29.《すべてのひとの、幸いと可能性のために》・⑤
「その子がランディちゃん?」
「ああ」
両親も仕事の手を止めて、おっとり刀でやってきた。
『なんだシオン。こっちに来てたのか――いや、恥ずかしいところを見られてしまったなぁ』
あの頃とは似ても似つかない、まるきりどこにでもいる普通の父親みたいな顔ではにかんで、父は大声で笑った。
母もその隣へやってきて、干す途中だった洗濯物を片手にころころと笑っていた。どこにでもいる普通の母親みたいな顔で。
ぬいぐるみみたいにちいさな子供たちは、こぞってシオンの話を聞きたがった。
シオンもそれに応えて――だいぶんぎこちなく、ではあったが――これまでの冒険の話をした。冒険者に憧れているというちいさな彼ら彼女らは、さして上手い語りでもないシオンの冒険譚に目を輝かせ、服を引っ張っては話の続きをねだった。
そんな風にして、日が暮れるまでせがまれるまま話し続けて、けれどもう遅いからと他所の子供たちがみんな家路について。その頃になってようやく最初の困惑と違う別の感情が、シオンの胸中にこみ上げてくるのを実感した。
安堵の感情だった。
◆
――その夜。
なおも目を輝かせて子犬みたいにまとわりつき、熱心に冒険の話をねだってくる弟がようやく寝静まった後。
シオンは生まれて初めて、両親と酒を酌み交わした。
「それにしても。いや、まったく恥ずかしいところを見られてしまったな」
父ははにかむように頬を掻きながら、昼間と同じ言葉を繰り返した。
「オレたちももう若くないからな、昔みたいな無茶はもうできん――で、母さんがランディを妊娠したときにな。まあ、どこか落ち着けるところで産もうってことになったんだ。オレ達の柄じゃあないとは思ったんだが」
「いや、そんなことないよ。俺はいいと思うよ、そういうの」
年月が、両親を変えたのだ。
深い安堵と共にそう納得した。
シオンの目に映る二人は、もうかつてのような怪物には見えなかった。それまで遠巻きに見つめて何となく想像してみるだけだった、どこにでもいる当たり前の、人の親らしく見えた。
よかった。心から思った。
弟はひとつところで、両親と一緒にこの町のこの家で毎日を暮らす。一緒に遊ぶ仲良しの友達もいる。
安宿の、ひとりきりの部屋を強盗に襲われるような、恐ろしい目に遭うことはない。
真っ暗な夜の中へ逃げ出したその先で、飢えと渇きにさいなまれながら、寒空に涙するなんてこともない。
弟はきっと、夜に眠るときは明日を楽しみにしながらぐっすり眠って、目が覚めればまた友達と一緒になって転がるように遊ぶ。友達と別れなければならなくなって、胸を引き裂かれるような思いをすることだって――ない。そんなことは起こらない。
それはシオンがいつかに欲しくてたまらなかったものだけれど、でもそんなのはもうどうでもいい。今更どうにかなることでもないし、とっくの昔に諦めもつけた。
ちいさな弟が、当たり前にそれを手にしている――あの両親がそれを良しとしてひとつところに留まり、弟が自分と同じ想いをせずにいられるというだけで、十分すぎることだった。
無邪気に甘える弟を懐に受け容れ甘えさせてやる父と母は、シオンの目にも人の親らしく見えた。だから、それでいい。
ならば、ずっと抱いていた蟠りも、今も臓腑の底に蠢くどす黒い感情も、ここで区切りをつけられる。
これからは、きっと――何一つ後ろ髪引かれることもなく、仲間達と一緒に、冒険に向き合うことができる。
「だがシオン。実にいいタイミングで帰ってきてくれた。おかげでランディをおまえと会わせてやることができた」
「俺も弟に会えてよかったよ。てか、何で教えてくれなかったんだよ、弟ができたとかトスカに住んでるとか――手紙なりなんなりで教えてくれたら、俺だってもっと早く来れたのに」
「ランディができたときにはおまえはまだ師匠のところで修業中だったし、冒険者になった後も忙しくしていただろう?」
「それは、居所を転々としていたのはそうだけどさ。連盟の郵便に手紙なり預けてくれてたら」
「人づての噂ばかりだが、おまえの活躍は聞いていた」
ジョッキを傾けながら、父は暖かく言った。
「目的を同じくする仲間ができて、力がついて……冒険者として、一番楽しい時期だったはずだ。邪魔をしたくなかったんだ」
「……何でさ。邪魔なんて、そんな」
会えるものなら、もっと早くに会ってみたかったくらいだ。
――いや、これ以上の文句は言うまい。それが両親なりの気遣いだったというなら。
何より、フリスやビアンカたちとの冒険の日々を思えば――その気遣いが余計なお世話だったと切り捨てるのは、シオンとてさすがに躊躇う。
「それでなシオン。オレたちもそろそろ、また冒険に出ようと思ってるんだ」
「え?」
―― 一瞬で。
口の端が、壊れる寸前まで引き攣った。
「…………何て?」
ぎこちなく強張ったシオンの声音に気づくこともなく、父は大声で笑った。
「いや、なに! 冒険から離れてはや四年――いや、ランディがエルナの腹の中にいた頃からだからもう五年になるのか。おまえが一人前になったのも見届けられたし、また冒険に出るにはいい頃合いだと思ってな!」
絶句するシオンに何を思ってか、父は「おおっと」と続けた。
「もちろんランディだって連れていくぞゥ! オレたちだって人の親だ、かわいい我が子をこんな何もない田舎に置いていくだなんて、そんな情のない真似をする訳がないだろうッ!!」
「そうね~。ランディももう四つになるし、私もそろそろいいかなって思ってたの~。やっぱりあの子にも~、シオンみたいに広いひろ~い世界を見せてあげたいものね~♪」
「――――はぁ?」
極限まで醒めた頭の芯の部分で、凍るように低く掠れた自分の声を聞いた。
ずっと臓腑の底に蠢いていたどす黒い感情が――
幾度も嘗めた理不尽によって限界まで煮詰められた、目の前の二人への怒りだったのだと――唐突に、理解した。
「ふざけるな」
「うん?」
「ふざけんなよ? クソ親父」
「ん……し、シオン?」
この時になって初めて、父は困惑したようだった。母も。
「正気かよ。あんなちっこい子供を――また自分の都合で引きずり回そうってのか、あんた達」
「あ、あら? あらあら? シオン~?」
ぽかんとして言葉を失った父の隣で、母がおろおろと頬に手を当てる。
「ええと、でも、あの~……ランディは冒険者に憧れてる子だし~。それにほら、シオンだってあれくらいのころには、お父さんやお母さんと一緒に旅をしてたじゃない。ね~?」
「したくてしてた旅じゃなかった」
一蹴され、母は呆気なく言葉を詰まらせた。
「だいたい俺だって、あげつらえばしんどいことなんて山ほどあった。一度なんか強盗に襲われて死にかけたことだってあった。まさかと思うけどお袋――それを忘れてたなんて言わないよな?」
「そ、それは……そのぉ」
「……忘れてたんだな?」
母は叱られた少女のように、縮こまって項垂れる。
「呆れるよ。どうせ親父も同じだろ――要は俺の時の一回で懲りもせず、今度は
「そ、それは……いや、シオン! だがお前はこうして生きてるじゃあないかッ! 一人で無事に難局を切り抜けたッ! ランディだって必ず」
「運がよかっただけだ。俺はあの時に強盗に殺されるか、その辺の道端で凍え死んでても、何もおかしくなんかなかった」
ずれた抗弁を繰り返しながら、目に見えて狼狽する両親の様子を、シオンは頭のどこか冷えた部分でひっそり訝った。
だが、すぐに気付く――二人はシオンのことを、こう思いこんでいたのではないだろうか。
逞しく育ててくれた両親を尊敬する心から、同じ冒険者の道を選んだ、『理想の孝行息子』なのだと。
「だがなあシオン! 今ならおまえにも分かるだろう!? オレたち冒険者はみんな、腹の中に『冒険の虫』を飼っているんだッ! 冒険が好きで好きでたまらないのが、オレたち冒険者という生き物なんだッ!!」
身を乗り出して、父は訴えた。
「それでもだ! オレたちは幼いランディのためを思えばこそ! 今日まで耐えて耐えて」
「知らないよそんなの。何が冒険の虫だ、わかりたくもない」
唾棄する心地で、吐き捨てた。
ああ――そうなのだ。そういうことなのだ。
多島海に名を馳せる冒険者へと成長した息子は、自分たちのことを誰より理解してくれていると――そんな夢物語を無邪気に信じていたに違いない。この二人は。
「わ……わかった。そこまで言うなら仕方ない」
一つ咳払いして、父は居住まいを正した。
「他ならぬおまえがそこまで言うのなら、オレも譲ろう。おまえの言うとおり、ランディを旅に連れていくのはやめる! だが、オレたちは冒険に行くのをやめるつもりはないッ!!」
「へえ、そうなんだ。お袋も同じ意見?」
「えっ? ええと……そ、そうね~……」
砂のように冷めて乾いた声で訊ねるシオンから、母は血の気が引いた顔でおどおどと目を逸らした。
どうやら母は、父より幾許か察しがよかったらしい。母はこの時点で、父よりがそうなるよりも早く、シオンが自分達を見る目の冷たさ、平坦さに気づいていた。
「わかった。好きにしなよ。ランディの面倒は俺が見るからさ」
「へっ?」
目を剥いて呻くしかできない父の顔は、たいした見ものだった。
それが盾突く息子を黙らせられる必殺の一突きだと、父は本気で思っていたらしい。その確信を一瞬でひっくり返された間抜け面が心底おかしくてたまらず、シオンは歯を剥いて嗤った。
「だ……だがシオン。おまえ、冒険は」
「親父とお袋はもう我慢の限界なんだろ? なら仕方ないさ、行けばいいじゃないか。代わりにランディはここで俺が面倒みるからさ、二人は冒険でもなんでも、好きなところに行けばいいよ」
冷やかに告げるシオンが本気であることを、父はこの期に及んでようやく理解したようだった。
血の気が引いた顔で、なおも何か抗弁しようとしてぱくぱくと口を開閉させるが、父は結局それ以上、何の言葉も口にできなかった。
薄く笑うシオンを、もはや言葉もなく見つめる両親の顔に浮かぶ表情は――きっとあの頃の自分が二人を見ていたときと同じ。
得体の知れない怪物を凝視する、哀れな人間が浮かべるだろうそれだった。
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