第9話 二学期の始まり

 二学期初日の朝、昨日の夜から朝方まで降った雨が街路樹の道を濡らしていた。

 雨上がりの匂いのする空気が誠司の胸を満たす。

 けだるげに登校する生徒たちの中で、固定具と包帯で右手を固めた誠司は、少なからず周囲の関心を集めていた。

 誠司は学生鞄を左手に持ち、右の肩にはスケッチブックの入ったナイロン製のバッグを掛けていた。

 歩く度に、バッグが揺れて肩ひもが下がってくる。

 右手の使えない誠司には、それを直すのが一苦労だった。


「高木君」


 呼び止められて振り向くと、そこには制服姿で小走りに駆けてくる時任ひかりの姿があった。

 一歩ずつ足取りに合わせるように跳ね上がる長い髪が光を集める。

 夏休みが終わり、久しぶりに見る制服姿のひかりの眩しさに、誠司の目はくぎ付けになった。


「おはよう。高木君」

「お、おはよう」


 ひかりに目を奪われていた誠司は慌てて挨拶を返す。


「荷物多いね。大丈夫?」


 心中をまるで気にも留めず、ひかりは誠司の横に並ぶと、覗き込むようにして尋ねた。

 まともに見ることができずに、誠司は「うん」とも「ううん」とも、どちらともとれるような返事しか返せなかった。


「ね、持ってあげる」


 そう言ってひかりは誠司の肩にかけていたバッグの紐に手を伸ばした。


「えっ、ちょっと待って」


 誠司はとっさに鞄を持ったままの左手で肩ひもを押さえようとした。

 その手の甲にひかりの伸ばした掌が重なる。

 その暖かくて柔らかい感触に誠司は猛烈に動揺した。


「あっ」

「ご、ごめん」


 二人とも同時にうろたえ、そして紅くなる。


「左手、左で持てるから、ほんと大丈夫だから」


 ひかりはそう言う誠司の言葉をすり抜けるように両手を伸ばした。


「左手、もう塞がってるよ」


 ひかりはそっと肩に掛けたバッグを手に取って自分の肩に掛けた。


「ありがとう……」


 そしてそのまま並んで歩く。

 二人が歩く街路樹の通学路。

 雨上がりの日差しがまぶしい道の先に、どこまでも抜けるような青空が広がっていた。



 二学期の始まり。校長の挨拶は長くて退屈というのが常であったが、この日は違っていた。


「えー、皆さんに報告しなければならないことがあります。わが校の生徒で夏休み刃物を持った不審者に切りつけられて怪我をした者がいます。犯人は取り押さえられ、その生徒も幸い命に別状はなく腕の怪我だけで済みましたが、皆さんくれぐれも通学の時、油断をせず周りに気を付けるよう心掛けて下さい」


 講堂に集まった生徒たちの視線は、痛々しく腕に包帯を巻いて固定具をしている誠司に集中した。

 可愛そうとか、運の悪い奴だとか生徒たちの間で囁かれたが、誠司がひかりをかばって怪我をしたというのを知っているのは、ここにいる大勢の生徒の中で当事者の誠司とひかり以外は勇磨一人だけだった。

 その中でひかりも同じ様に、生徒達の注目を集めて赤面している誠司に視線を向けていた。

 好奇の視線に耐えているその姿を、ひかりは唇をきつく結んで歯痒い気持ちで見守ることしかできなかった。



 お昼休み、ひかりは昼食の後、誠司の教室の前にいた。

 お弁当を友達と食べて、片づけて、いつもなら皆と他愛の無い話をしているのだけれど、なんとなくここに来ていた。

 窓が開いている。

 ひかりは教室の前をゆっくり通りながら誠司の姿を探す。


 いた。


 誠司の横顔が見えた。明るい窓寄りの席でサンドイッチを食べてる。その前の席にはひかりと同じクラスの男子が座っていて、誠司に向かって何か話しかけていた。


 新君だ、あの子去年もクラスが違うのに高木君のとこにしょっちゅう来てた……。

 ほんとに仲がいいんだ。


 ひかりは思わずニコリとしてしまう。


 あっ。


 視線の先で、誠司の手に持っていたサンドイッチの具材がポロリと落ちた。


「何やってるんだよ」


 勇磨はそう言って汚れてしまった誠司の机を拭いてやっていた。

 一見、片手でも食べ易そうなサンドイッチも、食べているうちに中の具材が偏って、あのように落ちてしまうのだとひかりは知った。

 

 慣れない左手だけでお昼ご飯を食べるのって、どうしたらいいんだろう……。


「どうしたのひかり」


 突然後ろから同じクラスの橘楓たちばなかえでに声を掛けられ、自分でもびっくりするぐらい飛び上がったひかりは、しどろもどろになっていた。


「な、なんでもないよ」

「なによ、なんか面白いものでもあるの」


 慌てて隠そうとするひかりの視線の先に、楓は納得したようだった。


「へー」


 意地悪な目でひかりを舐めるように見る。


「黙っといてあげるね」


 ひかりは自分の頬が紅くなっているのに気が付いているのだろうか。


「そんなんじゃないの」

「そういうことにしてあげるからフルーツ牛乳おごってよ」

「うん……でも、本当にそんなんじゃないんだから……」


 ひかりの言葉は自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。



 男の子ってどのくらい食べるんだろう。


 ひかりは帰宅してからショッピングモールに買い物に出て、お弁当箱を選んでいた。


 高木君お母さんいないんだから、これぐらいしたっていいよね。


 サンドイッチを食べにくそうに頬張っていた誠司の横顔が浮かぶ。

 ひかりはお昼休み以降、どうすれば誠司が昼食を食べ易くなるのかをずっと考えていた。

 そして単純に、食べやすく工夫して作ればいいのだという結論に行きついたのだった。


 これ、かわいい。


 お花畑に座っているクマのプリントのお弁当箱。


 これにしようかな。

 それとおそろいの柄のフォーク……。

 なんだか楽しいな。


 考えていた以上の可愛いお弁当箱を選べて、ひかりは満足げにレジで会計を済ませて帰ろうとした。

 そして別の陳列棚の前を通った時にふと足を止めた。


 こんなのもあるんだ……。


 女性もののコーナーで足を止めて、ひかりはさっき買ったものと同じ絵柄の一回り小さいピンクのお弁当箱を手に取った。


 高木君とお揃いになっちゃう……。


 ひかりは手にしたお弁当箱を前に思い悩む。


 でも……。


「あの、これもください」


 ひかりが店を出た時には、もう日はかなり落ちていた。


 お小遣いだいぶ使っちゃった。


 ひかりは小走りに駆け出し帰り道を急ぐ。

 弾むようなその足取りには、ひかりの胸中がそのまま表れている様だった。



 夕食後、ひかりは洗い物をしている母に声を掛けた。


「あのね、お母さん、私明日から自分でお弁当作ろうと思うんだけど、作り方教えてくれないかな」


 突然そう言われて意外そうな顔を見せるも、ひかりの母は娘のやる気に協力的だった。


「あら、いい心がけね。でもどうしたの急に」

「うん、ちょっと、作ってみたくなって……」


 ひかりは何となく歯切れが悪い。母は少し娘の様子を窺っている。


「お弁当箱も買っちゃった」


 そう言ってひかりは紙袋からピンク色のお弁当箱を取り出して見せた。


「あら、いいじゃない。ひかりのお弁当箱、中学の時に買ったお父さんとおそろいのステンレスのやつだったのよね。気に入ったのあって良かったじゃない……」


 そして話の途中で母は気付いた。


「あら? もう一つあるのね」


 ひかりの母は紙袋から少し見えていた水色のお弁当箱を取り出した。


「まあ、かわいい。お父さんの分も買ってあげたの? ひかりにしては気が利いてるわね」

「ちがうの。お父さんのじゃないの」


 即座に否定したひかりに、リビングでテレビを見ていた父が「何が違うって」と反応した。


「あー、そういうことね」


 母は察したようだった。


「高木君でしょ」


 ズバリ言い当てられて、ひかりはもじもじしてしまう。


「あの、そうなんだけど、深い意味はないの。ただ今日サンドイッチ食べにくそうにしてたから」


 なんだか言い訳がましく聴こえるひかりの説明に、母は何とも言えない笑みを浮かべた。

 そしてこの時、娘が恋をしていることを母は知ったのだった。

 

「分かったわ。お父さんには内緒にしときなさい」

「うん」

「明日朝、一時間早く起きれる?」

「うん。頑張る」


 次の朝ひかりは一時間前より早く起床した。

 慣れない手つきで作ったお弁当は母のフォローでちゃんと出来上がった。


「ちょっと失敗したやつは全部お父さんのほうに入れといたから」

「うん。お父さんごめんね」


 ひかりは父の味気ないステンレス製の弁当箱に手を合わせた。


「ひかりが作ったって言ったらお父さん喜んで何でも食べるわよ」


 父の姿を想像したのか、ひかりは可笑しそうに笑顔を見せた。

 そして気持ちのこもったお弁当を重ねて手提げ袋に入れる。

 そんないじらしい娘の姿を母は興味深げに眺める。


「これから毎日早く起きないとね。三日坊主じゃなきゃいいけど」

「大丈夫。高木君の手が良くなるまでは頑張って作るつもりだから」


 当たり障りのない返事を返してきたことで、母には何となく、娘が今どういう状態なのか想像できた。

 

 この子ったら、自分が恋をしているのに気付いていないのかも。

 でもきっとそのうちに……。


「じゃあ、お母さん、行ってきます」

「がんばんなさい」


 ひかりを送り出した母は、行ってらっしゃいの代わりにそう声を掛け、娘の背中をいつもよりも長く見送るのだった。

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