39.これはお風呂に入りたくないのでおねえちゃんの説得を試みる、とある《主人公》の物語である。【後編】
「えー……っと、ね。おはなしがずれてしまいましたが。ユイリィおねえちゃん、ここに学校のクラスで取ってきたアンケートがあります!」
「うん」
仕切り直した。
ユイリィはニコニコしながら、楽しそうにランディの話を聞いている。
「クラスメイト三十一人とホーリエ先生と、あとお隣のアトリおばさんにも聞いてきました! おうちにお風呂があったのは、三十三人のなかでたったの七人だけでした!」
「全体の二十一パーセントってところだね」
ふむふむと、ユイリィは頷く。
母数は少ないけど――と小さくつぶやいたのは、ランディの耳までは届かなかった。
「それじゃあランディちゃん。他の二十五人のおうちだと、お風呂はいったいどうしてるの?」
「そこです! 問題は!」
ランディはもったいぶりつつ、声を大きくする。
「ユイリィおねえちゃん、銭湯って知ってる?」
「ううん、知らない」
「銭湯っていうのはねー、えっと……広いお風呂があるところで、お金を払って入るんだけど」
「ああ。有料の公衆浴場があるんだね」
「そう。でね? えーっと……トスカの銭湯ってパン屋さんがやってるんだよね」
「そうなの? どうして?」
「パン屋さんってたくさんパンを焼くから、おっきい
なので、パン屋のおかみさんは銭湯のおかみさんでもある。
そうした訳で、トスカではパン屋でたくさん買い物をすると無料の入浴券がもらえるらしい。
「らしい」としか言えないのは、ランディが生まれてこの方一度も銭湯に行ったことがないせいだ。
いつも家のお風呂を使うし、何かの理由でお風呂が使えないときにはフリスの薬屋か、叔父の宿屋である《黄金の林檎》亭で貰い湯をしていた。なので、パン屋さんのところの銭湯には一度も行ったことがない。
パン屋さんで買い物したとき貰えるチケットをいったいどうしているんだろうと、以前に気になって兄のシオンに訊ねてみたことがあったのだが。
曰く、
『いや、ぜんぶ人にあげちゃってるなぁ……どうせ使わないし』
――以上。
ランディを日々おうちのお風呂へ放り込むことに力を尽くしていた兄にとって、銭湯の無料券は文字通り無用の長物であったらしい。
「でも、それだとたいへんだね。あんまりパンを焼かない日はお湯もあんまりわかせないし、それじゃあ確かに毎日入るのはむずかしいね」
「むかしはそうだったんだけど、今は役場からお金をもらって毎日やるようにしてるんだって。でもやっぱり銭湯だからお金かかるし、家から歩いていかないとだしで、毎日お風呂入ってるとこはあんまりないみたい」
ここまでが第一段階。ランディはさらに畳みかかる。
「それにね? それにさ、うちで毎日お風呂わかすのってたいへんでしょ? おふろいっぱいに水いれなきゃいけないし、お湯をわかすのに
幼馴染のユーティスが前にどこかで言っていた気がする頭がよさそうな単語を引用して、賢い感じに話をまとめる。
「だからね? ぼくらもお風呂は銭湯に行くとかさ。そうじゃなくても、毎日わかすなんてたいへんなことはしないでさ」
「お水を運ぶのはそんなたいへんじゃないよ。ユイリィ、力あるし」
「えっ?」
ランディの論理が、根底から引っ繰り返された。一瞬で。
ユイリィは「ふんぬ」と力こぶを作るポーズで、力強さをアピールする。
「え、と……もちろん水はそうかもだけど! お湯をわかすのは」
「そっちもへーき! いい機会だし、今日はランディちゃんにも見せたげるね!」
ユイリィは弾む足取りで浴室へ入る。ランディはいくぶん渋々ながらも後に続く。
木製の湯船には井戸から汲んできたばかりの水がたっぷり入っている。
その隣にある鉄の釜――石組みの中に埋まった、湯船よりふたまわりほど小さなそれは湯を沸かすためのもので、外の焚口から火を入れて風呂を焚く構造になっている。
そこで沸かした湯を水を張った湯船に移し、ちょうどいい温度まで上げるのだ。
だが、しかし。
ランディにとってそのちいさな釜は、これまで一度も使われたのを見たことがない謎の存在だった。それは、なぜか。
「ご覧あれですランディちゃん! これからユイリィは、ぱぱっとお風呂を沸かしてみせます!」
ユイリィは芝居がかった調子で宣言すると、ほっそりした右腕を、肘のあたりまで湯船に張った水の中に沈めた。
ランディが眉をひそめて見守る中、ユイリィは囁くようにこう告げた。
「――《
――じゃっ!!!
鼓膜をつんざく異音と共に、湯船から膨大な湯気が立ち上った。
焼けた鉄板に水を撒いたような強烈な音と猛烈な湿気に、ランディは驚き竦み上がる。
しかし、それも一瞬。
ユイリィがぐるぐると腕を回して水面をかき回すと、肌を撫でる熱風も重たい蒸気も程なく『いつもの』お風呂場と変わらないくらいになった。
ざばざばとトドメのように湯船の中へその細腕をくぐらせてから、ユイリィはにんまりと満足げに口の端を吊り上げる。
「水温四十度。かんぺき」
ふふん、と鼻を鳴らし、首をねじって振り返るユイリィ。
ランディは我に返った。
「今の、アンフィスバエナをやっつけたときのやつじゃないの!?」
喚いた。
湯船の水を一瞬でお湯に変えたのは、あろうことか以前に凶悪な魔物の頭をまるごと吹っ飛ばしたことのある一撃だった。
「今のっ……えぇ!? それ、ユイリィおねえちゃんのすごい武器とかそういうのじゃかった!? いいのそれってお風呂わかすのなんかに使って!!」
「いいと思うよ。シオンだってお風呂沸かすときは《炎》の魔法使ってたみたいだし」
「そんなことしてたの!?」
衝撃の事実だった。
「えっ? いや、じゃなくて……危なくない? さっきみたいなの使って、魔物みたいにおフロ吹っ飛ばしちゃったりしない!?」
「《
言いまわしが若干むずかしいが、言いたいことは何となくわかった。というより、ユイリィは事あるごとにこういう言いまわしをするので、ランディもちょっと慣れてきた。
「……こわしたり、あっためたり、ユイリィおねえちゃんが決められるってこと?」
「そう!」
話が通じたからか、ユイリィはぱぁっと表情を明るくして、嬉しそうだった。
いや、しかし、だとしても――ユイリィはなんでもないことみたいに気楽に言うが、ランディの脳裏をよぎるのはやはり《
あれを使ってお風呂を沸かしているなんていうのは、こう……うまく言えないのだけど、ものすごく、そぐわない感じがする。
薪は使ってないけれど、なんだか別の意味でものすごくもったいない。
「ユイリィはシオンがやってたことを真似してるだけだからね。井戸からお水を運ぶのも、使える
ユイリィは一拍置いて、少しだけ考え込む素振りを見せた。
「ユイリィおねえちゃん?」
「これはね、たぶんだけど……」
ユイリィはひとりごちるように呟き、再び眉根を寄せて「うーん」と考え込む。
「あー、でも……これ、ランディちゃんに話しちゃっていいのかなぁ……?」
「なに!? なんなのユイリィおねえちゃん、すっごい気になる!!」
身を乗り出すランディをちらと一瞥し、ユイリィはあらためて彼と正面から向かい合った。
「えーっと、ね? これはほんとうに『たぶん』なんだけど……シオンにとってのこれは、コストじゃなかったんじゃないかなって、ユイリィは思ったの」
「……どういうこと?」
「シオンは冒険に出てない間も冒険者としての鍛錬を続けてた。それはランディちゃんも知ってるよね?」
「ぅえ? うん……」
ランディは頷く。
知ってるも何も。それは以前、他ならぬ目の前のユイリィから教えてもらったことだ。
「ランディちゃんが挙げた『コスト』は、準備にかける労力。ここからはユイリィの推測になっちゃうけど――シオンにとってそのコストとは、自分の能力を保つための『訓練』だったんじゃないかな?」
目をぱちくりさせるランディ。
今度は彼が、ユイリィの言葉に聞き入る番だった。
膝を折ってランディと視線の高さを合わせ――少しだけ見上げる角度で視線を合わせながら、ユイリィは続ける。
「水運びは足腰と体幹を鍛える訓練――冒険者って必要に応じた荷物を背負って、時には何時間も歩かなきゃいけないお仕事だからね。体力はあればあるだけいいし、疲れにくい効率的な運び方の研究もしたほうがいいよね。
毎日欠かさずやることなら、習慣づけるのも楽だし。訓練でいちばんたいへんなのは、さぼったりしないで毎日やること、だからね」
「………………………」
ランディは無言で思い返す。
いろいろと気まずい心当たりがあった。毎日続かなくてさぼったこと。
「お風呂をわかすのも同じ。必要な熱量を与える魔術制御の訓練かな。
ランディちゃんも言ってたけど、不必要に大きな熱量を放ったら、お風呂場を壊しちゃったり火事になっちゃったりするかもしれない。逆に被害を恐れて過小な熱量しか扱えないなら、じゅうぶんな温度にまでお湯をあたためられないかも……これは時間をかければ目的自体は達成できるかもだけど、効率はよくないよね。これもランディちゃんの言うとおり」
ユイリィの語るひとことひとことに、ランディは完全に聞き入っていた。
吸い込まれそうな若草色の瞳から目が離せなくて、頭がくらくらした。
「魔法を扱うときにいちばんたいへんなのは、それを正しく『制御』すること――ユイリィは魔法は使えないけど、そんなおはなしを聞いたことはあるの。『世界を動かす、見えざる手を伸ばす』、必要なものを、必要なだけ、必要な形で――それが、魔法の、正しい『在り方』なんだって」
「……ありかた」
唸るランディにコクンと頷き、ユイリィはそこでいったん言葉を切った。
小鳥のように首をかしげて、問いかける。
「ランディちゃん、学校で魔法は習ってたりする?」
「えっ!? う、ううん、まだ。先生は来月からだって……」
「そっかぁ。じゃあこれからいっぱい練習しないとなんだね。冒険者になるんなら、専門の魔術士じゃなくても魔法は使えた方が便利だし、かっこいいもの!」
うんうんと何度も頷き、ふとあらぬ方を見る。
「シオンにとっては訓練の一環――でも、確かにユイリィにとってだけなら純粋な『コスト』だよね。
ユイリィはランディのお姉ちゃんだし、コストを惜しむつもりなんかこれっぽっちもないけれど、でもユイリィはシオンみたいな訓練しないし……だから外部化した方が合理的だって判断は、そうなのかも。ランディちゃんはとっても賢いね」
「えっ? えと、あの……う、うん?」
どういう訳か、いつもより大人びた――シオンや、ほかの『大人』と話すときの横顔でひとりごちるユイリィの姿に、ランディは胸の奥がざわざわするのを自覚せずにいられなかった。
それは、不安だった。
『これでいいのか?』という、不安だった。
たぶんだけど、ユイリィはランディの説得を認めてくれる。お風呂の回数を減らして、もしかしたらこれからは銭湯に行くことになるかもしれない。
いや、それでいい。それはそれでいい。
元よりそれこそが、ランディの目論んでいた結果なのだ。
だが――
――本当にそれでいいのか?
「あの」
「うん?」
ランディは、ユイリィの服の裾を掴んで止めていた。
頭の中がぐるぐるごわごわ混乱しているのを自覚しながら、それでも、おずおずと問いかける。
「シオンにいちゃんが、お風呂の支度で訓練してたって……それ、ほんとうにほんとう?」
「ほんとうのことは、シオンが帰ってきたときに訊いてみないとわからないかな。きちんと訊いて確かめた訳じゃないから」
ユイリィは口の端を緩め、ちいさく微笑む。
「でもユイリィはそう推測してる。これは訓練のひとつだった――それが正解なんだって、自信があるよ」
「ふ……ふーん……?」
ランディは揺れていた。
主に、『訓練』ということばの響きの、カッコよさのせいで。
それは、いちばん強くていちばんカッコイイ、正義の冒険者である兄・シオンがしていた『訓練』――そしてランディは、大きくなったら冒険者になりたいと思っているのだ。
兄と同じ『訓練』の機会が、手の届くところに転がっている。
だが、その機会は失われる。このまま――『説得』に、成功すれば。
故に。
本当に自分のやろうとしていることが正しいのか。
ランディは既に、その正否を定められなくなっていた。
そして何よりも、その時点で――
もはやランディの敗北は、決定的に明らかなのだった。
◆
「聞いたわよぉ、ランディ」
ある日の学校。午前の授業が終わってすぐのことだった。
従姉妹のラフィだった。頭の左右で括ったツインテールのブロンドを揺らしながらやってきた彼女は、意地悪そうなニヤニヤ笑いを顔いっぱいに張りつけて、ランディを見下ろしている。
「あんた、最近『いい子』してるんですってぇ? おうちのお手伝いいっぱいしちゃってさ」
ランディの顔を覗き込むようにしてくるラフィ。ものすごく楽しそうで、ものすごく意地の悪い顔をしていた。
出元がどこかは分からないが、おそらく叔母さんにまで話が伝わったのだろう。
「いったいどういう風の吹き回しよ? あんたそういうキャラじゃなかったでしょ」
ランディは席に座ったまま、そんな従姉妹を横目に一瞥する。そして、
かすかに口の端を持ち上げて、「フッ」と笑った。
「な……ちょ、っ。なによあんた、その顔っ! ランディのくせになまいき!!」
「フフ……」
そう――喚くばかりのラフィは知らないのだ。
知らないからこそ、そんな風に言える。具体的には『訓練』の奥深さとか精妙さとかそんな感じのものを。
「ラフィも知りたい?」
「は? なにその顔むかつく。言いたいことあんならもったいぶってないでさっさと話しなさいってのよ!」
「冒険者探偵ドニー・ポワソンもこう言っていました。それがどんなにささやかな物事であったとしても、『知らぬ』よりは『知る』ほうが、『できない』よりも『できる』ことの方が、千倍も一万倍も優れた、尊いことであるのです……」
「……なに。ほんとどうしたのランディ。今のあんたちょっと怖いんだけど」
ふ――と、ランディは笑った。この短時間で三度目である。
乞われたからには仕方あるまい。先達として後進へ伝えねばなるまい。
そう、尊敬すべき冒険者探偵ドニー・ポワソン(※フィクションの登場人物です)のように!
なぜならば、そう。ランディは既に一週間も『訓練』を重ねているのだから。
つまりはその一週間分、ランディは冒険者としてラフィより前を進んでしまっているのだから。確実に。
『できない』より『できる』ことの方が尊い。
即ち今のランディは、一週間分すごいのだ。
「これはね、ユイリィおねえちゃんから聞いた話なんだけど――」
ランディは静かに語った。
最初こそ小馬鹿にしたみたいにふんぞり返っていたラフィだが、いつしか真剣な顔でその言葉に聞き入っていた。
周りのクラスメイトもおしゃべりをやめて、耳をそばだてていた。
なぜならば、そう。
不世出の冒険者、《雷光の騎士》シオン・ウィナザードの威名は、冒険者を目指すすべての子供たちの憧れだったから――
――かくして。
トスカの子供たちの間では一時の間、『訓練』的なものが流行った。
より具体的には、おうちのお手伝い的なものとかその辺りのものが。
だが、悲しいかな。
そのほとんどはそれから半月も続かず、流行はあっという間に霧散した。
――そして、
シオン・ウィナザードの『訓練』にまつわる真相は、彼らの誰一人として、未だ知らないまま、一時の流行ごとその存在を忘れ去られていったのだった。
【これはお風呂に(略)、とある《主人公》の物語である。・了】
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