君との婚約を破――ッ!?

亜逸

君との婚約を破――ッ!?

「クレア! 今この時をもって、君との婚約を破――ッ!?」


 社交パーティの場で、公爵家長男のカストが、婚約者である侯爵家令嬢クレアに婚約破棄を言い渡そうとした瞬間の出来事だった。

 カストの背中に、鋭い痛みが走ったのは。


 いったい何が起きたのかわからず、錆び付いた扉のようなぎこちなさで首だけを振り返らせ……愕然とする。

 背中――正確には右の肋骨の下あたりに、ナイフが刺さっていたのだ。

 おまけに自分を刺した相手は、背中の激痛を一瞬忘れてしまうほどに愕然とさせられる人物だった。


 自分を刺した相手は、婚約破棄を言い渡そうとしたクレア――ではなかった。


 クレアとの婚約を破棄し、新たに婚約を結ぼうとしていた相手――カリンだった。


(なぜ、カリンが……?)


 そんな疑問とともに床に倒れ伏す。

 遅れて紳士淑女たちが悲鳴を上げ、パーティ会場が混乱の坩堝るつぼと化す。

 その最中さなかにあってなお、衛兵に連れて行かれようとしているカリンの金切り声が、カストの耳によく響いた。


「何が『本当に愛しているのは君だけだ』よっ!! あんたいったい何人の娘に手ぇ出したのよっ!!」


 君とクレアを含めて四人だ――と、心の中で思う。


(だが……おかしい……。カリンには……僕の浮気相手は知られてなかったはず……)


 まさか、三人目ミレーヌが密告した?

 だとしたら、なんてひどい女だ。

 あれほど僕との関係は秘密にしてくれと頼んでいたのに、その約束を反故にするなんて人間の風上にも置けないクズだ。


 最近会っていない四人目シフォンも怪しい。

 カリンという、下半身的な意味で相性最高な伴侶パートナーと出会って以来、シフォンが相手ではもう満足できない体になってしまった。

 そのせいで疎遠になってしまったことを逆恨みされて、僕が四股していることをカリンに吹き込んだのかもしれない。

 どうやら僕は、とんでもないカスと関係を持ってしまったようだ。


 それにしても、女とは本当に最低な生き物だな。

 あれほど良い思いをさせてやったというのに、僕のことを裏切ってる。

 婚約の約束をしてやったカリンに至っては、僕のことを刺したときている。


 だがまあ、これくらい問題はないだろう。

 このパーティの会場となっている城には、治癒魔法のエキスパートが大勢いる。

 命が危ぶまれるほどの重傷でも、あっという間に完治してのけるほどの。


(だが……だがだがだがだがッ!! この激痛のお礼だけは、きっちりとしなきゃなぁッ!!)


 カリンも、ミレーヌも、シフォンも、僕を傷つけたことを死ぬほど後悔させてやる――などと、手前勝手な憎悪を膨れ上がらせていた、その時だった。


「大丈夫ですか! カスト様!」


 婚約者のクレアが、必死の面持ちでカストに駆け寄ってきたのは。


「早く! 早くこちらに!」


 すでに手配していたのか、治癒魔法使いたちがクレアの呼び声に応え、カストのもとに集まってくる。


(ああ……僕はなんという過ちを犯そうとしていたんだ……)


 クレアは、他のクズ女三人とは違い、心の底から僕のことを心配をしてくれている。

 そんな素敵な女性との婚約を、下半身に命じられるがままに破棄しようとしていたなんて。


 などと、目尻に涙すら浮かべるカストに、クレアは吐息がかかるほどに顔を近づける。


 そして、魔法使いたちが治癒魔法に集中するのを見計らい、カストにだけ聞こえる小さな声で耳打ちした。


「ここから先のことは、どうかご心配なく。カスト様のご要望どおり、わたくしと貴方の婚約はちゃ~んと破棄しておきますので」


(…………………………は?)


 背中を刺された激痛で声を発することができないカストは、心の中で呆けた声を漏らす。

 そんなカストには構わず、クレアは心配のあまりに婚約者に泣きつく体を装いながらも話を続ける。


「それから、頭の悪いカスト様はご存じないかと思いますが、この国には、婚約あるいは結婚の契りを交わしていながら、二人以上の女性と関係を持った男性の生殖器を切除するという法律が存在しているのですよ」


(…………………………へ?)


 再び、心の中で呆けた声を漏らす。


「苦労しましたよ。貴方の浮気相手を調べあげた上で、わたくしの仕業だとわからないよう、カスト様の浮気をカリン様に伝えるのは」


 クレアの言っていることが、まるで理解できなかった。


「カリン様がくだんの法律を知っているかどうかは賭けでしたが、知らずに狙い通りに凶行に及んでくれてホッとしました。カスト様のカスさ加減には辟易していましたので、婚約を破棄されることくらいはどうということはありませんが、だからといって一応はわたくしの婚約者を寝取られるのは、気分の良いものではありませんからね」


 ……いや。理解はできる。


「ああ、ミレーヌ様とシフォン様にも、相応の罰を与えるつもりなので、どうかご安心を」


 ただ、心が理解することを拒んでいた。


「だから、しっかりと傷を癒して、しっかりと法の裁きを受けてくださいね」


 そう言って、クレアは口の端を吊り上げる。

 そのあまりにも悪魔的な絵面に、カストは、自分がとんでもない婚約者を相手に、浮気に走るという愚行を犯してしまったことを思い知る。

 だが、もう何もかもが後の祭りだった。


 それからほどなくして、背中の刺し傷が完治する。

 ようやくまともに口が聞けるようになったカストの第一声は、


「あぁああぁぁぁぁああぁあぁああぁあぁああぁぁあぁッ!!」


 正気というものをまるで感じさせない、獣じみた絶叫だった。


 誰も彼もが吃驚する中、クレア一人だけが満足げに口の端を吊り上げていた……。

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