23.忘れられない、《仲間》です・⑤


 テヴェール川の支流。

 大人であればせいぜい踝までしか届かないだろう浅い川の岸べに、それはそうした形の彫像のように転がっていた。


 若い雌鹿の死骸である。

 酸を浴びたように頭が溶け爛れ、腸を貪り食われた食い残しの亡骸だった。腐食の毒息を浴びた死体特有の、鼻をつく腐肉の臭いが、川面から立ち上る水の匂いに溶け混じりながら一帯の森へと薄く不吉に広がっていた。

 死骸の状態をつぶさに検分し、シオンはじっとりと滲む嫌な汗を拭った。


(相当に飢えてるな……こいつは)


 雌鹿の死体は脚や首筋に、吸血鬼に噛まれたかのような牙の痕が残っていた。いくつもいくつも、執念といえるほどの執拗さでつけられた、無数の噛み痕だ。

 《双頭蛇竜アンフィスバエナ》の双頭は蛇を思わせる形をしているが、彼らは一般的なイメージの蛇がそうするような、獲物の丸呑みはしない。代わりに獲物の腹を牙で引き裂き、柔らかい内臓を貪り食う。

 裏を返せば、彼らは獲物の内臓以外を口にしない。正確を期すなら、口にすることができない。

 蛇のそれと酷似した牙を持つ口吻のつくりも、ごつく大きな爪のつくりも、硬い筋肉を千切り貪るには向かない。故にアンフィスバエナに殺された獲物の亡骸は、内臓をごっそりこそがれた惨たらしい有様で残される。


 だが、この雌鹿の死骸には噛み痕がある。

 それは、恐らくそうはできないだろうと理解していながら、なお獲物の筋肉を噛み千切ろうとした試みの痕跡だ。

 自身のつがいが斃されたことを、既に察している――卵の出産ないし幼体の孵化を近く控えた雌のアンフィスバエナは、少しでも多くの肉を貪り、自身と子供のための栄養を蓄えようとしている。

 さらにシオンの危機感を煽ったのは、死体の状態がまだ新しいことだった。


 ちらと視線を外して後方を伺えば、そこにはランディたちが秘密のアジトにしているツリーハウスがある。

 魔物は近くに潜んでいる。子供の足でも遊び場にできるような、人里近くに。


 きわめて危険な状態だった。元より好戦的、なおかつ子供のためになりふり構わず襲ってくる、獰猛な魔物だ。

 死に物狂いでかかってくる敵は怖い。命を惜しめばこそ生まれる怯みや隙が、そこにはないからだ。

 そんな危険な魔物が、人里のすぐ近くに潜んでいる。

 好機と見做す何かがあれば――いや、たとえそんなものがなかったとしても、この魔物は腹を満たすための獲物を求めて、トスカの町を襲いかねない。

 それは明日の出来事かもしれず、あるいは今日この日のうちに起こる惨劇かもしれない。


(そうなる前に。やれるか、シオン・ウィナザード――自分一人の力で、この魔物を仕留めることが……)


「難しい顔してるわね、シオン」


「!」


 瞬時に身構え、剣に手をかけながら。

 シオンは己の醜態に舌打ちしかけた。声を掛けられるまで相手の気配に気づけなかった。完全に自失していたことに、その呼びかけで気づかされたのだ。

 森の茂みをかき分けて、狼を思わせる獣人の娘が姿を見せた。


「ビアンカ……」


「昨日ぶり、シオン。その様子だと、貴方は向こうの尻尾を捕まえたみたいね」


 ビアンカの後に続いて、冒険者たちが姿を見せる。一人はやせぎすなエルフ。一人は長身の神官。

 ジーナスとロニオン。だが、二人が姿を見せてなお、その後に続く茂みの音があった。

 最後に姿を現わした一人――空色の髪と魔女の三角帽子で瞳を隠した娘の姿に、シオンは息を呑んだ。


「フリス……!?」


 シオンにとってたった一人の、一番に信頼していた幼馴染。

 ランディのため、町に残っているはずの彼女が、いたたまれないように俯きながらそこに立っていた。


「何で、お前っ――町はどうした! ランディは!? 俺がいない間のことは、お前に頼むって言っただろう!!」


「っ、ご……ごめんな、さ」


「やめてあげて、シオン」


 身を縮めて怯えるフリスを、ビアンカが庇った。


「フリスは貴方を助けるために来たの。不本意だろうけど、分かってあげて」


「何を呑気なこと言ってるんだ! 迷宮の、肉食の魔物だぞ!? あいつらは人間を恐れない。これが森を出て町に入った日には、一体どんな酷いことになるか!」


だろォが。一刻の猶予もねェ、ぐだぐだやってる暇もねェ、今すぐにでも仕留めてやんなきゃならねェ厄ネタの魔物なんだろうが」


 ジーナスが舌打ちし、ずかずかと近づいてくる。


「そォだろシオン。何だオイ、テメェ物の順序がグチャグチャじゃねえか――冒険者辞めて人里でノンキこいてよ、仕舞いにゃアタマ沸きやがったか。えェ?」


 苛立たしく顰めた顔を、額同士が激突する寸前まで詰めて放たれた荒々しい指摘に、シオンは返す言葉もなかった。

 完全に判断を誤った。――いや、仮にそこまではいかなかったとしても、ジーナスの喝破は紛れもなく一面の真実だ。


「……どうして、俺がここにいると分かった」


 森へ探索に入るとは言ったが、詳細な行程はフリスにも伝えていなかった。

 というより、伝えようがなかった。アンフィスバエナとの交戦経験こそあれ、迷宮の外に出たアンフィスバエナを追討した経験はさすがにない。何より、いざ探索を念頭に森へ踏み込むとなれば、情報も十分ではなかった。


「森の猟師さんから、雨宿りや仮眠に使う洞窟や仮小屋の場所を聞いていたんでしょう?」


 ビアンカが指摘した。

 確かに、ファリダン氏――弟の友達の父親である狩人から、森の中の地形を能うる限り、そして仮の宿りに用いる小屋や洞窟の場所を教えてもらっていた。

 アンフィスバエナは迷宮の魔物だ。日光の下で長く過ごす生態ではない。

 身をひそめるとしたら、少しでも迷宮に近しい環境――日の差し込まない洞窟の中だろうと踏んでいたし、件の洞窟には森の中で何らかの事態が発生した時のための物資がある。多少程度の量ではあるが、そこには保存食の類も備蓄されている。

 

「候補となる場所の位置が分かっているなら、あとは水源をあたりながらひとつひとつしらみつぶしに、ってところかしら。最初にオスを仕留めたところを起点にするのもまあ妥当よね。何もないところから始めるよりは当たりを引ける可能性が高いでしょうし」


 ビアンカは一旦言葉を切って、シオンを見た。


「という訳で。煎じ詰めれば、まあ――勘よね」


「そう言う割には、しっかりこっちの思考を読んでるじゃないか」


「つきあい長いからね。貴方のやりくちはよーく知ってるわ。堅実で王道、まずは起点を固めるところから」


 邪気のない笑みを広げるビアンカ。

 シオンは肩を落とし、降参の意を示すように両手を上げた。


「ビアンカの言う通りだよ。最初にアンフィスバエナが倒されたところに一番近い川辺から、上流か下流に辿ってみながら順に洞窟を当たるつもりでいた。が――」


「この近場には、潜伏できるような洞窟がない?」


 ロニオンが言う。シオンは首肯した。


「そうだ。狩人の仮宿どころか、獣の巣穴になりそうな場所もない。手当たり次第で探し回るのは――さすがに、躊躇ためらわれる相手だしな」


「さすがのシオン様も、毒息ブレスは怖ェってことだわな」


「怖くないやつがいるっていうならぜひお目にかかってみたいね。悪態はともかく、アンフィスバエナがこの近くにいるのは間違いないと思うんだが」


 その言葉に。

 どういうわけか仲間たちは、互いの目を見かわした。

 彼らが一様に広げた表情で、シオンは不意に察する。


「おい、まさか――」


「そのまさか。心当たりがあるわ」


 ビアンカは川辺に降り、シオンの前に立つ。仲間達も同様に。

 フリスは――ビアンカの後ろに隠れて、おずおずとシオンの顔色を伺っていたが。


「手を組みましょう。私たち」


 握手を求めるように、肉球つきのてのひらが差し出された。


「目的は同じ魔物の掃討。近くに魔物を捉えた今が、その好機なのだから――私たちで手を組んで、アンフィスバエナを討ちましょう」


「……だが」


「シオン、くんっ」


 フリスが、訴えた。

 ビアンカの陰から自ら進み出て、震える声を振り絞った。


「やろ、よ。シオンくん。わたし……わたし、そう、したいっ。だって、わわ、わたしたち……」


「フリス――」


「わたし、たちっ! ずっと、な、なか……!」


「――仲間だから」


 フリスは射すくめられたように、ばっと顔を上げた。

 必死になるあまり耳まで赤くなって、今にも泣き出しそうに涙ぐんだ彼女を、シオンは見ていた。

 他にどうしようもないというように、ただ、優しく。


「そういうことだろ、フリス。だからお前は――ビアンカ達を連れてきてくれたんだな」


「っ……! ご、ごめ、なさ」


「いいさ。いや、謝らないでくれ。きっとフリスの方が正しい」


 シオンのてのひらが、フリスの髪を撫でた。

 それで、フリスの中でずっと張りつめていた糸がいっぺんに切れたようだった。金色の瞳からとうとう涙が溢れ、魔女の娘はぽろぽろと零れた涙に濡れる顔を覆って、押し殺した嗚咽に肩を震わせていた。


 シオンは魔女の帽子を取ってやり、慰めるようにフリスの頭を撫でていった。

 フリスは泣きながら身を寄せて、幼馴染の青年の、てのひらの暖かさに身を委ねていた。


「……もうそろそろいいですかね?」


 どれくらいの間、そうしていただろう。

 いささか食傷気味といった体で、ロニオンが水をさす。

 途端、フリスは一瞬で真っ赤になって、ぱっとシオンの傍から離れた。

 「もう大丈夫だ」という代わりに振り子のように激しく首を縦に振るフリスをなだめ、魔女の帽子を返してやってから――シオンはあらためて、一同を見渡した。


「目星はついているって言ったよな、ビアンカ。ここからだと上流と下流、どっちだ?」


「上流。岸が狭くなるらしいから、靴を濡らすことになるわよ」


「それは織り込み済みだ。先頭はビアンカが頼む。最後尾はジーナス。残りはその間でいこう」


 感覚が鋭く、探索に長けた二人に前後を任せ、能うる限りの安全を確保する。

 『五人』だった頃の、一番安定する隊列だった。


「テメェが仕切ンのかよ。いきなり」


「代案があるなら言ってくれ。俺はブランクもあるし、代わってくれるならそれでも構わない」


「ねェよンなもん。それでいい」


 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くジーナス。

 ビアンカが小さく笑った。


「ロニオン、フリスの足元に気をつけておいてあげて。その子の靴、今日は探索向きじゃないみたいだから」


「え? えっ!? あ――」


 指摘されて、フリスは初めて気づいたらしい。

 冒険から離れて以来、フリスは実用一点張りのブーツをやめ、街の女の子が履くようなヒールつきのおしゃれでかわいい靴を履くようになった。彼女のちいさな足によく似合う、かわいらしい靴だ。

 当然今日も、足元はその靴だった。

 キョドキョドとせわしなくあちこちに視線を向けるフリスは、今の今まで、本当に自分の足元に注意が及んでいなかったらしい。そんな足元で、彼女はここまで森の中を歩いてきた――


(それだけ、必死だったってことか……)


 緊張に張りつめていた胸の内側が、少しだけ暖かくなる。

 そうさせたのが自分であるということを思えば、後ろめたく思う気持ちも同時にこみあげてはきたけれど。


「ここまでの経緯はおいおい訊かせてもらうとして――とにかくこうなった以上、速攻で片をつけて町に帰る。ユイリィさんがついてるって言ったって、ランディを一人で長いこと放っておく訳にはいかないからな」


「ユイリィって、弟クンと一緒にいる《機甲人形オートマタ》の子よね? あの子がいるなら弟クン一人じゃないでしょ」


だよ。彼女はあくまで《機甲人形オートマタ》だ。機械仕掛けの人形なんだから」


 一人、のところを強調して、シオンは繰り返す。

 仲間たちは意図するところを図りかねてか、互いの顔を見合わせる。

 まあ、そうだろう。ビアンカたちは彼女に思うところなどある筈もないし、それはフリスも同様らしかったが――けれどシオンは決して、そこを譲る訳にはいかなかった。


「いい子そうだったけどなぁ……ねえシオン、貴方あの子に何か思うところでもある訳?」


「これはあれですか。嫉妬ですかねぇ?」


「ウィナザード弟がお人形ちゃんに取られちまうよォ~、ってか? はは、ダッセ」


「違っ……し、シオンくんは……あの、ほら、つよいから。責任感。責任感、ね?」


「……何とでも。好きに言ってくれ」


 言い捨てて歩き出す。

 どう言われようと、シオンはそこを妥協するつもりはない。


 憤然と歩みを進めるシオンのその前に、すっとビアンカが進み出た。

 シオンのすぐ後ろにフリス。彼女がよろけた時に補助できる位置へロニオンが。

 そして最後尾に、周囲へ鋭く目を光らせるジーナスがついた。

 周囲の気配に神経を張り巡らしながら、一行は上流へと川を昇りはじめる。


「さっきの話だけど、シオン」


 雑談の続き、といった気楽さで、ビアンカが声だけ投げてきた。


「ユイリィちゃんがどうであれ、弟クンは『一人』じゃないから安心なさい。あの子のことは《黄金の林檎》亭のご亭主に預けてきたわ」


「何だって?」


 シオンは困惑を露に眉をひそめる。

 状況がさっぱり判らなかったせいだ。どうしてランディが――いや、仮にそうだとしても、どうしてビアンカがこうもランディと親しげなのか。

 ふと気づいて周りを見れば、ロニオンやジーナス、フリスまでもが表情を緩ませている。シオンの反応にか、他の理由か。

 そんなシオンを振り返り――ビアンカは睫の長い眦を細めると、からかうように微笑んでみせた。


「帰ったらあの子にお礼言いなさいね、シオン」


 ビアンカがその答えを詳らかにする。


「私たちの『心当たり』を見つけてくれたのは、あの子――いえ」


 ――あの子たち、と言うべきなのかしらね。


 そう言い直し、告げてから。

 ビアンカは正面を向き、そして川底の石を踏んで進む歩みを、力強く前へと進めていった。

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