第30話 最後のお昼休み

 夕刻の中庭で、ひかりは下校しようとしていた誠司の背中に声をかけた。

 振り返った誠司は、ひかりが跳ねるように駆けてくる姿を眩しそうに見つめる。

 追いついてひかりが横に並ぶと、誠司はおずおずと口を開いた。


「時任さんもこの時間に終わったんだ。どのクラスも学祭の準備でバラバラなのに偶然だね」

「うん、おんなじタイミングだったね」


 ひかりはそう言ったが、本当は窓から誠司の姿を見つけて慌てて追いかけたのだった。

 小さな嘘を隠して、今日もひかりは誠司の肩に掛けた荷物に手を伸ばす。


「持ってあげる」


 ひかりはそっと誠司の肩に掛けてある体操着袋を持つ。


「ごめんね。気を遣わせちゃって」

「いいの。手が治るまでは私が持ちたいの」


 何気ないひと言は一瞬だけ誠司の表情を曇らせる。

 ひかりはそのことに気付いていない。

 そしてまた二人は並んで歩き始める。

 ひかりは少し背の高い誠司を見上げるように話しかける。


「学園祭楽しみだね」

「そうだね三組はカフェだったね」

「そう、まだ詳しい分担決まってないんだけど、多分女子はウエイトレスになるような感じだったよ」

「時任さんが注文を聞きに来てくれるのか……」


 誠司は何やら頭の中で想像している感じだった。


「人だかりができそうだな……」

「えっ? 何か言った?」


 思わず漏れたのはきっと本音だったのだろう。ボソリと呟いたのが何だったのかをひかりは聞き返した。


「い、いや、何でもないです。盛り上がりそうだなーって思っただけ」

「普通の喫茶店だよ。メニューもあんまし凝ったの出来ないし」

「そうだよね。それで、えっと、時任さんはエプロン姿とかかな……」


 恥ずかし気な誠司の質問に、ひかりは指を唇に当て、少し考えるようなしぐさをした。


「どうなんだろう。男子がコスチューム担当に立候補してたから、多分なにか衣装を考えてるんだと思う」

「ええっ! そうなの?」

「どうしたの? そんなに驚かなくてもいいと思うけど」


 誠司の意外な反応に、ひかりは可笑しくなってクスクスと笑い声をあげた。


「それで二組はなんだっけ、なんかすごい盛り上がってるって噂だよ」

「まだ秘密。俺実行委員にされちゃったから、今色々準備してるところなんだ」

「私にも教えてくれないんだ。言っちゃって損しちゃった」


 ひかりはわざと膨れて見せる。

 そのしぐさは誠司にとって目の毒だったのだろう。

 目にした途端に、やや紅くなってしまっていた。


「と、時任さんがウエイトレスをするんだったら、よっぽど頑張らないと二組にお客さんが来ないよ。俺だって三組に入り浸っちゃうかも……」


 きっとその言葉は本心から出たのだろう。少年は目を逸らして少し真面目な顔でそう口にした。

 その横顔にひかりは目を向ける。


「うん。いいよ」


 ひかりは小さく言った。それでも今のひかりには精いっぱいの少年に対する気持ちを込めた一言だった。



 並木道を抜けてバス停に着くと、ほんの少し待っただけで市バスが停留所に低い排気音と共に入ってきた。

 階段を一歩踏み込んで乗り込み、狭いシートに隣同士に座る。

 肩が触れそうな距離で、ひかりが下りるバス停まで二人は揺られる。

 他愛のない話。

 あっという間に終わってしまう一番好きな時間。

 夕日と影が交互に二人の目の前を通り過ぎていく。

 少年は時折、この何気ない時間を惜しむかのように寂しげな横顔を見せる。

 そしてひかりの胸に、またあの予感が浮かんでくるのだった。


 時々肩が触れるあなたの温もりを、きっともうすぐ私は失ってしまう……。


 ひかりはバスに揺られながら、二人掛けのシートに一人で座っている未来をぼんやりと感じていた。



 交流戦から三週間、痛めた手の腫れは完全に治っていた。

 毎日医師の指導通り自宅でリハビリを続けた甲斐あってか、小指と薬指の痺れがましになり、自分の意志で少しは動かせるようになっていた。

 だが医師から説明を受けた通り、親指を含む三本の指は全く感覚がなく動くことはなかった。

 誠司は感覚のない指が反対側に曲がらないよう、医師から勧められたサポーターをしていた。

 刺された部分を押さえても、痛みはあまり感じなくなったが、腕に残る何針も縫った跡は生々しく、そして痛々しかった。

 誠司の胸中ではもう自分のこの右手のことはある程度整理がついていて、それほど大きな問題ではなくなっていた。

 もう動くことの無い右手の指も、この前に進もうとする少年の歩みを止めることは出来なかった。

 それでもたった一つだけ……。

 今誠司の胸を締め付けるのはただ、あの眩しい笑顔の少女だけだった。



「昨日どうだった?」


 昼休みの美術室。お弁当を食べ終えた誠司のコップに水筒のお茶を注ぎながらひかりは尋ねた。


「もう病院通わなくていいようになったの?」

「うん。おかげさまで。あとは自宅でリハビリを続けたらいいって」


 誠司は本当は治っていない右手を振って見せた。


「良かった」


 ひかりは自分のコップにもお茶を注いだ。


「少し冷ましてから飲んでね」

「うん」


 ひかりのはにかむ笑顔がまぶしい。

 コップに口を近づけ、フウと息を吹きかけるしぐさ。胸の痛みをこらえて誠司はただじっとひかりを見ていた。

 あの時、梶原にいい加減ひかりを解放してやれと言われ、動揺してしまった。

 それは指がもう動かないことを知ったときから、誠司自身がいつかはそうしないといけないということを分かりつつ、先送りしていたからだった。

 もう治ることのないこの手のことを知ったら、ひかりは重い責任をこれからずっと感じてしまうに違いない。

 そして誠司の近くにいればいるほど、隠しても必ずそのうちにひかりはそのことに気付くだろう。そして動かない指を見るたびに辛い思いをずっと持ち続けることになる。

 誠司の大好きな、何よりも大切なひかりから輝くような笑顔を絶対に奪いたくなかった。


 君のためだったら何だってできる。


「ちょっと熱すぎた。高木君も気を付けてね」


 はにかむような眩しい笑顔。


 ありがとう。もう十分もらったよ。


 誠司は胸の中でそっとひかりにそう伝えた。


「時任さん」

「うん。なに?」

「おれ、明日から自分でお弁当作ろうかと思ってるんだ」


 ひかりの顔から笑顔が消える。


「もう手もだいぶ良くなってきたし、時任さんにずっと甘えっぱなしで悪いなと思って」

「そんなことない。そんなことないんだよ」


 突然の誠司の言葉に、必死でひかりは言葉を選ぶ。

 ひかりの手にしていたプラスティックのコップは小さく震えていた。


「ほら、お弁当は一つ作るのも二つ作るのもそんなに変わらないし。それにもう私慣れてるし」


 ひかりは何を言っていいのか分からないほど動揺し、困ったような表情で言葉を探している。


「献立考えるのも私好きなんだ」


 ひかりの優しさに、誠司の胸はまた締め付けられてしまう。

 言葉に詰まりそうになりながら、誠司はその優しさにずっと触れていてはいけないのだと自分に言い聞かせた。


「時任さんの作ってくれるお弁当本当においしかった。自分でもがんばってこれからは作るよ。今まで本当にありがとう」

「じゃあ、せめてここで一緒にたべよ。私ここでゆっくり食べるの気に入ってるんだ」


 話し続けていないと少年がどこかへ行ってしまうかのように、ひかりは必死で言葉を続けようとした。

 

「美術室の鍵、先生に返そうと思ってる」


 誠司は胸をかきむしるような気持でそう口にした。


「クラスのやつに付き合いが悪いって言われてて、そろそろ教室で食べるようにするよ」


 誠司は平静を装う。押しつぶされそうな気持を隠し、必死でいつもの口調を意識した。


「だから時任さんも橘さんと一緒に食べれるし、彼女も喜ぶんじゃないかな」


 自分の口から出た言葉が誠司の中にうつろに響いた。

 覚悟していた痛みよりも、さらに耐え難い痛みが誠司を締め付ける。

 しばらくの沈黙ののち、ひかりがやっと口を開いた。


「うん。うん。高木君の手が良くなったのなら私嬉しい」


 細い肩を小さく震わすひかりは今にも壊れてしまいそうだった。

 それでもひかりは顔を上げて笑顔を見せた。


「私、高木君のことずっと応援してるから」


 言葉に詰まりそうにながら、ひかりは誠司の顔をまっすぐに見た。

 そして最後に言い尽くせない優しさを込めた笑顔を見せた。


「私こそありがとう。がんばってね」


 傷ついた少女が傷ついた少年に残した最後の輝きだった。



 ひかりが去ったあとの美術室は、もう特別な輝きを失っていた。

 誠司は窓の外に目を向け、失ってしまった大切なものを探すように目を細める。


 さようなら。


 憧れから始まったひそやかな恋は、ゆっくりとカーテンを揺らしながら誠司の元を去っていった。

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