33.Interlude:かれらがしらない、いくつかのこと


 三年前。

 ルクテシア島中部・オルデリス公領――サクスファル市南方の街道。


 オルデリス公領北方の玄関口というべきサクスファル市の南門を出れば、領都たるコートフェルまでは徒歩でも二日の行程である。それは成人男性かそれに比する健脚をもってしての計算ではあるが、馬車を借りて移動している現状、そのことにさしたる意味はない。

 もっとも――そうなったこと自体は、馬車を借りなければ移動も覚束ないような、『大荷物』があるが故のことではある。


「息子のため、ですかね。必要な時に必要なものを用意してやれれば――と。まあ、そんなことを思いましてね」


 その、『大荷物』。

 古風な幌馬車の荷台に収まった、雇い主たる老爺が《コフィン》と呼ぶ鉄の棺桶を見やりながら、デルフィン・ウィナザードはパチパチと爆ぜる音を立てる焚火へ、新しい薪を一本放り込んだ。

 一昔前は、冒険者の中において知らぬ者なしとまで謳われた無双の戦士。気鋭の後進が名を上げその席に取って代わった今もなお、一級の冒険者として広く名を知られる一人である。

 冒険者としての相棒でもある妻は、《棺》と同じ幌馬車の中で毛布にくるまって、早々と穏やかな寝息を立てている。

 交代で火の番と見張りを行うためだ。適当なところで起きてもらうつもりで先に就寝してもらったが、あるいは今晩は自分が夜を徹して見張りに当たり続け、明け方に交代するくらいのほうがいいのかもしれない。


 ここ何年か、歳を重ねるほどに、短い睡眠では起き抜けに拭い難い疲労がこびりつき、後々まで尾を引くようになった。きちんと訊いたことはなかったが、恐らく妻も同様だろう。

 もう若くはない、ということだ。妻は能うる限りしっかりと寝かせ、昼の御者を任せる間に自分が十分な睡眠をとる。今の自分達ならその方が、まだしも効率のよい休息なのかもしれない――


(……いや)


 そこまでぼんやり思考を滑らせたところで、彼はふと我に返ってゆるゆるとかぶりを振った。完全に意識が関係ないところへ逸れていたのを自覚し、あらためて目の前の依頼人と向き直る。


 そう、依頼人。

 《大陸》のどこぞから逃げてきたという、枯木を思わせる風貌の老爺だ。鷲鼻の目立つ瘦せた顔に刻まれた皺は深いが、足下はしっかりしており、今にも折れそうな細さに相反して弱々しい老人といった風は感じられない。

 よく整えた灰色の髭、意思の光を強く宿した細い目の温厚さが、老爺の出自の良さを伺わせた。

 妻が先に眠り、依頼人たる老爺と自分の男二人。

 焚火を挟んで向かい合っていたとき、その依頼人の方からふと訊ねてきた。


『どうしてあなた方は、《ユイリィ》を報酬に選ばれたのです?』


 ――と。


「そりゃまあ、あなたが譲ってくださると仰ったから……というのがまず理由の第一ではあるんですがね。ああいえ、もし今になって手放すのが惜しくなられたのでしたら無理にとは言いません。現金をお持ちでないのは承知していますが、何かしら別の形で」


「いいえ、それはいいのです。何より儂は、貴方方にここまで護衛していただいた――このうえ《ユイリィ》を隠匿し、儂を安全に逃げ延びるまでの手配をお願いすることになります」


 老爺はゆるゆるとかぶりを振り、それから慈しむように優しい目で、馬車の荷台に横たわる《棺》を見上げた。


「旅の途中だった貴方あなた方ご夫婦に、それほどの手間をいただいた。その引き換えに足る報酬として儂にお譲りできるものがあるとすれば、《ユイリィ》そのものをおいて他にありますまい」


 その様子に思うところがありデルフィンは口を開きかけたが、それに先んじて老爺がこちらを見た。

 赤々とした焚火に照らされた口の端を緩め、無言でこちらの話を、問いの答えを促してくる。


「息子は……二人いるうちの上の息子のことなんですが、私どもと同じ冒険者でしてね」


「ほう。ご両親と同じ道を」


「ええ、まあ。といいますか、私と妻とで冒険者に育てたんですわ。オレ達二人の間に生まれた子供ならきっと素晴らしい、オレ達をも超えてゆく立派な冒険者になるに違いないと――で、物心つく前から私達の冒険に付き合わせて、《多島海》のあちこちを旅してました」


「期待されていたのですね。ご子息に」


「ええ。はい」


 らしくもなくはにかみながら、男は首肯する。

 そう――妻との間に初めて授かった、可愛い長男だ。より多くの素晴らしいものを、美しい世界を見せてやりたかった。

 気心知れた者と渡り歩く旅の素晴らしさ。その日々のひとつひとつが見せる輝きを、かけがえのない思い出として息子の記憶に刻んでやりたかった。


 甲斐はあった、と言うべきなのだろう。

 シオンは二親が願った通り、デルフィン達を越えてゆく不世出の冒険者になった。

 まるで物語の中の冒険者たちがそうであるような、英雄の威名をもって呼ばれるようにすらなった。


「それは、素晴らしい息子さんだ。親として、さぞ誇らしいことでしょう」


「……ええ。息子は私ども夫婦の誇りです」


 苦い後悔が心臓を刺すのを感じながら、それでも心からそう胸を張ることができる。


 冒険者として名を知られはじめた頃、シオンは『デルフィンとエルナの息子』だった。

 今はそうではない。自分達こそが、『シオン・ウィナザードの両親』になった。その変化を、自分たちの存在が過去にされてゆくことを寂しく思う心がない訳ではなかったが、けれどそれ以上に、仲間とともに冒険者として高みへ駆け上ってゆく息子の姿が誇らしかった。

 息子は自分達が教えたものを継ぎ、二親の背中を追って、いつしかその先へ駆けてゆくようになったのだ、と――そう心から信じ、妻と二人で喜びあった。


 そして、シオンの活躍を聞いた自分達は、思うようになった。一人目の息子が大きく羽ばたいたように、二人目の息子も兄と同じ高みへ連れていってやりたいと。そう、願うようになった。


 元より、ランディを育てるためひとつところに留まって四年。それはシオンを育てたときの苦労と苦心を鑑み、また妻の身体を慮ればこその選択だったが――自分も妻も、その頃には旅と冒険を求める衝動を堪えるのが辛くなってきていた。そもそも冒険者なんてやくざな稼業を長く続けているような連中は、大なり小なりそういう『冒険の虫』を腹の中に飼っている生き物だ。言わば『冒険バカ』なのだ。


 これもいい機会だと頷きあった。

 ランディとの新たな旅を、妻と二人で胸に思い描いていた。

 あの日、シオンは弟が自分と同じように旅立つことを――その旅立ちを喜び祝福してくれると、無邪気に信じきっていた。自分達は。


「ですが、そうじゃなかった。シオンは私達とは違った――私どものような冒険バカなんぞより、ずっと真面目で地に足がついていたのがシオンでした」


 六年ぶりに再会したシオンは、記憶の中にあるどの時よりも明るく朗らかに見えた。

 デルフィンの記憶にあるシオンは、親としては内心ひそかに心配を覚えてしまうような、言葉少なで大人しい、陰のある子供だった。もっと幼い頃は人並みに明るい子供だったはずなのだが、それがいつからそんな風に変わってしまったのかは、彼にも妻にも分からなかった。

 師匠のもと過ごした三年と、気心知れた仲間との冒険が、そんな息子を変えた―― 一人前の男に育てたのだと、頭から信じこんでいた。

 そうではなかったのだと気づいたのは、シオンが帰ってきたあの日の喧嘩別れから何度も何度も考えた、その果てのある夜のことだった。


 今ならそうと分かる。

 あの時自分が切り出した『取引』は、最悪の言い草だった。


 だが、一度口にした言葉をなかったことにできる道理があるはずもなく、今更前言を撤回したところでシオンは自分達を信じてなどくれはしないだろう。


 シオンも自分達と同じ、『冒険の虫』を飼っていると思い込んでいればこその言葉だった。

 正道を鑑みれば多少おかしくとも、我が身を振り返れば否定はすまいと。

 結果から見れば、それは妻と合わせて二人分の信用を、まとめて失望の肥溜めにぶち込んでしまっただけの言葉だった。


「シオンはもう私どものことを、まともに親として見てくれてなどいないでしょう。長男は私達の代わりに、下の息子を――私達の生まれ故郷の町で弟を育てることを選びました。ですが」


 だが――それでも、ひとつだけ確かに言えることがある。

 きっと、シオンはまだ気づいていない。


「あいつは不世出の冒険者です。実力と、実績がある。未来も可能性もある。望むと望まざるとにかかわらず――たとえシオン自身が望まなかったとしても、冒険者として求められる日が必ず来る」


 もしもいつかに、《果てなる海の嵐竜》に匹敵する脅威が《多島海》を襲ったときに。

 あるいはもっと別の、旅立たねばならない理由が目の前に立ち現れてしまったときには。


 『』とはそうしたものだ。なにより、シオンは優しい子に育った――それは音に聞く息子の冒険からだけでもそうと知れた。自分の力で払えるだろう危機を、救える人々を見出してしまったその時、それらに見て見ぬふりをできる子ではない。


「たとえそうでなかったとしても、あいつもいつか私達のように冒険に出たいと思う日が――あるいは周りの誰かや仲間に求められ、もう一度冒険に招かれる日が来るかもしれません。

 もしそんな日が来た時のためにね、私はあいつに、を用意してやりたいんですよ」


 求められるまま旅立ち、再び仲間と共に冒険へ向かってくれてもいい。

 再びの旅立ちを拒み、あのちいさな故郷の町でランディを育てつづけてくれてもいい。


 今はもう、シオンがどちらを選んでも構わない。それでいいのだと思えるようになった。だが、たとえどちらの道を選ぶとしても――護り育てるべき弟の存在ゆえに目を背けて諦めるのではなく、己の心が命じるままに選んでくれたなら。


 語り終え、彼は静かに息をつく。

 彼の、懺悔にも似た昔語りを聞き終えた老爺は、皺の深い面を緩めて微笑んだ。


「どうやら息子さんは、素晴らしいご両親をお持ちになられたようだ」


「まさか」


 望外の賞賛に、失笑しかけた。そんな立派なものでは、決してない。


 言い訳や弁明では決して取り返しのつかないことが、この世界には確かにある。

 時間をかけ、誠実な選択と行動をもって贖うことでしか取り返せないものが、この世界には確かにある。

 だから、そう――これは本当にそれだけの、あの日の失敗を取り返そうとしているだけの行いなのだ。


 もはや息子達にかくあれと望むことはすまい。

 あの日、あの時の決裂で、自分も妻もこのうえなく懲りたのだ。


「我々が真っ当に素晴らしい親だったら、こんなところでこんな風にしてやしません。今頃はとうに家のベッドに入って、下の息子を寝かしつけている頃でしょう」


「だとしたらそれは、儂にとっての僥倖です。お二人がそうした方でなかったおかげで、儂はこうして助けられています」


 男はとうとう堪え損ねて、ほろ苦く笑った。


「《機甲人形オートマタ》は人をよりよく活かすために在る。ユイリィはきっとあなたがたの願いにかなうでしょう。しかし――」


 老爺はふと、不思議そうに首をひねった。


「貴方もご存知の通り、《ユイリィ》の再起動はおよそ三年後です。《棺》の機能で彼女を修復するにはそれだけの時間がかかるし、ご子息らがいつユイリィの存在に気づくかも定かではありません。それは」


「なに、それは構いませんよ。あと三年後ならちょうど四年です」


「?」


 不思議そうに眉をひそめる老爺。彼は歯を見せて、くしゃりと笑った。


「私ども夫婦は四年、ランディが妻の腹にいる頃を含めれば五年間、『冒険の虫』が癇癪かんしゃくを起こすのをじっと我慢してランディを育てました。もとをただせば我々のせいとは言え、シオンが自分でやると言い出したことなんですから――せめてあいつにも同じくらいは頑張ってもらわにゃ、帳尻が合わんでしょう」


「はあ……なるほど」


 老爺は納得いったとは言い難い様子だった。

 まあ、確かに、韜晦とうかいとしてはだいぶんつたないものではあっただろうが。 


「私どもの理由はそんなところですが、しかし本当に構わんのですかね? あの《ユイリィ》、貴方にとっては孫のようなものだと仰っていたじゃあありませんか。そんな大切なものを、私どものような行きずりの冒険者に譲ってしまわれるなんて」


「儂が持ち歩くには大きすぎるものです。ユイリィと《棺》を抱えたままでは、そう長く逃げ続けられるものではありません」


 それに、と。

 老爺は感情の見えない声で、低くひとりごちた。


「《ユイリィ》は、儂には過ぎたものでした。儂はこの子を、自分の傍に置くべきではなかった……」


 ……………………………。

 ぱちぱちと、焚火の爆ぜる音だけが横たわる。

 彼は続く言葉を待ったが、老爺はそれ以上を語ろうとはしなかったし、彼もまたその続きを促そうとはしなかった。


(……どうにも、な)


 未だ、ようやっと一年が過ぎたばかりだ。最後の別れ際、下の息子の頭をめいっぱい撫でてやって、再び冒険の旅へと踏み出してから。

 別れの日、ランディは泣くのではないかとひそかに不安を抱いていた。シオンと喧嘩別れ同然になったせいもあって、旅立ちにこれ以上後味の良くないものが残るのを、自分達はいとっていた。

 だが、蓋を開けてみれば何のことはない。

 下の息子は自分の頭を撫でるてのひらにくすぐったげな悲鳴を上げて、笑っただけだった。


『おとうさん、おかあさん。いってらっしゃい!』


 そして、去り行く自分達へ大きく手を振って、二親を見送ってくれただけだった。

 そのことをどう受け止めればいいのか、彼は今も落としどころを見出せずにいる。妻がそうであるように。

 

 三年。三年だ。

 それだけの時間があれば、より多くのことを知れるはずだ。その末にこの老爺と《ユイリィ》が危険な何某であると明らかになったときは、あの鉄の棺を、息子たちのもとから速やかに遠ざけなければならない。


 《ユイリィ》が人間でないことは、既にこの目で見て知っている。

 だが、彼女にまつわるその真相が、狂った老人が孫娘の亡骸をいじくりまわした果てを《人形》だと思い込んでいるだけの代物だったしても、それはそれで仕方ない――そう思えるくらいには現状を割り切って、自分達は老爺の依頼を受けている。


 三年のインターバルは、事の真相を確かめるのに都合がいい。

 その末に、彼女ユイリィが望みに適うものであると知れたなら、それこそ僥倖というものだ。


 自分達夫婦の間には女の子ができなかった。いつか生まれるかもしれない娘のためにと用意した名前を使いそびれてしまったのを、妻が残念がっているのも知っていた。

 娘の代わり――という訳にはいくまいが。しかし、下の息子に優しい『お姉ちゃん』を与えてやれたなら。きっとそれはそれで、彼の人生にとって実り多きことだろう。

 そして、すべてが首尾よくいった暁には――彼女は息子たちをよりよい形で支えてくれる、頼もしい『娘』になるはずだ。


 そうなればいい。心からそう願う。


 賑やかで幸福な、仮想の未来を脳裏に想い描いて――彼は小さく口の端を緩めると、ひそやかに、そしてほろ苦く笑った。

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