と向き合う「大人」の表情になって、彼女はこう答えた。


「わたしが旦那様と直接お話するのは難しいので、アンリエット様にお伝えしていただくことになると思います。それでも構いませんか?」


「はい! だいじょうぶです、おねがいします――ありがとうございますっ!」


 お礼を言って、ぺこりと頭を下げるランディに。

 メイドのドナは、やっぱりまだ落ち込んだ様子ではあったのだけれど――でも、頭を下げながらこっそり表情を伺った時の彼女は、大きなお礼の言葉に、それでも少しは気持ちが上向いたみたいで。


 「はい」とちいさく、微笑んでくれていた。

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