05.今日からわたしは、あなたの《お姉ちゃん》です・④
森の周縁を這う蛇のようにうねうねと伸びた、川沿いの道だった。
ルクテシア島第三の大都市たるコートフェル。その南門まで半刻とかからないその場所で横転した幌馬車を最初に見つけたのは、たまたまそこを通りかかった近隣の農夫だった。
荷馬車いっぱいの野菜をコートフェル市街の朝市で売って、空になった荷馬車とあたたかくなった懐にほくほくしながら家路についていた彼がその馬車を見つけられたのは――思った以上の売り上げに気をよくした彼が、家で待つ妻と子供への土産にと繁華街の甘い菓子を買い求め、その気まぐれな寄り道のために、いつもと違う道、違う門を通って帰宅の途についていたせいだった。
自分の荷馬車を止め、横倒しになった幌馬車へ急ぎ駆け寄った農夫は、その先にあった光景に思わず上げかけた悲鳴を、すんでのところで飲み込んだ。
長距離の輸送に用いる、三頭立ての大型馬車だった。
繋がれていた馬はそのことごとくが物言わぬ死骸と変わって、さながらそうした形の像であるかのように地面に転がっていた。
皮膚と肉が熔け腐り、猛烈な異臭を放っていた。
臓腑を食い千切られた腹の部分がぽっかりと欠け、食い残しとなった皮のあまりが黒ずんだ血に塗れて垂れ下がっていた。
馬ばかりではない。馬車の近くには護衛と思しき冒険者風の男女が倒れていたが、こちらもごっそりと内臓を抉られていた。
明らかに、獣の類に食われた痕だ。
異様なのは、人も馬も、腐り熔けた部分とそうでない部分にはっきりと分かれていたことだ。累々と転がる死体の有様は、さながら強烈な酸を浴びでもしたかのようだった。
檻は扉の鍵が外れて、ぽっかりと戸が開いていた。
道や下草を踏み荒らした真新しい足跡が、森の奥へ向かって伸びていた。
『それ』の行き先を認めた農夫は、震える足を叱咤してよろよろと自分の馬車へ戻り、馬首を返してコートフェルの南門へと急ぎ引き返しはじめた。
心臓は恐怖に早鐘を打ち、総身から血の気が引いて目の前の視界が歪んでいた。
だがそんなものになど構ってなどいられない現状を、農夫は過たず理解していた。
――三頭の馬と二人の冒険者を物言わぬ死体に変えた危険な獣が、森の中に入ってしまった。
東方にそびえるユニス山脈の山並みからコートフェル郊外まで広がるルクテシア島最大の大森林は、テヴェール川とその支流を水源として豊かな緑を湛え、今の季節なら野の獣や薬草を求めて四方の町村から森へ立ち入る者も多くある。やんちゃな子供が遊び場にしていることも、決して少なくない――親たちは危険だからと注意して子供達を森に入れまいとするが、遊び盛りの子供たちだ。親の言いつけに大人しく従う者ばかりではない。
――コートフェルの警衛に、報せなくては。
そうでなければ、荒事をその生業とする魔物狩りの冒険者に。一刻も早く。
自分と同じく、異様な事態に怯えきって震える馬へ懸命に呼びかけながら。農夫は手綱を操り、馬車を急がせた。
◆
パンと野菜たっぷりのスープ、ベーコンと卵の昼食を大急ぎで平らげたランディは、口の中に残った食べ物を牛乳で流し込んで食卓から飛び出した。
「ごちそうさまぁ!」
「はい、おそまつさま。ぜんぶ食べられてえらいぞ」
「ごちそうさまでした」
「ああ、ユイリィさんもおそまつさま。お口には合ったかな」
「いってきまぁす!」
「おう、いってらっしゃい」
「とってもおいしかったです! いってきまーす」
…………………。
……ん?
玄関を出た直後。背中をついてきた少女の声に、ランディはぴたりと脚を止めた。
首をねじって後ろを振り仰いだその先には、ニコニコと満面の笑顔を広げたユイリィがいた。
「ユイリィ、おねえちゃん? え?」
「ユイリィもランディちゃんといっしょにお出かけしたいな。だめ?」
「だめ――いや、だめっていうか、その」
混乱しきった面持ちで、ランディは口ごもった。とっさに状況を理解できなかったのは、まさかユイリィみたいな『お姉さん』が遊びに出かけるランディの後ろについてくるなんて、これっぽっちも思わなかったせいだが。
はっきり言えば、「ダメ」だ。
ついてこられるのは困る。だが、
でも、楽しそうにニコニコしている『ユイリィおねえちゃん』を冷たく突っぱねるのを、ランディは
自分の返答に対する期待でそわそわニコニコしているこの『お姉さん』にあらためて『否』を突き付けるには、ランディは心根のつくりが甘すぎた。
頭を抱えて唸った末、ランディは走り出した。決断はつけかねていたが、それで足を止めていたら本当に約束に遅れてしまう。
ルクテシア島第三の都市コートフェルの郊外――ランディが住むトスカの町は、のどかでちいさな郊外の町だ。
コートフェルの南門から伸びた広い道が町の中央を北東から南西へと走り、そこから左右に枝分かれした道に沿って木やレンガ、漆喰の家々が並んでいる。町は西を広々とした農地に、後背となる東側を深い森に挟まれ、道に沿って立ち並ぶ家並みはこぢんまりと身を寄せ合うようにしながら、町を形作っていた。
そんなトスカの背骨というべき広い道を、ランディはせわしなく駆け抜ける。そんな彼の後ろを、ユイリィはリズミカルな駆け足でついてくる。
走って目的地へ向かう間にどうしたものかと悩んだ末、ランディはおずおずと切り出した。
「……えっとさー」
「うん」
「その……今から行くとこって、ぼくらの秘密の隠れ家で」
「ひみつの隠れ家! いいなぁひみつの隠れ家、素敵な響きだねっ」
「そ、そう? だよね……って、そうじゃなくて! じゃなくてさ」
そう。秘密の隠れ家。
森の奥――コートフェルの水源にして水路たるテヴェール川から別れた支流が流れる川辺に作った、ランディたちの秘密の隠れ家。そこは秘密であるがゆえに仲間以外には秘密なので、他人を連れてきてはいけないし存在をしゃべってもいけないという鉄の掟で護られている。
特に、大人にはぜったいにしゃべってはいけないことになっている。尊敬する兄のシオンにだってしゃべってはいけない。
その場所に――ユイリィを連れていって、果たしていいものか。
「………………」
「?」
「えっと……」
気まずく見上げるランディと視線が合うと、ユイリィは小鳥みたいにこきゅっと首をかしげる。
――年上のおねえさん。
だけど、『大人』って感じでは、ない。
むしろ親しみやすくて、ちょっと親近感すらわいていた。
「途中までついてきてもいいけど、ぼくが『待って』って言ったらそこで待っててくれる?」
「もちろんいいよ。でもどうして?」
「……秘密の隠れ家は、仲間以外入っちゃだめだから」
その拒絶じみた答えでユイリィが悲しい顔をしないように、「だから」と口早に言い足して、ランディは続ける。
「あのさ、だからね! ユイリィおねえちゃんを仲間に入れていいか、みんなに訊いてくるから」
「ほんとに? いいの?」
「ほんと。いいよ。入れてもらえるように頼んでみる」
「やーったっ!」
ぴょんっ。
と、ユイリィは飛び跳ねた。
ついでとばかりに、ぎょっと目を剥くランディの身体を持ち上げて、ぬいぐるみみたいにぎゅっと抱き締める。
「ぅえぇ!?」
「えへへー……ユイリィとランディちゃんはひみつの仲間かぁ。ね、とっても素敵だね! 楽しみ!」
「う、うん……うん?」
ニコニコしながらランディの身体を下ろすユイリィに、ぎこちない相槌を返す。
心臓がばくばく早鐘を打っていた。今日会ったばかりのお姉さんに急に抱き締められるなんてこれっぽっちも思っていなかったせいか、離れた後も頭の中がチカチカして、目の前がちょっとくらくらした。
三つ編みで一本のしっぽにした長い髪とか、ぶかぶかしたシャツやハーフパンツの裾がふわっとしたとか、抱きしめられたときに鼻先をくすぐったいような匂いがかすめたのとか。
そんなことに、なぜだか急にドキドキしてしまった胸を困惑混じりにてのひらで抑えながら、ランディは角を曲がって森の方に向かった。
◆
狩人や
道さえ外れなければ子供の足でもかなり奥まで入れるし、それでなくても元が平坦でよく手入れのされた森なので、ちょっとくらい道を外れてもそうそう迷うことはない。
目印の組紐を結んだところで獣道に逸れて、川沿いに続く緩やかな下りを降りてゆく。
二つ目の目印である大きな木の麓で、ランディは一旦その脚を止めた。
「ユイリィおねえちゃんはここで待ってて。ぼくが戻ってくるまでどっか行ったらだめだよ」
「うん、ユイリィはここで待ってるよ。いってらっしゃい」
「……いってきます」
ちいさく手を振るユイリィに背中を押してもらえているような心地になりながら、ランディは足早に隠れ家までの道を走り抜ける。
この地域一帯を潤す水源テヴェール川、その支流のひとつ――といっても、せいぜいランディたちの脛くらいまでしか水がない、浅くてちいさな流れの川べり。
川面からじゅうぶん離れていて、下草のしっかりして地面に生えた頑丈な木の上に、みんなで材木やらなにやらを持ち寄って作ったツリーハウスがある。そこが、ランディたちの『ひみつの隠れ家』だ。
窓から人影が見えたので、もう誰か来てはいるのだろう。
上からだらんと下がった縄ばしごをするすると昇って、ランディは樹上の小屋に入った。
「ごめん! 遅れた!」
「おっそ――――い!!」
ランディが謝るのとほとんど同時に、突風のように響き渡る甲高い声が顔面を叩いた。
明るい金髪を頭の左右でくくった女の子が、憤然と肩をいからせながらランディを見下ろしていた。
「おそいおそいおっそ――――いっ! もうみんな集まってる! いったいなにしてたのよこのノロマっ!!」
「ごめん! ごめんってラフィ……ちょっと出掛けにバタバタしちゃって」
「言い訳禁止! そういうちょっとした気のゆるみが命取りになるのが冒険者ってものなんだから、あんたもちゃんとわかりなさいよね、そういうとこっ!」
ランディの目の前でぴこぴこと指を振りながら、不機嫌な顔をずいと寄せてくる。
「いい? あんた、シオンさんの弟なんだからっ。一流の冒険者になるんならそういうの、いいかげんキチンとわかりなさいよね! ね!?」
「だからごめんってー」
年頃の割にほっそりした顎をつんと上向けて、女の子――ラフィが鼻を鳴らす。
きれいなアーモンド型の目と、どれだけ外で遊んでもいっこうに日焼けしない白い肌をしていて、それから怒りっぽくてよくしゃべる、ランディの従姉妹だ。
「ランディは時間ぴったりだよ。べつに遅れてない」
「はあ?」
壁際から飛んできた声に、ラフィはほっそりした眉をひそめて振り返る。
それまで隠れ家の壁にもたれて黙々と本を読んでいた眼鏡をかけた男の子、ユーティスがうんざりと視線を上げる。
長めに伸びた前髪をうっとおしげに払って、チェーンで首から下げた懐中時計――大人でも持っているひとなんてなかなかいないおしゃれなそれを、手で持ち上げて示す。
「今が約束の時間。ちょうどぴったり」
ぱちりとボタンをおして瀟洒な刻印入りの蓋を開くと、現れた文字盤の針はユーティスの言葉通り、約束の時間ちょうどを指していた。
怒りに水を差されたラフィが、「ぐぅ」と鼻白む。
「だっ、だったらなによぉ! だいたいそんなの、時計がズレてるかもしんないしっ!」
「今日、正午の鐘に合わせたばかりだよ。教会の鐘は日時計と合わせてるから、正午の鐘は正確だ」
「あたしなんかもう三十分は前からここに来てたんですけど!?」
「知ってるよ、僕はラフィよりももっと早く来てたしね」
唾を飛ばして喚くラフィに、ユーティスはこゆるぎもせず淡々と言い返す。
「でも、それこそ『だったらなに?』でしょ。現にランディは遅れてないし、ラフィも僕も勝手に早く来ただけだ」
「はああ――――!? なによそのつっかかる言い方! あんた、あたしが悪いとでもいいたいわけ!?」
「僕は事実の指摘をしただけ。それで引っかかる何かがあるんなら、ラフィの方にやましいところがあるんじゃない?」
「はあ――――っ!? あんた、いっつもそうやって屁理屈のへらず口! パーティのリーダーに向かってなんて言いぐさっ!!」
猛犬みたいな勢いでかみつくラフィ。ユーティスは「ふん」と鼻で笑った。
「リーダーって言われてもね。べつに僕はラフィのこと、リーダーだなんて思ったことないし」
「いつもながらいい度胸してんじゃない、このへりくつメガネ! 今日こそ決着つけてやるから表に出なさいな!」
「外へ行きたいならひとりで行けば? きみ鶏みたいにうるさいんだから、外で目覚まし代わりになってるくらいが世の中のためにいいことだよ」
「ら、ラフィ! ユートも! ぼくが悪かったからふたりともやめて! ごめんって!!」
バチバチと火花を散らす二人の間に、内心戦々恐々としながらむりやり割って入る。
二人はランディを間に挟んでなおもにらみ合っていたが、やがて「ふん」と同時にそっぽを向いた。ひとまずは角突き合わせるのがおさまって、ランディは大きく安堵の息をつく。
「ね、ランディくん」
くいくいと、シャツの裾を引っ張る手があった。
亜麻色の髪とエメラルドの瞳をしたひときわ小柄な女の子――エイミーが、おずおずとランディを見上げていた。
「ばたばた……って、なにがあったの?」
「………………」
小鳥みたいに首をかしげるエイミーの隣にもう一人。
口元を隠すみたいに、冬でもないのにいつもぐるぐるとマフラーを巻いている、ぼーっとした目とツンツン髪の男の子――リテークが、同意を示すようにコクコクと頷いている。
「あ、っと……うん。実は今日、今からその話がしたいんだけど」
ランディはちらりと目を走らせ、ラフィとユーティスの二人の様子を伺う。
ラフィ・ウィナザード。
ユーティス・クローレンス。
エイミー・ノーツ
リテーク・ファリダン。
ランディと合わせて五人。
コートフェル郊外のちいさな町で育って、みんな物心ついた時から一緒に遊んでいる同い年の幼馴染。そして未来の冒険者を志す仲間。
このひみつの隠れ家を共有する、仲良しの友達同士――まあ、ケンカが絶えない組み合わせもないわけではないけれど。
「最初から話すと長くなっちゃうんだけど。あのさ」
一様に興味を示している友人たちを見渡して、ランディは言う。
「実はね。これからここに、連れてきたいひとがいるんだ」
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