第10話 先生のベンチ

 朝の光が眩しい並木道の通学路。

 誠司は、やや膨らんだ鞄を左手に持って通学していた。

 昨日ひかりに余計な気を遣わせてしまったことを反省し、今日は肩に掛けるものをやめて、通学カバンに全部詰め込んだのだった。

 正門が見えてきた時、生徒たちの列から少し外れた場所で佇む一人の少女の姿に、誠司は気付いた。

 僅かにそよぐ風が、少女の長い髪を、さらさらと撫でていく。

 通り掛かる誰かを探している様子の、ひときわ目を惹くその女生徒は、誠司にとって特別な少女だった。


 時任さん。


 一瞬で惹きつけられてしまった誠司の目には、もうひかりの姿しか映っていなかった。

 そんな眼差しを感じたのか、誠司に気付いたひかりは、パッと笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。

 黒髪が跳ね光を集める。何度見ても美しい。吸い寄せられるように見とれていた誠司の横にひかりは並んだ。


「おはよう」


 ほぼ同時に言ってしまい、二人は苦笑してしまう。

 誠司は思う。この少女の「おはよう」はいつも自分にとって特別なのだと。

 心の内を見透かされてしまいそうで、今日も誠司は、ひかりの顔をまともに見れない。

 そんな誠司に、ひかりは恥ずかし気に話しかける。


「あの……あのね、昨日たまたまなんだけど、見かけたんだ」


 おずおずと口を開いたひかりのうなじは、うっすらと紅く染まっている。


「……高木君がお昼に、サンドイッチ食べにくそうにしてたの」


 ひかりは二人分のお弁当が入った手提げ袋の持ち手を強く握る。


「だから今日、お弁当作ってきたの」


 ひかりのひと言に、誠司はぶっとんだ。


「な、なんですと!」


 誠司の間の抜けた反応に、ひかりはクスッと笑って、そのあと大きく息を吐いてから、待っている間に何度も練習していた一言を伝えた。


「高木君さえよければ、一緒に食べませんか」


 どうしてこの目の前の少女は、こんな簡単に心の中に入って来てしまうのだろう。


「よ、よろしくお願いします」


 誠司は夢じゃないのかと、今起こっていることに浮き足立ちながら、なんとかそう返答した。


「うん。じゃあ、お昼休み校庭の花壇の前で待ってる」


 ひかりも恥ずかしかったのだろう。「じゃあ」と言って前を歩くクラスメートの所に小走りに駆けて行った。

 誠司はそんなひかりの後ろ姿を、ただじっと、夢を見ているかの様に見つめる。


 光を集める君の黒髪、美しいという言葉では全然足りない。

 ただただ目を離せないこの気持ちを、どう表現したらいいんだろう。


「よう」


 思い切り背中を叩かれて誠司は飛び上がった。

 振り返ると、いやらしく目を細めた勇磨が、ニタリと口元を吊り上げて笑っていた。


「ゆ、勇磨、お前いつからそこに」


 勇磨は不敵な笑いを浮かべて、決定的な一言を口にした。


「時任のお弁当作ってきたの、のくだりからだよ」

「な、なんですと!」

「昼休みちょっと見に行っていい?」

「くんな! 絶対くんな!」


 それから誠司もひかりも、午前の授業内容が全く入ってこなかったのは言うまでもなかった。



「あっ」


 誠司とひかりが待ち合わせの花壇の前に着いたのは殆ど同時だった。


「走っちゃった」

「俺も」

「裏側のベンチで食べる?」

「うん」


 校舎裏の丁度いいベンチの上に、ひかりはお弁当を広げ始めた。

 丁度誠司とひかりの間に少し場所を開けて、ひかりは二つのお弁当箱と水筒を並べた。

 そして誠司はすぐに気付いた。


「お揃いだね」


 真新しい色違いの、同じクマのプリントのお弁当箱に、誠司の胸は高鳴った。

 ひかりの頬が少し紅くなる。


「そうなの、可愛かったんでつい買っちゃった」


 確かに可愛いデザインだった。

 やや緊張気味に、お茶をコップに注いで、ひかりは手渡す。


「あの、どうぞ」

「あ、ありがと」


 誠司はコップをひかりの手から受け取る。その手が若干震えてしまうのを、誠司は抑えられなかった。

 喉の渇きを覚えた誠司は、ひと口コップに口をつけてから、お弁当箱の蓋に手をかけた。


「開けていい?」

「うん。口に合うか分からないけど、どうぞ」


 ひかりは誠司が蓋を開けるのをじっと見ている。

 誠司はドキドキしながら真新しい弁当箱の蓋を開けた。

 そして、誠司はその中身を見て目を丸くした。

 弁当箱の中身は右手の使えない誠司でも食べやすいよう、すべて一口で食べられる大きさに工夫されてあったのだった。

 丸く握った一口大のおにぎりが並んでいるのを見て、誠司の胸は熱くなった。


「すごい。おいしそう。これ全部ひかりちゃんが?」


 ひかりの顔が見る見るうちに紅くなる。

 誠司は一瞬遅れて気付いた。


 いま、なんとなくはずみで、ひかりちゃんって名前で呼んでしまったような……。


 おかしな雰囲気を作ってしまった痛恨のミスに、誠司は大慌てで訂正した。


「いや、ま、間違えました。時任さんが作ったの」

「うん。あとちょっと母も……」


 ひかりは目を合わそうとしない。

 誠司は重苦しい雰囲気を何とかしなければと思い、食べていいですかと切り出した。


「どうぞ……」


 ひかりはやはり目を合わせない。


「いただきます」


 誠司のために用意してくれてたフォークは持ち易かった。

 卵焼きにフォークを入れ口に運ぶと、少し硬めだったが甘い味がした。


「おいしい」


 ひかりが顔をあげて誠司を見る。


「ほんと?」

「うん。すごくおいしい」

「良かった」


 いつものはじけるような笑顔。美味しいと思った甘い味付けの卵焼きの味が分からなくなるほどの……。


「私も食べよ」


 ひかりが自分の弁当箱の卵焼きに箸を伸ばす。


「いただきます」


 卵焼きを一齧りして、ひかりは誠司にとって目の毒になりそうなくらいの眩しい笑顔を見せた。


「うん、結構いい出来」


 卵焼きを頬張るひかりの横顔に、どうしても胸が切なくなる。

 こんなに穏やかで、こんなに嬉しくて、こんなに切ない。

 目の前に広がる花壇の花一輪一輪の色が、あんなに鮮やかに見えるのはきっと……。


「あっ」


 余所見をしてしまい肉団子がフォークから滑って落ちた。お弁当箱の上だったので助かった。


「あぶなかったー」


 誠司は胸を撫で下ろした。

 その落とした肉団子をひかりがそっと箸でつまむ。

 そして真正面からひかりが近づいてくる。


「口を開けて」


 ひかりの唇が動く。

 言われるままに開いた誠司の口に、ひかりは肉団子を運んで食べさせた。

 時間が止まった。誠司にとって夢のような瞬間だった。


「あー昼寝でもするかー」


 欠伸をしながら、まさにそのタイミングで誠司の担任教師、島田はときめき真っ最中の二人の前に現れた。

 そして三秒ほどその場にいる三人とも凍り付いたのだった。


「先生……」

「お、お前たち……」


 島田は、誠司とひかりを交互に何度も見た。


「ご、ごゆっくり」


 島田はそう言い残して走り去っていった。

 そのあと誠司とひかりは、殆ど無言でお弁当を完食したのだった。



「高木、おまえ放課後残れ」


 ホームルームの後、誠司はきっちり島田に引き留められた。

 島田は誠司の担任教師であったが同時に美術部の顧問でもあった。

 そしてどういう巡り会わせか、誠司は三年間ずっと島田のクラスだった。

 髪型もあまり気にしない無精髭の何処かしら愛嬌のある担任教師は、昼間出くわした青春ドラマに、言いたいことが山積している感じだった。


「おまえら昼間っからあんな所でときめきやがって、大人の俺のはるか先を行くとはいい度胸だな」

「先生、タイミング悪すぎ。それに俺何もしてないし」

「嘘つけ、よりにもよって俺の神聖な昼寝ベンチでいちゃつきやがって、おまえらのおかげでもうあのベンチで平常心で寝れんわ」

「無茶苦茶だよ……」


 誠司はしつこく絡んでくる島田にぼやいた。


「まあいい。しかしまあ、ヘタレのお前がよくぞって誉めてやるよ。しかし勘違いするなよ。学校での風紀を乱す行為は、教師として絶対に認めんからな」

「だから何もしてないって」

「見つめあって女の箸でものを食わせてもらってたのにか。ネタはあがってんだ。観念しろ」

「いや、だから……」

「じゃあ何か? 今俺が言ったことに何か間違いはあったか?」


 島田の問いかけに、誠司の頭にありありと回想シーンが浮かんできた。


 見つめあって……。

 あの子の箸で……。

 食べさせてもらった……。


 島田の言っていることは実際にあった。

 誠司は思い出してドキドキしてしまっていた。


「間違いないです……」

「なに思い出しときめきしてんだ」


 島田が誠司の背中を思い切り平手でたたく。


「高木、これお前もっとけ」


 島田は鍵を一本、誠司に渡した。


「これは?」

「美術室の鍵だよ」


 島田はニヤリと含み笑いをした。


「生徒の教室棟とは別の棟だから静かだぜ」

「先生」

「俺はあの神聖なベンチを不純なお前らから守る義務があるんでな。いいか、ときめいても風紀は乱すな。以上」

「ありがとう。先生」

「ああ、早く帰れ、煙草吸いたいんだ」


 誠司が教室を出ていった後、島田は窓を開けて煙草に火を点けた。


「ほんと、めんどくさい奴らだよ」


 口元がゆるんでしまうのを抑えられない島田だった。



 その日ひかりが帰宅すると、母は早速どうだったと尋ねた。実は帰ってくるまでずっと気になっていたのだった。


「うん」


 ひかりの口元に、はにかむような笑みが浮かぶ。


「みんな食べてくれたよ……おいしいって」


 少し頬を染めて話す娘の姿に、母はほっと一息ついた。


「明日は何がいいかな」


 そう言うひかりの瞳には、もう明日の二人が映っているように母には思えた。

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