第29話 ひかりの不安
少し薄暗くなってきた時間帯。
誠司とひかりはお互いの近さを感じながらバスに揺られていた。
この二人掛けの席に座ると、いつもお互い口数が減ってしまう。
あなたに伝えたいことはたくさんあるのに。
ひかりは、少し緊張気味に前を向く誠司の横顔をちらと見上げる。
でも本当に伝えたいことは一つだけなんだ……。
ひかりには分かっていた。
この気弱でそれでいて芯の強い優しい笑顔の少年に伝えたい気持ち。
でもいざとなると何も言い出せなかった。
いつからだろう、ふとした時あなたが寂しい顔をするようになったのは。
それでもあなたは私の前で優しい笑顔を見せる。
私はそれだけでとても嬉しいんだ。
「学園祭もうすぐだね」
二人で話せる話題を見つけて誠司が話しかける。
「うん、そうだね」
「二年の時、うちのクラスは教室を飾ってプラネタリウムをやったよね」
「あれ大反響だった。高木君がレイアウトを任されてて、すごいの出来上がっちゃったんだったね」
誠司とひかりが同じクラスだった二年生の学園祭、クラス一丸となってクリスマスなどで使うLEDの電飾をかき集めて、教室を丸々プラネタリウムにしたのだった。
苦笑交じりに誠司はその時のことを振り返る。
「暗くするのが大変で大失敗しそうになったんだったね」
「うん。島田先生が見かねて、卒業した大学の暗幕を借りてきてくれたおかげでいいものが出来たんだったね。あの時は結構ギリギリでひやひやしちゃった」
共通の思い出があるのをひかりは嬉しく思った。
毎日ギリギリまで残って奮闘していたのが懐かしかった。
「俺、実は一年の時、時任さんのクラスの劇を観に行ったんだ……」
「えっ!」
ひかりは思わず声を上げた。
実は主役のヒロイン役に抜擢されてしまい、下手糞な演技を大反省した経験があったのだ。
「美女と野獣だったね」
「うん……でもちょっと恥ずかしくって……下手糞だったでしょ?」
「そんなこと無いよ!」
今度は誠司が声を上げてしまった。
「あ、ごめん。いや、本当に良かったんだ。ものすごく……」
「あ、ありがとう……嬉しいけど恥ずかしい……」
ひかりはあの時、舞台上で一度台詞が飛んでしまって、何と言ったのかは覚えていなかったがアドリブでしのいだのだった。
「私本当に舞台上で真っ白になって台詞を適当に作っちゃったんだ」
「えっ? そうだったの?」
「気付いてなかった?」
「もう全然。すごく自然だった」
「良かった。高木君を胡麻化せてたんだね」
「そっか。へへへへ」
「うふふふ」
二人は頬を少し染めながら笑いあう。
「また明日だね」
誠司がひかりの降りるバス停が見えてきたのでそう呟く。
「うん」
きっとまた明日もこんな日が続く。
そう信じてひかりは席を立つ。
「高木君、また明日ね」
「うん。また明日。少し遅くなったから気をつけて」
「うん。ありがとう」
ひかりはバスを降りて手を振る。
低い排気音を残してバスが発車する。
少し見えにくいが誠司も窓越しに手を振っている。
緩やかなカーブに差し掛かりバスが見えなくなるまで、ひかりはいつも手を振り続ける。
そしてほんの少しの不安と余韻を胸に抱いて歩き出すのだった。
薄暗くなりかけた住宅地を自宅に向かって歩いていた時、ふいにひかりは呼び止められた。
昔よく遊んだ児童公園から出て来たのは梶原俊だった。
「ひかり。ずいぶん遅いんだな」
「俊……」
それほど今は親しくないが、梶原は小さい頃よく遊んだ近所の子供たちの中にいた一人だった。
中学に上がってから何度か告白されては断って来たので、本当は少し話をし辛い相手だった。
「部活だろ、推薦決まってるんだし適当にやっとけばいいのに真面目なんだな」
「いいでしょ。私がそうしたいの」
梶原はひかりが帰りたそうにしているのを察して、立て続けに話しかける。
「そう言えば最近、何だか新しい連れと仲良さそうじゃないか」
「いいでしょ。私の友達なんだからほっといて」
「仲良しの橘と坊主頭の新だろ、それからあいつ、ちょっと暗い感じの高木ってやつ」
ひかりは、からかう様に誠司の名を口にした梶原に不快感を見せた。
「あいつ何か怪我してたよな。もう治ってるみたいだけど」
その一言でひかりの胸は苦しくなる。
「ひかりは昔から親切というかお人よしというか、ああいうのに引っ掛かりやすいんだよな」
「何が言いたいの……」
「よく考えてみろよ。怪我したの夏休みだろ。もう治ってるに決まってるだろ」
ひかりは唇を結んだまま、こたえられない。
「お前の気を引こうとしてるんだっていい加減気付よ。俺から見たら大した卑怯者だよ」
「高木君のこと悪く言わないで!」
ひかりの口から思わず強い言葉が飛び出した。
「そう熱くなるなよ。俺はおまえのことを心配してやってるだけだよ」
「そう、分かったわ。じゃあ私帰るね」
一刻も早くひかりはこの場を立ち去りたかった。
「なあ、ひかり」
梶原はひかりの進行方向を塞ぐかの様に前に出た。
「俺の気持ち分かってるんだろ」
「そこをどいて」
「俺ならひかりを大事に出来る。あいつみたいな卑怯な手でお前の気を引いたりなんかしない」
「何言ってるの? 今付き合ってる子いるじゃない」
「ひかりがオーケーしてくれるんならすぐに別れる。何だったら女友達全員とこれから口きかないって約束してもいい。なあ、いい加減俺のこと真剣に考えてくれよ」
「その話は前にもしたじゃない。それに高木君は私の気を引いたりなんかしてない」
「それはおまえがあいつに騙されてるんだよ」
執拗に大切なものを侮辱する言葉を吐き続ける梶原に、ひかりの最後の冷静さを繋ぎとめていた糸が切れた。
「あなたには分からない。分かってもらおうとも思わない。もう私に関わらないで」
「あ、ちょっと待てよ」
ひかりは梶原の脇をすり抜け走り出した。
呆然と立ち尽くす梶原の所に残ったのは、走り去ったひかりの残した夏蜜柑の匂いだけだった。
ひかりは髪をなびかせながら走り続ける。
あの優しい笑顔の人を卑怯者呼ばわりされた悔しさと憤りが、胸の中にわだかまって消えない。
苦しいよ……。
ひかりは走る。
もう治っているのかも知れない手のことを思いながら。
一緒にいられる理由がもうすぐきっと無くなるのだということを感じながら。
苦しいよ……。
ひかりは走る。
街灯の照らす道の先に、また今日の続きがあるのだと信じて。
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