これはお風呂に入りたくないのでおねえちゃんの説得を試みる、とある《主人公》の物語である。

38.これはお風呂に入りたくないのでおねえちゃんの説得を試みる、とある《主人公》の物語である。【前編】


 その年八歳になるランディは、冒険者である兄を心から尊敬していた。

 兄のシオンは不世出の冒険者にして、王権より《雷光の騎士》の異名を授かった稀代の剣士である。


 ルクテシア王国第三の都市コートフェルの郊外に位置するちいさな町、トスカを襲った危機――本来であれば迷宮の深奥にのみ現れるはずの魔獣、《双頭蛇竜アンフィスバエナ》を討ち倒した兄は、その危険な魔物を不正に運び出した元凶たる何者かを追って、仲間達とともに旅立った。


 ランディは兄を心から尊敬していた。


 なぜならば、シオンはあらゆる困難が待ち受ける冒険へ意気揚々と挑み、悪を懲らして人々を助ける、まさに冒険小説に描かれるがごとき正義の冒険者だからである――!


 故に。

 ランディは兄の旅立ちを弟としてしっかり見送り、その先行きの無事を祈った。


 そして現在。

 ランディは一人の『姉』と暮らしていた。


 厳密に言えば、ランディの『姉』を名乗る機械仕掛けの人形――つい先日にランディの手で再起動を果たしたばかりの《機甲人形オートマタ》の少女、ユイリィ・クォーツとである。


 見た目の歳頃なら齢十五かそこら。

 長い三つ編みに結わえた翡翠色の髪とぱっちりした若草色の瞳、白磁の肌を備えた、一見、華奢にして可憐な少女である。


 だが彼女は、そのちいさな体には巨大な魔物すら一撃必倒のもとに打ち倒す力と、日々の様々な雑事を遺漏なくこなしてみせる技術を兼ね備えて人間にかしずく、万能にして優秀な《人形ドール》であった。


 目下、彼女はランディの『姉』を自称している。

 そして、旅立った兄シオンに代わりランディの養育を代行する身の上であった。

 とりあえず、「ユイリィおねえちゃんが『姉』って言ってるんだから、そういうことでいいのかな」――という感じで、ランディはおおむね現状を納得していた。


 事の始まりは、そんなランディとユイリィの二人暮らしが始まって数日が過ぎた、ある夜のことである。



「ランディちゃーん、お風呂くめたよー」


「……はぁい」


 いつも通り湯船の支度を整えたユイリィの呼び掛けに応えて、ランディはしぶしぶ宿題の手を止めた。


 ランディはお風呂があまり好きではなかった。

 もっと正直に言えば、嫌いだった。


 なにせ、あったまるまでつかってなきゃだめだと言われてお湯の中でじっとしてなきゃいけない。髪洗い粉は目に入ると染みて痛い。しかもユイリィは髪が長いから洗うのに時間がかかる――そうすると狭いお風呂場に長くいなきゃいけない。暑いし喉はかわくしやることがなくて退屈だし、いいことがひとつもない。これならやらなきゃいけない範囲がしっかり分かっていて、時間の配分も自由に決められる学校の宿題の方がまだマシだと、ランディは日々心の底から嘆いていた。

 もちろん、お風呂に入って体を綺麗にしないといけない、という理屈はわからないではないのだけど。


 いや、ダメだ。

 それにしたってあまりに割に合わない。

 だいたい体を綺麗にするだけならそんな几帳面に毎日入らなくたって、たまに入るくらいでいいじゃんか。


「ランディちゃーん」


「はぁーい。聞こえてるっ! 行く行くー!」


 浴室に続く脱衣所からひょこりと顔を出すユイリィへ雑に答えながら、宿題の問題集を閉じてノートや筆記用具ごとテーブルの隅に片づける。

 脱衣所へと踵を返すユイリィの背中を横目に伺いながら、


 その時、不意にランディの脳裏をよぎったのはひとつの予感だった。

 待てよ? よく考えろ、これは――


(――これは、チャンスなのでは?)


 ランディはお風呂が嫌いだった。

 しかしランディがどれだけ真摯に訴えても、兄のシオンはいつもへりくつをこねて言を左右にするばかりで、お風呂に入りたくないというランディの抗議を一切受けつけてくれなかった。


 けれど――これがユイリィなら?

 シオンが正義の冒険者として旅立った今、ランディと一緒に暮らしている『おねえちゃん』の彼女はどうか。


 《機甲人形オートマタ》である彼女はランディが困っているとき何度もその力を貸して、ランディを支えてくれた。もちろん彼女はシオンの代わりにランディの面倒を見てくれているおねえさんなのだし、シオンの意向を完全に無視することなんてできないだろうけど。だとしても、


(お風呂の回数を減らすくらいなら……できるのでは?)


 毎日でなくて、二日に一回、いや三日に一回。

 汚れのひどいときくらいはまあ妥協するにしても――毎日は面倒くさいしいいことがないから入りたくないお風呂を、それくらいの回数までなら、妥協してもらうことができるのでは……?


「ランディちゃーん?」


「ごめん! 今行くからー!」


 ――焦っちゃだめだ。

 ランディは己に言い聞かせた。


 さすがのユイリィでも、単に入りたくないから嫌だと訴えるだけでは、さすがにランディの言い分に耳を傾けてなどくれまい。あと、ワガママだと思われるのも嫌だし。


 ただただランディの言い分を訴えるだけでは、やさしい彼女を困らせるだけだ。

 つまるところ、きちんと筋道を考えて、情に訴えるだけではない『説得』の形式を整えなければいけない。

 なぜならば、そう。

 ――ランディの脳裏へ、瞼に浮かぶ景色と共に蘇る力強い言葉がある。


『――いいですかレディ。そうやって子供のように泣くのはやめて、これから私の言うことをよくお聞きなさい』


『世の中には、ただ感情のまま子供のように泣き喚くだけでは押し通せない、堅牢な壁がいくつもある。それは常識、慣例、法律、制度、権威――世界を整然と組み上げるありとあらゆる社会の仕組み。あなたのひとりよがりなワガママが許されるのは、それらを内包した人々の寛容の許す限りにおいてでしかない』


『即ち、あなたにこれまで手にしてきたと誇るそれらは、彼らが捨扶持すてぶちのように投げてよこす慈悲のお恵みでしかなかった。檻を挟んで遠巻きにされながら、観客から戯れに餌を投げ与えられるけだものと、何ら変わるものではない。

 ――この意味がわかりますか、レディ。ひとりの淑女としてあなたが勝ち得たものなど、これまでひとつとして存在しなかったのです。ですが』


とは、そうしたものではありません。知性とは堅牢なる氷壁を新たな光に晒し、明日の知見と常識を形と変えるもの。知性とは堅牢な陣地を辛抱強くこじ開け、そこに新たな境界を引き直すもの。賞賛と敬意、妥協と融和をこそ友としながら、目前を閉ざす障害の只中に新たな道を切り開くもの。それこそが知性なのです、レディ』


 ――感情は軋轢を生みながらわがままを押し通す。

 ――知性は水のように染み渡って人生を切り開く力となる。


 『冒険者探偵ドニー・ポワソンの探求』にもそう書いてあった。ドニー・ポワソンはランディの中で、シオンとその仲間達の次かその次くらいに憧れの冒険者だった。


 必要なのは、そう――知性だ。

 ユイリィを説得するのだ。


 このチャンスを必ずものにしてみせる。

 ランディはそれを、心の中のドニー・ポワソンに誓うのだった。



 大陸より東方。

 数百とも数千ともいわれる数多の島嶼が固まり連なるその海域を、《多島海アースシー》と人は呼ぶ。


 古の時代の終わり、かつて世界に君臨したとされる旧人類――《真人》たちが此処ならぬ果ての異世界へ旅立つとき、彼らはその最後の時を豊かな自然はぐくむこの多島海の島々に降り立ち過ごし、はるかな旅を前にその翼を休めたと、旧き伝承は伝えている。


 伝承の真偽は定かでない。

 しかしその物語を裏付けるように、多島海に連なる島々は旧文明の痕跡――はるかなるいにしえの時代に真人たちが世界へ置き去った遺産、その宝庫であった。


 真人の遺跡は遠き過去の時代に失われた魔法文明を収めた蔵であり、同時にそれらは危険をその胎にはらんだ迷宮ダンジョンでもあった。

 故にこの地は、冒険者の天地。

 襲い来る危難を払い、暗がりに潜む魔物を討ち、迷宮を踏破して古の宝と名誉を持ち帰る。


 ある者は夢を。

 ある者は探求を。

 ある者は一獲千金の未来を求めて。


 多島海には冒険者が集い、己が栄光と冒険譚を誇らしく歌い上げ――故にこの地で生まれた子供なら、誰しも一度は冒険者となって世界を渡る夢を見る。

 命知らずの彼らを支え、迷宮踏破を推し進める《諸王立冒険者連盟機構》の組織をもって、未知への探求と冒険を奨励する多島海アースシーは、故にこそ、冒険者の天地と呼ばれて久しい。


 多島海アースシー諸王国の一つにして、多島海最大のルクテシア島に版図を広げる王国――大陸にまでその支部を伸ばす《諸王立冒険者連盟機構》盟主国ルクテシア。

 ランディはこの国で生まれ育った、そしてこの国では誰しもそうであるように未来の冒険と栄光に憧れる、ごくごくありふれた八歳の子供――その、一人だった。




「毎日お風呂ってぜいたくじゃないかと思うんだ」



 ある日の夕方。

 唐突にランディは切り出したその言葉に、ユイリィは目をぱちくりさせた。


「んぅ?」


「だから、ぜいたくなんじゃないかなって思うんだよね。毎日うちのお風呂でお湯を沸かして、毎日お風呂に入るのって」


 小鳥のようにこきゅっと首をかしげるユイリィに、ランディは気取った口ぶりで言う。

 ユイリィは小さく笑うと、


「わかしてすぐにお風呂入ったらべつにもったいなくないと思うよ。へいきへいき」


 ――話が終わってしまった。

 いや、そうじゃなくて。ここで終わらせてはいけない。


「……ええと、そうじゃなくて。もっと根本的な感じの」


「ランディちゃん、シオンみたいなことゆってる」


「え。ほんと?」


 思わず、ぱっと表情が明るくなった。ランディにとって、兄・シオンはこの世で一番に尊敬する冒険者だ。


 ――いやいや、そうじゃなくて。

 今はそんなところで喜んでる場合じゃなくて。


「そもそもだよ、ユイリィおねえちゃん。家風呂そのものがゼイタクなんじゃないかと思うんだよね、ぼくは」


「そうなの?」


 ユイリィは再び――今度は反対側に首をかしげる。

 ちいさな肩を縮めるようにしながらそんな風にしているユイリィは、翡翠色の髪がふわっとしているせいもあってか本当にちょっと小鳥っぽかった。


「ユイリィはまだこの国ルクテシアのことそんな詳しくないし、湯船につかるようになったのもランディちゃんのお姉ちゃんになってからだけど……ここは湿度が高いから、同じだけ動いてもそのぶん汗をかきやすいし、清潔さを保つ意味でこまめな入浴習慣は合理的だと思ったけどな」


 またしてもするりと話に割り込まれ、ランディは続ける言葉に詰まった。

 いや、それよりもひとつ、聞き捨てならない内容が混ざっていたような気がする。


「……ユイリィおねえちゃんの住んでたとこって、お風呂ないの?」


 それは羨ましい――ような。さすがにちょっとまずいような……

 いや、ユイリィは《機甲人形オートマタ》だし、お風呂とかそういうのはあんまり気にしなくてもいいんだろうか。確か前にもそんなこと言ってたような覚えもあるし。

 ユイリィは「あはは」と弾けるような声を立てて笑った。


「ううん、はなかったなぁってだけ。ユイリィの生まれた国だと、お風呂って洗い場と掛け湯と……あとは蒸風呂サウナがあるくらいだったから」


「さう、何?」


「サウナ。こう……熱くした石に水をかけてね、部屋の中を熱い蒸気でいっぱいにするの」


「なにその地獄みたいなの!?」


 ランディは引いた。ランディが知ってるどんなお風呂より、ぶっちぎりでひどい環境である。


 そんな蒸し暑さしかない部屋になんて、十秒も入っていられる気がしない。

 窒息の未来しか見えない!


「地獄なんてことないよぉ。ほんと言うとユイリィは入ったことないんだけど……気持ちいいみたいだよ? サウナの部屋でいっぱい汗をかいた後、冷たい水風呂にどぼーんってするとね? 『ととのう』んだって」


「それ臨死体験とかじゃなくて?」


「わかんないけど、ランディちゃんも一度やってみない? 準備はユイリィがするからさ」


「やだ! ぜったいやだ!! うちのお風呂場でそれやったらもう二度とお風呂入んないからね!?」


 ランディは青褪め、生まれて初めて心の底から恐怖した!!

 ああ、なんと恐ろしい国だろう! そんな狂ったお風呂がもてはやされているだなんて!!


 ユイリィの生まれた国が雪がたくさん降る国だと聞いたときは――大きくなったら一度行ってみたいと、夢に見るほど憧れたものだったが。

 けど、知りたくなかった。夢に見るほど憧れたユイリィの故郷が、まさかそんな恐ろしい国だったなんて事実は――!


(………………いや、そうじゃなくて)


 そう。そうではない。今は衝撃的な事実を前に怯んでいるときではない。


 というか、また話が違う方向に脱線している気がする。

 ランディは気を取り直し、心を構え直して、あらためてユイリィと向かい合った。


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