第31話 それぞれの苦悩
ひかりは美術室を出て自分の教室へと向かっていた。
途中で足を止め、誰もいない階段の踊り場の壁に背を預ける。
必死にこらえていた感情が行き場を求めてあふれ出し、とめどない涙がひかりの頬を伝う。
そのまましゃがみこんだひかりは、もう立ち上がれなくなっていた。
授業が始まっても帰ってこないひかりのことが心配になって、楓は教室を抜け出して美術室まで来ていた。
いない。部屋も鍵がかかってる。
それからさんざん探して、ようやく普段は殆ど人が通らない階段の踊り場でうずくまるひかりを見つけた。
駆け寄って尋常ではない様子のひかりに話しかける。
「どうしたの? 何かあったの?」
楓が話しかけてもひかりは顔を上げない。ただ肩を震わせながらしゃくり上げるだけだった。
「何があったの? 話して」
何度も何度もひかりの肩を揺さぶると、こらえきれずにひかりは楓にしがみついた。
涙が楓の制服を濡らす。
「高木君と何かあったのね」
楓の問いかけに、ひかりは頷いただけで何も話せなかった。
薄暗い階段の途中に二人は並ぶようにして座っている。
楓はひかりの涙をその胸で受け止めながら、しゃくり上げるひかりの背中をずっとさすってやっていた。
そしてひとしきり泣いたひかりの手を取って優しく握った。
「落ち着いた?」
ひかりが持っていた水筒のお茶をコップに注ぐと、まだ白い湯気を立てていた。
手に持たせて飲ませると、しばらくして泣きはらした目で頷いた。
「ごめんね。心配させて」
「馬鹿。私のことはいいの。さ、話して。何があったの?」
ひかりはティッシュではなをかむと、目をこすって何でもないと言った。
「なんでもなくないでしょ。可愛い顔をこんなにして、話してみて、楽になるよ」
楓はひかりの頭をまた胸に抱きよせた。
「お弁当……」
ぽつりとやっとひかりが口を開いた。
「おべんとう?」
楓が訊き返す。
「もう作れないんだ。お昼ご飯も一緒にもう食べれない……」
「どうして、どうして急に。理由は?」
楓の問いに、少しまた時間を置いてひかりは話した。
「高木君の手、だいぶ良くなったって。それでこれからは自分で作るんだって言ってた……ずっと私に甘えっぱなしだったからって……」
ひかりは小さく握った手で胸を押さえる。
「高木君が自分で作ったとしても、またあの美術室で一緒に食べたらいいじゃん」
ひかりはまた言葉に詰まりながら静かに返す。
「そろそろクラスの友達と食べようと思ってるって言われちゃった」
「なによそれ!」
楓は拳を握りしめて立ち上がった。
「許せない!」
「私、高木君のこと応援するって決めたんだ」
またひかりの眼から涙がこぼれ落ちた。
ひかりは痛みをこらえるかのように背中を丸めて声を震わせた。
「もう一緒にいられなくっても、私これからもずっと応援したいの……だから高木君のことそっとしておいてあげて」
ひかりの声は痛々しすぎて、楓はそれ以上何も言えなくなった。
「それと私が泣いてたってこと高木君には絶対に言わないで」
そしてひかりはまた両手で顔を覆い泣き出したのだった。
ひかりに誠司を直接問いつめたりしないよう約束させられた楓は、どうしても何かひかりの力になりたくて、放課後の校庭にいた勇磨を捉まえて何か知らないかと詰め寄った。
「どう考えてもひどいでしょ。でもひかりに高木君には直接訊かないよう口留めされてるから、あんたなら何か知らないかと思って」
それを聞いて珍しく勇磨は真剣な表情を見せた。
訊かれたことに勇磨は応えず、そのままその場で立ち尽くす。
「どうなのよ」
何か事情を知っていそうな勇磨をさらに楓は問い詰める。
しかし勇磨はそんな楓の問いかけに応えようとはしなかった。
「お前には話せない」
ただ一言を残して勇磨はその場を去ろうとした。その顔には楓と同じようにやるせなさが滲んでいた。
「なによ。やっぱりあんた何か知ってるんでしょ」
楓は勇磨の腕を必死に掴んで引き留める。
その力強さに楓の真剣さは伝わっているはずだった。しかし勇磨は足を止めようとはしなかった。
「何度も言わせるな。お前には話せないんだ」
それぞれの親友に対する強い思いが、不器用なこの二人をこんな形でぶつからせてしまっていた。
それでも楓は、腕を振り解こうとする勇磨を絶対に放さなかった。
「私はひかりが心配なの。今まであんなひかり見たことない。私だって力になりたいの」
楓の瞳に涙が浮かぶ。
声を震わせながら引き止めた楓に、とうとう勇磨は足を止めた。
そして振り返って大きく息を吐いた。
「俺だってそうだよ」
勇磨は苦しげな表情で初めて本音を口にした。
楓の真剣さが勇磨の中の何かを動かし始めた。
「一緒に来い」
勇磨は楓の腕を掴むと校舎へと踵を返した。
「どこに行くの?」
「いいからついてこい。多分俺たちじゃダメだ」
勇磨は楓の手を引いて走り出した。
そして二人は廊下に靴音を響かせながら、ただ少しでも友人の力になりたいと願い、そして祈るのだった。
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