第2話 少女

 まだ少しぼんやりとした頭で、誠司は包帯でぐるぐる巻きにされた右手を眺めていた。


「何だか大袈裟だな……」


 誠司がベッドで目覚めてすぐに姿を見せたひかりは、入れ違いに入ってきた父や看護師たちの慌ただしさに紛れてしまい、その後、姿を見ることは出来なかった。

 見舞いに来てくれたお礼を、一言も言えずに帰ってしまったひかりのことを誠司は考えずにはいられなかった。


 きっと、ずっとここにいてくれたんだ……。


 胸がいっぱいになり、自然と大きく深いため息が出る。

 

 また来てくれるかな……。


 そんなことを考えながら、まだしばらくここを動けないもどかしさに、また違うため息を吐くのだった。



 誠司の腕はごつい包帯と固定具で固められていて、その中がどうなっているのか確認しようもなかった。

 医師の話では刃物が動脈をかすめていたので大量に出血し、一時はショック症状を起こし危険な状態だったらしい。

 手術が無事に終わって丸二日の間眠り続け、やっと目覚めたのだということを聞かされた。

 目覚めた後の、あの不快すぎる体の強張った様な感覚はそのせいだったのだろう。

 とりあえず、まだしばらくは病院で安静にしているようにと担当医から言われていた。

 


 病室で過ごす時間は快適で退屈だった。外はまだ八月の暑さの只中にあったが、この見晴らしのいい病室の中は空調のせいで少し寒いぐらいだった。

 何もすることもなく暇を持て余していた時に、一度だけあの包丁を持った男の件で刑事が誠司の元を訪れた。そして逮捕されたその男のことについていくつか質問された。

 ごつい三十代半ばぐらいの刑事は、勇気ある行動をとった少年に興味を持ったのだろう。状況の説明をし終わった後もちょっとした質問を投げかけて来た。


「君がかばった女の子、あ、高校生の子の方だけど君の同級生なんだろ」

「ええ。まあそうです……」

「話を聞きに一度行ったんだけど、可愛い子だったよな」


 どうやらもう用件は済んで、個人的な好奇心に内容が切り替わっていた。

 看護師がそのぐらいにしておいて下さいと割って入ってくれていなければ、何時までも無駄話をしていそうな感じの人だった。

 おしゃべりな刑事の話ではバスの男は典型的な通り魔だった。誰でもいいからあの鈍く光っていた出刃包丁で刺したかったのだと、取り調べで証言したらしい。

 男は殺人未遂で逮捕されたからもう心配ないと、刑事は大人らしい気遣いを見せて帰って行ったのだった。

 誠司は刑事がひかりの所にも話を聴きに行ったと話していたのが気になっていた。


 きっと思い出したくもないに違いない。


 噂が流れて、周りから今回の事件のことをあれこれ詮索されていなければいいがと、誠司はひかりを心配していた。



 誠司は気が付けばひかりのことばかり考えていた。

 早く退院したくて担当医の言いつけを守り、出来るだけ怪我をした腕に負担を掛けない様に気を遣いながら退屈な毎日を過ごす。

 そして食欲が少しずつ戻り、顔色も良くなってきた頃、時任ひかりは花と果物を持って再び誠司の前に現れた。


「今、入っていい?」


 ノックをして、少しだけドアを細く開けてひかりは尋ねる。

 紛れもない、聞き覚えのあるひかりの声に、誠司は硬いベッドの上で文字通り飛び上がった。


「も、もちろん、どうぞ。いや、でもちょっとだけ待って」


 誠司は慌ててベッドから身を起こす。

 使える方の手で、髪がおかしくなってないか触って確かめてみる。

 こんな時に限って後頭部の辺りに寝ぐせがついている。指先に髪の毛が跳ね上がっている感触が有る。

 直そうとちょっと頑張ってみたものの、どうしようも無さそうなので諦めざるを得なかった。


「あの、お待たせしました。どうぞ……」


 大きな窓から午前中の強く明るい光が射し込み、病室の中を照らしている。誠司は手の届く範囲でカーテンを少し引いた。

 ドアを開けて入ってきたひかりは、誠司が見たことのない私服姿だった。

 白いブラウスに薄いプリントの入った若草色のスカート姿。

 誠司は気にしていた後頭部の寝ぐせのことを忘れ、その可憐な姿にしばし見とれる。

 ひかりがいるだけで、病室の空気さえもが明るく輝きだしたように誠司は感じた。


「二年の時、同じクラスだった時任ひかりです」


 少し遠慮気味に、ベッドから離れた所で立ち止まり、ひかりはぺこりと頭を下げた。

 その表情には少し緊張したような笑顔が浮かんでいた。


「高木誠司です。二年の時一緒だった」


 誠司の顔には、ひかりよりも緊張の色が濃く表れている。

 何となくお互い次の言葉が出てこない。

 二人とも、今更ながらの自己紹介をしてしまったことで、ぎこちない空気をわざわざ作ってしまったのだった。


「えーと……」


 ひかりは少し首を傾け言葉を探す。


「うん、知ってるよ。すごい絵が上手い高木君でしょ」


 ひかりは自分からは何も言えなさそうな誠司を気遣う様に言葉を探した。


「一年の時、大賞を獲った絵、何回も見たよ……」


 中学時代から誠司は美術部に在籍し、高校になってから全国の高校生を対象としたコンクールで最終選考に名前を連ねた後、見事大賞に輝いたのだった。

 ひかりは校舎の壁に飾られていた誠司の描いた絵を、思い出す様に言葉を続ける。


「私、絵のことあんまり分からないけど、あの青い桔梗の花の絵、初めて見た時びっくりしちゃった。本物より生き生きしてるっていうか。ちょっと説明できないけど」


 思い出しながら少し興奮している。そんな風にひかりは見えた。


「時任さんにそんな風に見てもらえてたなんて、なんだか嬉しいな……」


 ぎこちなく誠司は照れ笑いを浮かべた。自分の描いた絵を気に掛けてもらえていたということに胸を躍らせてしまっていた。


「あの、これ果物とお花。好きかなと思って桔梗も入れてきたんだ。お花屋さんっていろんな花有りすぎて迷っちゃうね」


 花束を持つひかりに誠司は一瞬、いやもう少し長く見とれていた。


「果物はここに、お花はあの花瓶でいい?」

「あ、うん。ありがとう」


 あまりじろじろ見てはいけない。分かっていながら誠司は花束を持つひかりについ目が行ってしまう。


「じゃあ、お花、花瓶に生けてくるね」


 陶器の花瓶を手に取って、ひかりは背を向けた。


「時任さん、ちょっと待って」


 誠司はひかりを引き留めた。気弱な誠司が躊躇うこともない程どうしても気掛かりなことがあったのだった。

 足を止めたひかりが振り返る。

 

「時任さんどこも怪我してなかった? 俺、あのとき時任さんの無事をちゃんと確認できないまま気を失って……」


 何か気持ちが溢れ出そうとしている。ひかりの表情にそんな込み上げてくるものが窺えた。


「私は大丈夫」


 ひかりの目頭が赤くなる。


「ごめん。嫌なこと思い出させて。大丈夫だったらいいんだ」


 ひかりの目に浮かぶ涙を見て誠司は慌てた。あんな恐ろしいこときっと思い出したくもない筈だった。

 誠司はひかりの心中を察せずに、迂闊に訊いてしまったことを後悔した。


「そうじゃないの」


 ひかりは細い指で花瓶をぎゅっと握りなおす。


「私ずっとお礼が言いたかったの。でも二日間目を覚まさなかった高木君のことが心配で、でも何もしてあげられなくて、それが辛くて……」


 こらえていた物が胸の中から溢れだしたのか、ひかりの声は少し震えていた。

 

「でも大怪我をしても、こうして今話をしてやっとお礼が言えるのが嬉しいの」


 目頭を赤くし笑顔を浮かべながら、ひかりは細い指で涙をぬぐった。


「本当にありがとう。やっと言えました」


 ひかりはそのまま花を生けに病室を出た。

 誠司はひかりの出て行ったあとの明るい病室で、少し開いたドアに目を向けながら胸の奥が熱くなるのを感じていた。



 それからひかりは誠司のもとに、二日に一度の間隔で顔を出すようになった。

 それほど長くいるわけではないが、花の水を変えたり、果物を切って食べさせたり、母親がいない誠司の身の回りのちょっとした世話を焼いていた。


「どうしたの?」


 ベッドの横でパイプ椅子に腰かけ、夏蜜柑の皮を剝いているひかりを、誠司は見つめ過ぎていた。

 素直に見とれていたとは言えずに、何とか胡麻化そうと言葉を探す。


「い、いや、時任さん本当は部活とか忙しいんじゃないかと思って……」


 ひかりは蜜柑の白い繊維を実から剝がしながら首を小さく横に振る。


「インターハイも終わったし、それほどでもないの。もちろん練習はあるんだけど今は都合がつけやすいっていうか……」


 言葉の途中でひかりはハッとした。


「あ、もしかして、来過ぎだった? 高木君も色々やることがあるのに邪魔してたとか」


 ひかりが変に捉えてしまって、誠司は慌ててブンブン首を横に振る。


「全然そんなことないです。もうめちゃくちゃ助かってるし、むしろ楽しみというか……」


 思わず口から出た本音に誠司は頬を紅く染めて、言い過ぎましたとボソボソ口を動かし下を向いた。

 ひかりは気付いていないふりをするかのように蜜柑を一房ずつに分けて渡す。

 黒髪の間から少し見える細いうなじが、ピンク色に染まっているのに誠司は気付かなかった。

 なんとなくいたたまれない空気が漂う。


「あ、そうだ、インターハイどうだったの?」


 ひかりが綺麗に一房ずつ分けてくれた夏蜜柑の酸味を感じながら、思い浮かんだことを誠司は訊いてみた。


「うん。三位だったよ」

「えっ! 全国で?」

「うん」


 サラリと告げられたとんでもない成績に、誠司は目を丸くした。

 県大会常勝のひかりの走り幅跳びのすごさは学校中に知れ渡っていたが……。

 まさか今回、全国三位にランキングしていたとは思いもしなかった。


「すごい! やったね時任さん。二学期にまた表彰されるね。おめでとう」


 自分のことでなくとも飛び上がりたいほど嬉しかった。誠司は興奮して身を乗り出した。


「うん。でも少し悔しいんだ。やっぱり一番になりたかった」


 ひかりは夏蜜柑の一房を手にしたまま、窓の外に遠い目を向ける。

 その視線は遠い町の向こうではなく、進みゆく未来に向けられているのだと誠司は感じていた。


「また大学で再挑戦するつもり。私けっこうしぶといの」


 はじける笑顔。ひかりという名前は君のためにあるんじゃないのだろうか。


「でも高木君がおめでとうって言ってくれて本当に嬉しい。なんだかまたすごいやる気出てきた」

「うん、その意気だね」


 夏の日差しが差し込む明るい部屋、話をする二人の表情がほんの少しだけ解れてきだした。

 そうして少しずつ、ゆっくりと夏が過ぎていく。

 二人が口に入れた夏蜜柑は、表情に出てしまうくらい青くて酸っぱい味がした。

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