間章 おおむね他愛ない、わたしたちの日々のできごと
ある日、人形少女が《着替え》をもらうだけの話
35.ある日、人形少女が《着替え》をもらうだけの話【前編】
最初の目覚めの日。
青褪めた光を放つ液体で満たされた円柱型のカプセル。その中で、彼女は目覚めた。
顎鬚を長く伸ばし、銀縁の片眼鏡をかけた、その枯木のように細いその老爺が何者であるか――少女は生まれながらにして識っていた。
「問う、おまえは何者か。この儂に教えておくれ」
『当機は、GTMM――』
老爺は首を横に振って答えを遮る。彼女は口を閉じた。
「そうではない。儂はおまえの『名』を問うたのだ――お前の名を教えておくれ」
検索。乏しい記録と
『――ユイリィ。ユイリィ・クォーツ』
「ありがとう、ユイリィ。そう、おまえの名はユイリィ・クォーツだ」
老人は微笑み、頷く。
「もう一つ聞かせておくれ。儂は『何』だ? ――おまえは既に知っている筈だ、ユイリィ」
『《
ユイリィ・クォーツの製作者。北辺の強国ガルク・トゥバスに冠たる八人の《
――いいや、否。否。それは正ではあるが、しかし否。
老爺の否定よりも早く、奥底から訴える声がする。
もう一度、ユイリィは相応しい回答を導出する。胸のうちにそれを思い浮かべた瞬間、それをかけがえのない幸いだと、少女の『心』は感じた。
歓喜の吐息をつくように――少女は、老爺を呼ぶ。
「……おじーちゃん……」
老爺は微笑んだ。
深い皺を刻んで古木のようにくすんだ頬に、一筋の涙が伝うのを見た。
……………………。
…………………………。
◆
玄関を叩く、ノックの音。
ランディはお手伝いの手を止めて、お客さんを迎えに出る。
「こんにちは、ランディくん」
「こんにちは、アトリおばさん!」
――お隣のアトリおばさんがランディの家を訪ねてきたのは、学校がお休みの日曜日。
緑深い中春。《深緑の月》の半ばを過ぎた、あるうららかな日曜のことだった。
お隣のアトリおばさんは町の役場で働いているヘイズルおじさんの奥さんで、時々食べ物なんかをおすそ分けしてくれるやさしいおばさんだ。
昔はフリスがそうしてくれていたみたいにお夕飯を差し入れしてくれていたりもしたらしいのだけど、そちらのほうはランディには覚えがない。夕飯を持ってきてくれていたのはずっとフリスだったと記憶している。
なので、いつだったかに真っ正直に訊ねてみたら(兄のシオンには叱られた)、アトリおばさんは「あらあら」とおっとり頬に手を当てて微笑みながら、
「覚えてないかぁ。でもそうよねぇ、まだシオンくんがこっちに戻ってきたばかりの頃のことだもの」
と、答えてくれて、ランディもそれでおおむね納得いったものだった。
だって、そうだ。なにせランディはその頃まだ四歳の子供だったし、記憶もいろいろおぼつかない。きっとすっかり忘れてしまっているか、そうでなければフリスが夕飯を持ってきてくれていたのとごちゃまぜになって、きちんと思い出せなくなっているのだろうと納得した。
――閑話休題。
その日のアトリおばさんは、木製の大きな箱を抱えていた。
何だろう? とランディは訝る。
アトリおばさんはこれまでも、食べ物のおすそわけや他にも細々したものを分けてくれたりしていたけれど(兄のシオンが言うところによると、「俺の行き届かないところを助けてもらってるんだよ」とのことだった)今日の差し入れはいつになく大きい。
あと、おばさんの表情は心なしかいつもよりさらにニコニコしていて、なんだかとても楽しそうだった。
「んと。今日はどういったご
居住まいを正して訊ねるランディに、アトリおばさんは「あらあら」と相好を崩す。
「その喋り方、シオンくんとそっくり。ええとね、ユイリィちゃんはご在宅ですか?」
「ユイリィおねえちゃんですか? いますけど……」
家の奥を振り返る。確か今は、裏で洗濯物を干しているはずだ。朝ごはんの食器の片付けも終わったし、手伝いに行こうかなと思っていた矢先の、アトリおばさんの来訪だった。
「ユイリィおねえちゃんにご用事なら、呼んできましょうか? 洗濯もの干してるから、ちょっと時間かかるかもですけど」
「そうね、お願いしようかしら。あ、先におうちに上がらせてもらってもいい?」
「どうぞ。おあがりください」
「あらあら、ありがとう。お邪魔します」
うふふ、と鈴を転がすみたいな笑い声を立てるアトリおばさんを家に上げて、ランディは居間兼食堂のいちばん広い部屋へと案内する。
「そのおっきな箱、ユイリィおねえちゃんにですか?」
「あら鋭い。そうよ、ユイリィちゃんにアトリおばさんからのプレゼント。何だと思う?」
突然クイズになった。律儀に考え、ランディは答える。
「油!」
「ざんねん。はずれです」
ランディの脳裏をよぎったのは、馬車の車軸や扉の蝶番に差すような類の油だったが。
それをランディなりの冗談だと思ったのか、おどけたように答えたアトリおばさんは肩を震わせておかしげに笑っていた。
「正解は
「あ」
初めて出会ったとき、ユイリィは裸で、しかも服を持っていなかった。
なので最初の時はシオンの服を貸して、それからも今に至るまで、シオンが部屋に残していった服を着続けていた。
けど、シオンの服は男のひとの服だ。どれもユイリィにはぶかぶかだし、そうでなくとも女のひとには女のひとのための服がある。さらに言えば――ランディはあずかり知らぬことだが――下着に至っては一着もない。
ユイリィは自分の服装を気にする様子がなかったし、なのでランディも何となくそういうものなのかなと思って、何となく意識から外れていたのだが――
「肩も袖も裾も合ってないし。下もスカートじゃないし。それだけならまだいいんだけど、なんだかどれも無理に着てるみたいだったから……ずっと気になってたのよ」
どこか申し訳なさそうに、アトリおばさんは言う。
だが、無理に着ているというのは実際その通りではある。
「どういう事情か知らないけれど――ううん、とにかくこれは妹の古着なんだけど、シオンくんの服よりはずぅっとサイズは近いし。もしユイリィちゃんがよかったらと思って。どうかしら?」
「ぼくはわかんないですけど。えっと、ユイリィおねえちゃん呼んできますっ」
「あらあら、ありがとう。お願いね、ランディちゃん」
おっとりとそういうアトリおばさんには、手振りで応接のソファを勧めてから。
ランディはくるりと踵を返して、部屋を飛び出した。
◆
ユイリィはランディの家の地下室で眠っていた女の子で、機械仕掛けの《
長い三つ編みに編んだ翡翠色の髪と若草色の瞳。日焼けを知らない白い肌。左の耳から喉までを金属製のプレートが覆っている。ランディの知っている大人――というか、それくらいの年上のひとたち――の中では背が低くて、手足も体もすらりと細い。
そして先月からは、ランディの『お姉ちゃん』だ。
とりあえずユイリィは事あるごとにそう言っていて、ランディもそういうことでいいのかなと納得している。
今は、わるいひとの野望をこらしめるために正義の冒険者として旅立った兄のシオンに代わって、ランディの傍にいていろいろ助けてくれる優しい『お姉ちゃん』だ。
ランディに呼ばれ、洗濯物を干すのを切り上げてやってきたユイリィは相変わらずシオンの服を着まわしていて、アトリおばさんが言うとおり肩は合っていないし袖も裾もたっぷり余っていて、どちらかというと服に着られているお人形さんみたいな感じだった。
下も、
「服、ですか」
「そう。妹の古着でよかったらなんだけれど」
そのユイリィがあんまり興味なさそうに呟くのに、アトリおばさんは声を弾ませて首肯し、テーブルに乗せた長持を手で示す。
「実はこれ、ぜんぶコートフェルで暮らしてる妹の服なんだけど……あの子、自分が着なくなった服や着れなくなっちゃった服を、みんなうちに置いていってしまったの」
「たくさんだね」
「そうなのよ。でも私が着るにはサイズが小さいし、かといって仕立てなおしちゃうのも、せっかくの都会のお店のお洋服だからもったいないしで……」
ランディの感想に、アトリおばさんは困ったように眉を垂らして悲しげな溜息をつく。
「でね? ユイリィちゃんなら背丈も年頃もちょうどいいし。このまま埃をかぶらせておくくらいなら、いっそユイリィちゃんにもらってもらえないかと思って。どうかしら?」
アトリおばさんの提案に、ユイリィは終始小鳥みたいに首をかしげていたが――やがて長持をちらと見やり、それからくるりと首をねじってランディを見た。
「ランディちゃんはどう思う?」
「え? いいと思うよ。ユイリィおねえちゃんにだって、ちゃんと自分の服があったほうがいいでしょ?」
「そうかな? ランディちゃんがそういうなら、そうしよっか」
にこっと屈託なく笑って、ユイリィは即決した。
よかった、と内心ランディはほっとする。
家の地下室で眠っていたユイリィはこれまで自分のための服を一枚ももっていなくて、なので今日までずっと兄のシオンが置いていった服を着まわしていた。
ユイリィ曰く「服は
「ユイリィが着るのにお金を使うくらいなら、ランディちゃんの服に使うほうがずっといいよ。背だってこれからにょきにょきのびるんだからね!」
と、終始こんな調子で、自分のことは後回しだった。
それに、いざ服を買うとしても、トスカには服を作ってもらえる仕立て屋さんなんてものはない。ほとんどの家は布売りの巡回商人から反物を買ってきて、それぞれの家で服を作ったり――そうでなければ、元々ある服を仕立て直したりして、長くたいせつに使う。
仕立て屋さんなんてぜいたくなお店があるのはコートフェルみたいな大きな街くらいのもの。
いざそうした街へ行くとなると一時間に一本もない巡回馬車に乗ってガタゴトガタゴト揺られていかなければいけないので、なかなかに障害が多いのだ。
なので、ユイリィは今日までずっと、毎日シオンの服を着ていた。
ランディは端々に疑問を覚えながらも、総じて「そういうものなのかなぁ」で納得してしまっていたのだが――これが従姉妹のラフィや幼馴染みのエイミーみたいな女の子にいわせると、だいぶんよくないことらしかった。
「あのひと、いったいいつまでシオンさんの服着てるのよ! だいたい毎日毎日シオンさんの彼シャツなんてそんなうらや――お、女の子が毎日男ものばっかり着てるなんてありえないわ! ぜーったいにありえないわっ! 慎みがないったら、もう!!」
「そうだよランディくん。ユイリィさん、もっとちゃんとかわいい服を着せてあげたほうがいいよ……せっかくお人形さんみたいにきれいなお顔なのに……もったいないよ……」
(……あれ?)
思い返してみると――あの二人はあの二人で、なんだか微妙に噛み合ってなかったような気がしてきた。
だいたいお人形さんみたいも何も、そもそもがユイリィは《
――閑話休題。
ランディの一声ですっかり乗り気になったユイリィは、先ほどまでとは一転して朗らかにアトリおばさんへと向き直った。
「ユイリィご厚意に甘えます! 妹さんの服をいただいてもいいですか?」
「もちろん! なら決まりね!」
アトリおばさんは嬉しそうに両手を打ち合わせた。
「それじゃあさっそく試着してみましょ。袖や丈が合わなかったりしたら困るし、まずは一通り試してみなきゃ!」
「え」
ユイリィの両手を取って熱く握りしめるアトリおばさん。急な展開にユイリィは目を丸くする。
「待って待ってアトリ。ユイリィそろそろお昼ごはんの支度しなきゃ」
「だいじょうぶ、心配いらないわ! こんなこともあろうかとお昼にすぐ食べられそうなものいっしょに持ってきちゃったから!」
力強く請け負い、アトリは長持と一緒に持ってきていたバスケットを叩く。
ユイリィの沈黙は僅かに長引いた。
「……アトリ、なんだか用意周到じゃない?」
「普通よぉこれくらい。だってうちの物置で眠らせてた素敵な服たちが、またこうして日の目を見られるんだもの! ランディくんやユイリィちゃんのご迷惑にならないよう、準備だってしっかりしちゃうわ。うふふっ♪」
「先に確認したいんだけど、なに持ってきたの? ランディちゃんちょっと好き嫌いあって」
「厚切りハムとチーズ。あと合い挽き肉の肉団子」
「!!!!!」
「ランディくん、きらいなのあった?」
「ぜんぶ好き!」
「よかった! あ、パンも持ってきたわ。ハムとチーズはパンに載せて、胡椒をかけてから焼いて食べましょ。おいしいわよ」
「おいしそう!!」
「それからね、マシュマロもたくさん持ってきたの。半分はそのまま食べて、もう半分は焼いて食べましょうね」
「やった――――っ!!!!」
ユイリィは――心なし強張った面持ちで、完全に言葉を失っていた。
隙がなかった。ほんとうに隙がない。
「さあユイリィちゃん、試着をはじめましょう。ランディくん、おねえちゃんお借りしてくわね?」
「いやあの。ランディちゃ」
「はぁい。ユイリィおねえちゃんいってらっしゃーい!」
「………………いってきます」
マシュマロに心奪われたランディの素直な見送りに、完全に逃げ道を塞がれてしまった。
ユイリィはアトリおばさんに手を引かれるまま、とぼとぼと力のない足取りで部屋を出る。
心なしか――その時のユイリィは、行き止まりに追い詰められて逃げ場を失ったウサギのような表情をしていたが。
不幸なことに、当の彼女を除いたその場の誰一人として、それに気づくことはなかったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――
全三話の短編となります。月・木更新予定です。
特段ここまでの長編の話を見なくても、なんとなくゆるっと見られる話を心掛けたつもりですが、さてどうでしょうか。
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