第32話 誠司の秘密

 職員室でタバコをふかす島田の前に、勇磨と楓は息を切らして現れた。


「先生!」

「どした? おまえら珍しい組み合わせだな」

「相談があるんだ。今すぐ」


 勇磨の真剣な表情に、島田は煙草を消して席を立った。


「ついてこい」



 生徒のいなくなった教室に二人を連れてくると、島田はまず楓の話を聞いた。


「そうか、そうだろうとは思ってたよ」

「先生知ってたの?」


 楓は事情を知っていそうな島田の言葉に、どういうことなのかと首を傾げる。


「新、お前は義理堅い奴だな。高木との約束があったからどうしても橘に話せなくて困って俺のとこに来たんだろ」

「そのとおりだよ。先生どうしたらいい」

「そうだな……」


 島田は少しだけ考えようとしたが、すぐに腹をくくったようだった。


「橘、今から俺が話すことを口外しないって誓え」

「なに? どうゆうこと?」


 島田に突然真面目にそう言われ、なにも事情を知らない楓は一体何事かと戸惑う。


「新、お前は約束を破らなかった。口の軽いダメ教師の俺は今から橘に話す。高木には黙っとけよ」

「先生……」


 ずっと硬かった勇磨の表情がやっと少し和らいだ。


「橘、これから話すことは絶対誰にも口外禁止だ。時任には口が裂けても言うんじゃねえ」


 島田の真剣さが伝わり、楓は絶対に言わないと約束した。


「それでいい」


 そして普段は見せない真面目な表情で、島田は話し始めた。


「まず最初に、これは新も知ってることだが、高木の手はもう元には戻らない」


 島田の言ったことが唐突過ぎて理解が追いつかず、楓は一瞬沈黙し、そのあと両手で口を抑えた。


「そんな……」


 かなり動揺している様子の楓に、島田はもう少し詳しく補足する。


「今動かせない指は神経が切れていて治ることはない。残りの薬指と小指もかなり麻痺は残るらしい……あいつの右手はもう殆ど使い物にならないんだよ」


 楓は唖然として島田の話をただ聞くことしかできなかった。


「高木がそのことを病院で知らされたのは交流戦の少し前だ」


 島田は勇磨の方に目をやる。


「俺は高木親子二人から、新は高木から聞かされた。他の教師にも生徒にも口外しないでくれと頼まれたよ。特に時任にだけは絶対に言わないでくれと、あいつに念を押されてな」


 島田は癖で煙草を胸ポケットから取り出そうとしてまた戻した。


「新はあいつの変化に気付いていたんだろ」

「うん。なんとなく」

「なんだかんだ言ってお前らは深いとこで繋がってるみたいだからな、右手のことを部活の仲間にも言わず、お前だけに打ち明けたのがその証だよ。多分あいつ平気な顔してるけど、一人じゃ耐えられずお前に助けを求めたんだと思う」


 勇磨は真剣な表情で島田の話に耳を傾ける。


「お前は単純で的外れな奴だけど、俺はお前がいたことで高木は大丈夫だって思えたんだ」


 島田は机の上に腰かけ足を組んだ。


「交流戦の後、高木の雰囲気が明らかに変わったな」


 勇磨と同じように島田もその変化に気付いていたようだ。


「俺は高木が自分で乗り越えなくては意味がないと思って口出ししなかったけど……梶原となんかあったんだろ」


 島田は勇磨が一番気にしていたことを尋ねた。


「そのとおりだ。先生の言うとおりなんだ」


 絞り出すようにそう言って、勇磨は制服の胸の辺りを皺になる程握りしめた。


「言ってみろよ。おまえだってだいぶ溜め込んでるんだろ。楽になるぜ」


 勇磨はようやく、梶原と誠司の間で起こったことを吐き出すように全て話した。島田と楓はその話を黙ったまま聞き終えた。


「そうか、そんなことがあったか。お前も辛かっただろ、よく頑張ったな」


 勇磨は何かをこらえるように唇を結んで頷いた。

 楓は何も言わなかったが、拳を握りしめて込み上げる感情を我慢しているようだった。


「いい加減時任を解放してやれって言った梶原の言葉な、高木がずっと思ってたことだったんだと俺は思う。いつかはそうしないといけないと思いながら時任のことを諦めきれずに葛藤していたんだろう」


 島田はずっとあの手のかかる生徒を見守り続けていたのだろう。少年の胸の内を代弁するかのようにそう言った。


「あいつのこと、特に付き合いの短い橘には分かりづらいだろうな」


 何かを思い出すかのように少し島田は眼を細めた。


「高木が一年の時、俺があいつのクラスの担任になって美術部に入部届を持ってきた日、はっきり言って暗い奴だと思った。あんまり人と関わりを持とうとしないあいつに、無駄な青春時代過ごしやがってとそんな目で見てたんだ。でもな、あいつが黙々と描き続ける絵ができてくるにしたがって、少しずつあいつのことが分かってきたんだよ」


 島田の言葉には誠司に対する親しみが込められている様だった。


「口下手で人付き合いの悪い愛想のない奴……」


 島田はそこで一度言葉を区切った。


「違ったんだ。絵の中にあいつは自分の心の中をそのまま描いてしまうそんな素直な奴だったんだ。お前たちも大賞を取ったあの絵を見たことがあるだろ」


 それはあの青い桔梗の花の絵のことだった。

 何度か目にしていた二人は頷いた。


「あれはあいつが中三の時に亡くなった母親の見舞いに持って行った最後の花なんだ」

「そうだったんだ……」


 楓は胸を押さえて切なさを滲ませた。


「あの花を持って行ったときに、あいつの母親はものすごく喜んでくれたって言ってた。あいつにとっては母親との最後の思い出を切り取った一枚だったんだろうな」


 黙々と桔梗の花の絵を描いていた誠司を振り返るように、島田は話し続けた。


「失ってしまったものを取り戻したい。そんなあいつの胸の内が痛々しいほど詰まった一枚だった。何故か胸を打つ何の変哲もない花の絵。当時審査員をした者は口々にそう言っていたよ」


 島田は誠司が描いた傑作についての話をこうして語った。


「すまんな、話が脱線したみたいだ。つまり俺が言いたいのはこういうことなんだ。ようするにあいつは絵を描く以外で何かを表現するのが苦手なんだ」


 島田は誠司についての核心を、そのひと言で言い表した。

 その話を胸を打たれたようにじっと聞いていた楓は、ここで一つ質問をした。


「高木君が心の中にあるものを素直にキャンバスに描いてしまうのは分かったけど、そのことがひかりとどう関係してるの?」


 納得できていない楓に、島田はさらに誠司についての過去を語り始めた。


「まあ聞け橘、それまで衝き動かされるようにキャンバスに向かっていたあいつは、桔梗の花の絵を描き上げた時点で目標を失ってしまったんだ。母親の死を受け容れ、同時に絵を描く情熱を無くしてしまったあいつの目には、きっと味気ない色褪せた景色しか映っていなかったに違いない。そんな時にあいつの前に現れたのが時任だったんだ」


 島田はまるで懐かしいものを思い出すかのようにそう言った。


「俺が気付いた時には、高木はキャンバスに向かってたよ。ひたむきに夢を追いかける時任の姿に、きっとあいつは憧れを抱いていたんじゃないかな。自分もあの少女のように思い切り飛んでみたい。そんな風に高木は思い、前に進みだしたんだと思う」


 それから島田は、ようやく誠司の心の中にあるであろう、ひかりへの想いを口にした。


「俺には何となく分かるんだ。おまえたちの話を聞いている限り、多分、間違いなく、時任を遠ざけたのは時任を守るためだ」

「どうして? ひかりのこと思ってるんなら一緒にいるべきじゃない」

「だからお前には相談できないんだよ」


 勇磨に水をさされ楓は「なによ」と返す。

 

「ああ、橘の気持ちも分かる。お前たちの年頃なら真っ直ぐに自分の気持ちを出していいんだ」


 島田は楓の気持ちを肯定するように頷いた。


「だがあいつはそう考えられない奴なんだ。あいつにとっては時任以上に大切なものなんか無いんだよ。バスの中で刃物男の前に躊躇いもなく立ちはだかれる高木には、時任の為なら自分を傷つけることだってできるんだ」


 楓はその言葉にハッとした。核心を突く島田の話はまだ続いていた。


「高木の近くにいればいるほど、隠しても必ずそのうちに時任は手のことに気付くだろう。そしてそれがもう治ることが無いと知ったら時任は重い責任を感じてしまうに違いない。そして高木の手助けをしようとして動かない指を見るたびに、時任は辛い思いをずっと持ち続けることになる」 


 島田はここまで話すと一度目を閉じ、やるせなさを滲ませた。


「それだけはできないんだよ。あいつにはそれだけは」

「そんな……悲しすぎるよ」


 楓は気が付いたら涙を流していた。

 勇磨は唇を噛み締める。


「俺はこの高木の決断に何も口出しはしないつもりだ」

「先生そんなの、そんなのダメだよ」


 溢れ出した楓の涙が床を濡らす。

 何の解決策も見いだせない島田の話に、楓はその現実を受け容れられず涙を流し続けた。

 島田はそんなやるせない楓の肩をポンとたたいた。


「橘、これは高木と時任が二人で解決しなきゃいけないことなんだ」

「でも、でも……」

「俺たちは口出ししてはいけないんだ。あいつらが悩んで苦しんで、それでも前に踏み出すのを見ていてやることしか出来ない」

「そんな……黙って見てるなんて……」

「ただ、今朝あいつ俺のとこにきてな」


 わずかだが島田の声に明るいものが感じられた。

 そしてようやく楓は顔を上げた。


「また絵を描くって。あいつが一年越しで描き続けてきた作品を仕上げるらしい。モデルは時任だ」

「そんな前からひかりの絵を? でも手が使えないのにどうやって?」


 痛々しい誠司の気持ちを想像してか、楓の声は震えていた。


「さあな、でもあいつはそれを仕上げて時任に見せるつもりだ。どうしても抑えきれない執着を断ち切るために何もかも出し切って、すべてを諦めるつもりなんだ」

「そんな、あんなに好き同士なのに諦めるなんて……」


 また楓は下を向いて泣きじゃくる。


「まあ、最後まで聞け。今高木は絵を仕上げながら時任への想いの大きさを思い知っている所なんだと思う。そしてその高木の絵が完成した時、あいつの素直な気持ちの詰まった絵を見て、時任はやっと本当のあいつを知るのだと思う」


 きっと島田は分かっていたのだろう。少年の本当の気持ちを少女が知るのにはそれしかないのだと。


「それからのことは二人で考えたらいい。お前たちもそれでいいな」


 勇磨と楓はお互いの顔を一度見て、島田に「はい」と応えた。


「あいつ今頃必死で描いてるところだよ」


 島田は窓から見える別棟の美術室の方に目を向けた。


「俺はな、信じてるんだよ。きっとあいつらならってな」


 島田の口元に笑みが浮かぶ。また煙草を取り出そうとして手を戻した。

 勇磨と楓の口元にも少し笑顔が戻ったようだった。



 そのころ誠司はキャンバスに向かっていた。

 薬指と小指で筆を持つ。小刻みに震える筆先を押さえるためにもう一方の手で手首を抑える。

 怪我のせいでしばらく離れていたキャンバスに向き合い、誠司はゆっくりと線を引いた。

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