32.またふたたびの、新たな《旅立ち》に至るまで・後


 ――少し、時間を遡る。


「なあ、フリス」


「?」


 フリスの薬屋。その奥の工房で。

 図書館の書架を思わせるスライド移動式の収納棚から、三号導法線の束を抱えて持ってきたシオンの呼び掛けに、フリスは作業の手を止めて、背の高い幼馴染の青年を振り仰いだ。


「フリスはさ。もう全部、終わったと思うか」


「え……ええ? なにが……?」


 おろおろと目を瞬かせながら、シオンの顔と作りかけの《附術工芸品アーティファクト》――熱した銅の半田はんだごてで、基盤へ導法線を配線している最中のそれが載った作業台とを、交互に見る。

 そんな幼馴染みの少女を静かに見つめて、彼は切り出した。


「《双頭蛇竜アンフィスバエナ》の一件――もう一匹の、雌のアンフィスバエナを倒して、これで全部終わりになったと思うか?」


「シオン……くん?」


「俺はまだ、この一件は終わってないんだと思ってる」


 そも、この一件の端緒となったのは、魔物を捕えた檻を輸送していた馬車が横転し、アンフィスバエナの脱走を許したことだ。

 脱走を目論んだ魔物が暴れた過程で馬車が横転したのか。馬車が横転した結果として檻が壊れ脱走を許したのか。その機序は定かでない。今後、コートフェルの都市警衛の調査で分かることがあるのかもしれないが、いずれにせよどちらであっても大差はない。

 脱走したアンフィスバエナは護衛についていた冒険者二人を毒息ブレスで殺害。さらに馬車を引いていた馬三頭も殺害し、亡骸の臓物はらわたを喰らった。


「経緯としておかしなところはない。だが、だとしたらあのアンフィスバエナは、一体誰がどうやって捕まえたんだ?」


「それは、魔物ハンター……んと、護衛してた、冒険者……の、ひと。とか」


「馬車の傍らで死んでいた護衛の冒険者二人は、アンフィスバエナの毒息をまともに喰らっていたそうだ」


「え……」


「おかしな話だろ? 彼らが《双頭蛇竜アンフィスバエナ》の特性や対処法を知っていたとは、とてもじゃないが思えない」


 シオンは力なく微笑み、かぶりを振った。


「認定脅威度Aランクの魔物を捕縛できる《魔物狩り》なら、間違いなく一級のプロフェッショナルだ。事の発端になった事件の顛末てんまつは、その仕事ぶりとしてはあまりにお粗末すぎる」


 アンフィスバエナは、《諸王立冒険者連盟機構》による認定脅威度Aランク。『討伐依頼の有無によらず、討伐証明のみによって報奨が支払われ、発見報告だけでも報酬を用意する』――裏を返せば、迅速な発見と討伐が推奨される危険な魔獣である。

 だが、王立の学院や研究所においては魔物の生態研究のため、そうした魔獣をを生きた状態で欲するケースがままある。

 それら要請に応えて危険な魔物を捕え、万端の備えと共に引き渡すのが魔物ハンター、ないし《魔物狩り》と呼ばれる冒険者達だ。その名はシオンに与えられた二つ名のような威名の類ではなく、《諸王立冒険者連盟機構》の認定を要するれっきとしたである。

 通常なら民間船舶での輸送を禁じられる認定脅威度Cランク以上の魔物であっても、彼ら《魔物狩り》の随伴があれば――無論、厳重な管理と所定の手続きは要求されるが――乗船の許可を得ることができる。


 多くの場合に彼らの依頼元となり、あるいは捕えた魔物の卸し先となるのは、最高学府たる《学院》や国立の研究機関だ。しかし往々にして、物好きな金持ちや貴族が、同好の士である好事家仲間にお披露目できる珍しい魔獣を捕まえさせるために《魔物狩り》を雇うことがある。

 ただ、その場合も要求される管理の厳重さは変わらないし、万が一のことがあればただでは済まない。過去には、管理下の魔物を取り逃がしたがために取り潰された家すらあったという。

 その危険な魔物を捕え、場合によっては依頼主や顧客に対してその取扱いを指導する立場ともなるのが《魔物狩り》なのだ。


「件の二人が《双頭蛇竜アンフィスバエナ》を捕えた魔物ハンターだったとは、俺にはとても思えないんだよ」


 死んだ冒険者の身元は、各地の《諸王立冒険者連盟機構》へ問い合わせが行われている最中だが。しかしシオンの勘が正しければ、彼らは十中八九、その辺で雇われただけのありふれた冒険者だ。

 あるいは自分達が何を運ばされているかさえ、彼らは知らされていなかったかもしれない。


「あるの、かな……そんなこと、って」


「少なくともあの御者は、檻の中身を知らされていなかった。彼がそれを知ったのは、馬車が横転して、魔物が外に出た時だったそうだよ」


 御者が知らされていたのは『コルトナ諸島で捕獲した珍しい魔物の護送』という、仕事の概略だけだった。

 荷の詳細を知らされないことなど御者にとってはべつに珍しいことでもなく、彼は過去に魔物の輸送も経験があった。

 特段の注意がないならさほど危険な魔物でもあるまいと合点し、特に疑問も抱かなかったのだという。


「《双頭蛇竜アンフィスバエナ》の届け先、依頼主も不明だ。御者はルチルタスの郊外まで運ぶよう依頼されていたらしいが――いずれにせよあの魔物は、本来ならありうべからざる、杜撰ずさんな管理で運ばれていたってことだ」


「隣の領都……じゃ、行き先は、カドルナ伯領……?」


「もっと西かもしれない。王都や、もしかしたらルクテシアとは別の島に運ぶ途中だったのかも」


 あの日、クローレンス氏の館での詰問が終わった後。かの御者は捜査のためにコートフェルの警衛へと引き渡されていた。

 仕事の内容の割に潤沢な、法外ともいえる報酬に軽率に飛びついた件の御者は――涙ながらに己の迂闊さと魔物の恐怖、後悔を、警衛相手に切々と語っていたそうだ。


「これは密輸だ。到底まともなやりくちじゃない。しかもそれがまともなやりくちじゃないと分かっていて、身元を隠蔽する程度の知恵はある。結局、《双頭蛇竜アンフィスバエナ》の輸送は失敗して、ユイリィさんや俺達が倒したが――そんな後ろ暗い真似をするやつが、その程度の失敗で懲りると思うか?」


「……ない。と、思う」


 低く抑えた声で呻くフリスに、シオンは「ああ」と首肯する。

 端から法に則った形で手に入れるつもりがないのか。

 それとも、真っ当な手続きでは手にすることができない理由があったのか。

 さらに言えば、今回の一件はたまたま不運な失敗で明らかになった事件の一つに過ぎず、これまでも同様の杜撰な密輸が繰り返され――その挙句、誰にも知られることのないまま、危険な魔物が野に放たれていたのかもしれない。あるいは今この時にも。

 いずれにせよ、到底まともではない。そんな碌でもない何者かの愚行で、トスカは、ランディ達は魔物の脅威に晒された。


「でも、シオンくん……どうして、そんな、こと……?」


 おずおずと訊ねるフリスを一瞥し、シオンは渋面でかぶりを振った。


「分かってるよ、こんなの半分はおためごかしだ――本当ならこんなこと、俺みたいなのが言えた義理じゃない」


「そんな」


 フォローしかけるフリスの言葉を、シオンは首を横に振って遮った。


 ――こんなものは、都合のいい言い訳に過ぎないのではないか。


 あるかなしかも明らかでない未知の危険を、己の欲望を糊塗するために連ねているだけではないか。

 結局、自分はあのころの続きを――フリスや仲間達との冒険を、その続きを望んでいるだけなのではないか。


 事は既に、コートフェルを治める公爵の知るところとなった。いずれ国や他の地方領主たちも知るところとなり、執るべき対策が執られることになるだろう。

 この先、まともでない何者かが執念深く魔獣を手に入れようと画策したところで、何もできずに阻まれて終わるのかもしれない。

 シオンが何をせずとも、もっとそれに相応しい誰かが、然るべき形でこれを解決するのかもしれない。


(……いいや)


 そうではない。そんなものは理由にならない――今更だ。

 目の前を暗くする懊悩に俯き躊躇ためらい、それでもシオンは、面を上げて言った。


「けど、見過ごせない。俺は許せない。トスカを、ランディたちを危険に晒したやつを――野放しにしたまま捨て置くなんてことは」

 

 その、決意の言葉を。フリスは金色の瞳を丸くして、言葉もなくじっと聞いていた。

 やがて、


「シオン、くん」


「ああ」


「冒険者に……戻るん、だ?」


「――ああ」


 フリスは感極まったように息を呑む。

 胸をいっぱいに満たす感情に、きゅっと唇を噛んで――それでも抑えきれなかった言葉が、桜色の唇から零れて落ちる。


「シオンくん――」


 その手から。半田ごてが、ぽろりとこぼれ落ちた。

 それは机を転がって床へと落下し、そこに山と積まれていた紙束――《附術工芸品アーティファクト》の配線図と計算式を書き留めたメモ書きだった――の上に着地する。

 導法線を溶かして癒着する、熱を持って焼けた銅が、


「あ」


「えっ?」


 火がついた。

 一度点いた火は瞬く間に燃え広がって紙束を焼き焦がし、後の作業のため集めてあった可燃性の素材へとその赤い舌を伸ばし、

 

「わ、わわっ……わああぁ――――――――――――――――っ!!?」


 一瞬で真っ青になったフリスが、どこか間の抜けた音程の悲鳴を上げた。



「じゃあ、この前のアンフィスなんとかみたいなやつが、他にも逃げてるかもしれないってこと?」


「『アンフィスバエナ』、な。確かなことは言えないし、俺の思い過ごしかもしれない」


 シオンの話を、聞き終えた後。

 ランディはきょとんと丸くした目をぱちくりさせながら、硬い面持ちの兄を見つめる。そんな弟を不安の滲む面持ちで伺いながら、シオンは続けた。


「けれど、俺が知らないだけで既にそうしたことは起こっているかもしれないし、今はなくともこの先そうしたことが起きるかもしれない。何もないならそれでいいけど、なら俺は、それをきちんと確かめたいと思ってる」


 何度振り返っても、底冷えする心地を覚えずにはいられない。ランディたちは本当に幸運だった。

 二匹のアンフィスバエナが何ら致命的な犠牲を齎すことなく討伐されたのは、最初の遭遇――あの時あの場に、たまたまユイリィがいたからこそだ。アンフィスバエナを一蹴する能力を備えた彼女がついていたから、恐るべき魔物との遭遇は子供たちのささやかな冒険譚として決着した。


 だが、もしも《多島海》のどこかで今も同じことが繰り返されているとしたら。

 そこには、弟が辿り得たかもしれない運命に絡めとられた誰かが、既にいるのかもしれないのだ。


「それは、トスカにいたらできないことだ。人を雇って調べてもらうこともできなくはないだろうけど、叶うなら俺にできることは全部しておきたい。そうでなかったら」


 きっと、ずっと後悔することになる。

 あるいはどちらを選んでも、いつかの未来に後悔する羽目になるかもしれないが。だとしても――だが、それは、


「すごい!」


「へっ?」


 歓声が、出口の見えない懊悩を吹き散らした。


「シオンにいちゃん、おはなしに出てくる正義の冒険者みたい! あ、前からずっとそう思ってたんだけど、今もやっぱりそうなんだって!」


「ら、ランディ?」


「じゃあじゃあ、シオンにいちゃんほんとうに冒険に行くんだ!? いつから? 今日? 明日!?」


「え。い、いや……さすがに今日明日って訳には。出発前にいろいろ話をつけないといけないところもあるし」


「旅支度だ! ね、ぼくもてつだう。いいよね!?」


「それは、まあ……なあ、ランディ」


 まるで幼馴染みの魔女がそうするようにおそるおそる、シオンは訊ねる。


「……いいのか?」


「なにが?」


「俺が……その、冒険に行っても」


「うん!」


 一瞬の迷いも躊躇いもなく。ランディは力いっぱい首肯した。


「シオンにいちゃん、もしかしたらもう冒険にはいかないのかなー、ってずっと気になってたんだ。ラフィはシオンにいちゃんが冒険に行かなくなったのぼくのためなんだっていうし、あの、シオンにいちゃんが一緒にいてくれるのはイヤじゃないし嬉しいんだけどさ……その」


「あの子は……」


「でも、そういうんじゃないんだって! えっと、そうなのかもしれないけど、それだけじゃなくって――シオンにいちゃんは今も正義の冒険者で、ずっとずっとカッコイイんだって!」


 心なしか渋面で呻くシオンに構わず、目を輝かせて声を大きくする。


「……冒険に出るのは俺だけじゃない。フリスも一緒に行く。それでも平気か?」


「フリスねえちゃんも?」


 シオンは首肯する。

 ランディの前で膝を折って、真っ直ぐに見つめてくる。


「危険な冒険に出るなら、フリスは俺なんかよりずっと必要な存在なんだ。彼女は薬屋もあるから俺より支度がかかるだろうけど、でも、彼女の魔術と知識は絶対に必要になる」


 今度の応答は、少し遅れた。


「……ん。へいき」


 けれど、それでも。もう一度。

 はっきりと、首を縦に振る。


「今はユイリィおねえちゃんだっているもの。おとうさんとおかあさんが冒険に出かけてから、シオンにいちゃんがいてくれたみたいに……だから、だいじょうぶ」


「……………………」


「シオンにいちゃん?」


「いや……いいんだ、何でもない」


 ちょっと、自分が嫌になっただけだから――と。

 弟には聞こえないくらいの小さな声で、シオンはひとりごちる。


「とはいえ……正直なとこ、そこを任せられるかきちんと確かめてから行きたいってのもあるんだよなぁ」


「え?」


 わざとらしく、はぁ――っ、と深くため息をついて。

 あらためて顔を上げたシオンは、じとっと眇めた半眼でランディを見る。


「おまえが好き嫌いしたり風呂を嫌がったりしたとき、彼女が甘やかしたりしないでちゃんとしてくれるかどうか。ダメそうなら叔父さんたちなりアトリさんなり、他の誰かにもちゃんと頼んでいかないと」


「ええぇぇぇ―――――――――――!?」


 ランディは引いた。

 この期に及んでシオンは何を言い出すのか。

 露骨に表情を引きつらせる弟を、検分するように眇めた目でじぃっと見つめて――不意に、シオンは笑った。


「だからまあ、そういう訳だから。まだ何日かはここにいるよ。ビアンカ達ともまだちゃんと話してないし、他にもいろいろなこと、きちんとしていかなけりゃだから」


 その時のシオンは――寂しがっているような、どこか後ろ髪引かれているような。

 今にもほろほろと崩れはじめてしまいそうな苦みを含んだ笑みを、口の端に刻んでいた。


 ランディはその顔をずっと前にどこかで見たことがあったような気がした。

 そんな顔をどこかで見て、頭を撫でてもらった記憶――そんな、いつかの風景が、瞬きする瞼の裏をよぎった。


「ね、シオンにいちゃん」


「ん?」


「まだ何日かいるんならさ。冒険に行く前にひとつ、お願いしてもいい?」


「玉ねぎと風呂はまからないぞ。あと歯磨き」


「そ、そんなんじゃないし!」


 一番きらいなキュウリに言及されなかったのに内心ちょっとだけほっとしながら、ランディは続ける。


「冒険に行く前にさ、またおはなし聞かせてもらっていい? シオンにいちゃんが冒険したときの」


「何だ、そんなことでいいのか? いいぞ、それくらいならいくらでも。どんな話が聞きたい?」


「《果てなる海の嵐竜》のおはなし」


 僅かの間、シオンは絶句したようだった。


「ランディお前、それは――」


「いままで話してくれたことなかったじゃない。冒険に出たらしばらく帰ってこれないでしょ? だからその前にさ」


「そうは言うけど……いや、だがその話なら俺じゃなくても、吟遊詩人の唄なりがいくらでも」


「だから、シオンにいちゃんのおはなしを聞きたいんだって」


 焦れたように唸りながら、ランディは訴える。


「いままで、一度も話してくれなかったじゃない。だからって言って――でも」


 でも、また新たに冒険へと旅立つ日が来たのなら。

 それは、


「もう、最後のおはなしなんかじゃないでしょ? またこれから、いっぱい冒険するんならさ」


「……ランディ」


 そう呻いたきり、シオンの沈黙は長引いた。

 迷ったのではなかった。それはただ、それまでそうすることを避けていた――それきり、いつしかそのことさえ忘れてしまっていた自分の心に、踏ん切りをつけるための時間だった。


「分かった」


 だから。シオンは微笑んで、弟の希望に応じた。


「そうだよな。話してやったこと、一度もなかったものな」


「いいの? ほんとに?」


「いいよ。本当に。何ならフリスやビアンカ達も呼ぼうか。せっかくなら、みんなの話も聞きたくないか?」


「聞きたい!」


 飛びつくように応じてから、ランディは急に躊躇った。


「あ、でも……いいの? ほんとにいい?」


「ああ」


「約束?」


「ああ、約束」


 シオンはくしゃりと白い歯を見せて笑みを深くし、ランディの頭を撫でた。


「何日かけてでも、最後まで。おまえがもう十分っていうくらい、たっぷり話して聞かせてやるよ」


 いつか、どこかで、あったように思った。

 こんな風に、強く、強く。おおきな手に、めちゃくちゃに頭を撫でてもらったことが。


 髪をかきまわすてのひらのくすぐったさに悲鳴を上げて笑いながら。

 ふと、シオンは泣きそうになっているんじゃないのかと――兄の声はどうしてか、暖かく湿って聞こえた。


 そして、その響きもまた。

 遠いいつかに、聞いた気がしていた。

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