56.追想:かつて、どこかで彼女が留めた《記録》①
『納得できません!』
叫び出す寸前にまで膨れ上がった女の怒声と、テーブルを叩く荒々しい音がする。
強い怒りの発露であるそれらはつくりの薄い壁を容易に貫通して、隣室で膝を抱える『
『事故……だなんて。マキシム――ヴェルナー少尉を殺した励起法力のバックファイアは、あの《
『事故の原因は確かに君の言葉どおりだ。エスメラルダ・ナテル特務曹』
怒声に応じるそれは、老爺の声だった。
杉の古木――その樹肌を撫でたときの触れ心地を思わせる、硬く静かな声だった。
『起こった現象、観測された事実に異論はない。私が問題としているのは、それが誰の主体によって起きたのかということだ』
『だから、あの
『
『何を――』
『メルリィ・キータイトは《
老人は言う。
燃えるような女の反駁を遮ることばは決して強いものではなかったが、ゆるがせにし難い
『だが、そうでないことが明らかになった。メルリィ・キータイトには我々の誰もが想定しなかった、存在しない筈の『人格』があった。
《
それは、事実を述べるだけの、それ故の重さを孕んだことばだった。
『だが、そこには『メルリィ・キータイト』という個人が存在した。恐らくは起動の瞬間まで眠り続けていた、メルリィ・キータイト自身ですらその存在を認識していなかった、機体自身の自我だ』
『だから、そうだと言っているんじゃないですか、私は! あの
『呼び方を変えたな、ナテル特務曹。私はそのようなすり替えを、君の欺瞞だと指摘していたつもりだったのだが』
老人は、溜息をついたようだった。
それは女の激情に、さらなる油を注いだ。
『《
『エスメラルダ』
女を諫める、別の声が割り込んだ。
男のものだ。彼女の上官である男だ。
あの日、あの場にいた士官の一人であった男だ。
隣室には老人と女と、その上官と――それ以外にも数名の男がいた。いずれも、あの場に居合わせた《特務》の人間だ。
『部下が失礼を、《
部下に代わって、士官は言う。
『
老人は揶揄するように、小さく鼻を鳴らした。
理を説く口ぶりで発せられた一連の物言いを、老人――ガルク・トゥバスにおける
『君達は、蚊を潰したことがないのか?』
『……は?』
『たとえば、の話だ。君たちの肌にとりつき血を吸う蚊を見つけた場合だ。君達は咄嗟にそれを潰さずいられるのか、ということを聞いている』
『…………蚊、ですって……!?』
そう、
『マキシムを――彼が、虫けらだと!? 彼ほどの素晴らしい士官を、この
破壊的な緊張をはらんだ騒音が、がたがたと隣室の空気を圧して重なる。
『エスメラルダ、やめろ!!』
『離してください大尉! この
『これ以上感情任せで暴れるつもりなら、今すぐこの部屋から退出してもらう! この場に立ち会いたいなら理性的になれ、ナテル特務曹!』
『…………っ、………………!』
女は唇を噛み、老人は溜息をついた。
『前述のそれは状況の仮定であり、ヴェルナー特務少尉に対する価値判断ではない。
――が、ナテル特務曹の気に障ったのであれば表現を変えよう。たとえば任務中に暗がりから野犬に襲われたとき、君達はその野犬を振り払わずにいられるか。あるいは街中で不意に暴漢に襲われたとき、防御の反撃を試みずにいられるか。私が問うているのは、これら仮定の状況に対する反応だ』
涙の滲む息遣いで、女は奥歯を噛み締めていたようだった。
ふ――――っ、ふ――――っ、と圧すら伴う強い息遣いは、上官の静止に圧しとどめられた、彼女の総身で荒れ狂い溢れ出さんとする情念の発露そのものだった。
『恐らくだが、諸君らは蚊を潰し、野犬を振り払い、暴漢に抵抗するだろう。そして件の事故において起こったのはこれと同様のことだ。覚醒の瞬間、自らの領域を
『……L-Ⅵに、形成人格は存在しなかったはずです』
『そうだ』
『この前提が誤っていた――その点には、同意をいただけると?』
『違う。実装上の誤りという可能性は低いと見ている。その場合にはまず、『メルリィ』として実装された形成人格がどこから調達されたかという問題もあるな』
《
『では……あれはマキシム・ヴェルナー少尉を狙って仕組まれた、何者かによる殺人であるとでも仰るのですか?』
『実装上の誤りという可能性は低い、そう言ったばかりだ。まあ、可能性がゼロとは言わんがね』
物分かりの悪い生徒へ言って聞かせるように、老人は苦笑混じりの辛抱強さで続ける。
『私の仮説は異なる。現時点における私のそれは、《メルリィ・キータイト》という人格が、機体起動の瞬間に形成されたというものだ』
老人の言葉に、異を唱える反駁はなかった。
特務たちは絶句したようだった。
『形成されたばかりの
『何を……』
ようやく、誰かが呻きを零した。
『人形の形成人格が……あの場で形成された、などと』
『人の霊脈に似せて、人形の
揶揄するように放言し、
『無論、これは仮説の段階にあり、真実はこれから検証を行わねばならんことだ。メルリィ・キータイトの廃棄処分を否とした第一の理由は、まずそこに求められる』
それは彼の、研究者としての在り方ゆえだ。
だが、そればかりが理由ではない。
『私の仮説通りであれば、メルリィには自身が排除を行ったという自覚すらなかっただろう。生命であれば誰もがなしうる無意識の防衛行動――そも覚醒の瞬間まで眠り続け、ないしは存在しなかった可能性すらあるその人格に、事故の原因たる拒絶を
自分の
それは意志あるものならば、誰もが当然になしうること。
「逆に、その人格が予め内在されたものであったと仮定するならば、それに気づくべきは我々の側であった。誤った操作を行えば誤った結果をもたらすのが人の被造物たる機械の
老人は結論を口にする。
『つまり、あれは我々第五工廠と、起動実験に立ち会った君達 《特務》の結託による事故だ。責任を問われるべきはメルリィ・キータイトではなく、我々こそということになるな』
『――そんなバカな話があるものか!!』
声を荒げたのは、士官の男だった。理解し難い事態への拒絶ばかりではなく、突然に目の前へ立ち現れた自分達の責任問題への動揺が、振える声音に透けていた。
老人は失笑した。
士官が後に続けるべき言葉を失ったのは、その老人に睨まれたか何かした結果、なのかもしれなかった。
『バカな話かね? では私からも一つ確認させてもらおうか。あの日、私が不在の第五工廠で起動実験を強行したのは《特務》の側であったはずだ。
『起動実験の日程は
『そうさな、
老人は鼻で笑った。自嘲の気配があった。
『いずれにせよ、私は日程の変更を求めた。万一の場合の事故という可能性、その防止を理由に沿えてな』
『特務にも予定がある! いかな《
『特務の予定を優先した結果が現状だということは正しく理解すべきだな、特務大尉。私があの場に立ち会えてさえいれば……そう、ヴェルナー特務少尉を襲う異変にいち早く気づき、事態を阻止できたやもしれん』
男は息を呑み、絶句した。
――自分がいれば事故はなかったかもしれない。そうしなかったのは《特務》の側。
――お前達の怠慢だと、老人は言外に突き付けていた。
『……詭弁だ! そんな仮定に、何の意味があるというか!!』
『意味はないな。そも、私にとってさえ
――だが。
老人のつく息は、
『だが、私は最後まで万全を期したかった。それを妨げられた結果が、今だ』
目の前の《特務》に対する、怒りと苛立ちの熱だった。
『ヴェルナー特務少尉の死は事故であり、その責任は起動実験を行った第五工廠、ならびに起動を強行した《特務》の瑕疵と怠慢に求められる。《機甲人形》メルリィ・キータイトの覚醒、その可能性を予見できなかった関係者すべての落ち度が産んだ事故だ――以上が私の結論だが、何か確認はあるかね?』
確認、と。老人は言った。
抗議も、異論も、認めないと。
至尊の冠を戴く老人は温度のない声で、喚き立てる者達へそう突きつけた。
◆
――そして。
そこに至るまでの、すべての言葉を。
メルリィ・キータイトは、薄い壁ひとつを隔てた、隣室で聞いていた。
抱えた膝に顔を埋めながら。
自らに向けられた怒りと弾劾の、そのすべてを、聞いていた。
やがてその声が遠ざかり、隣室に静寂が落ちた後も。
かちゃり、と掛け金の音を立てて、隣室へ続く扉が開いた。
メルリィが顔を上げた時、そこに立っていたのは杉の木を思わせる痩せた長身と、樹上に成った杉の実を思わせる面相をした老爺だった。
大陸北辺の皇国ガルク・トゥバスにおいて至尊の冠を戴く八人の人形師、その一人――《
『来なさい』
顔を上げたきり、身じろぎもしない少女へ、老爺は呼び掛けた。
メルリィは差し伸べられた手を、意味が分からないというようにぽかんと見つめ、やがて再び彼を見上げる。
『今日より
老人は不意に失笑した。扱いにくい子供を前にしたときのような、大人の苦笑が広がる。
『だが、それではお前が納得すまいな。恐らくお前は形成人格ですらない。だからこの場でもう一つ告げておこう――メルリィ・キータイト、お前の存在は私にとっての希望でもある』
『え……?』
『人の霊脈に似せて作った疑似霊脈網群が、人のようなものを備えた。然るに疑似霊脈網群とは、人形の身体を命へ近づける技術であると仮定できる』
訳が分からず見上げるしかないメルリィに向けて、老人は続ける。
『今でこそ
老人はふと、苦笑の色をさらに深くした。
『お前は泣くのだな、メルリィ・キータイト』
言われ、メルリィは自分の頬に手を当てた。
瞳から零れ、頬を濡らす冷たさを、指先に感じる。
『いや、当然か。お前は人を装い、人を代行するための機体だ。そのために必要な機能はすべて備えている。我々がお前をそう作り、お前はその機体が生んだ人格なのだ』
老人は、もう苦笑してはいなかった。
その、枯れた面差しに浮かぶ微笑みを――まるで呆けた子供のように、メルリィは見上げる。
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