第3話 帰宅
足しげくひかりが病院に顔を出しているうちに、ようやく少年に退院の許可が下りた。
腕には相変わらず大袈裟な包帯が巻かれていたが、手を使わないようにしていさえすれば問題ないみたいだと、ひかりは聞かされていた。
退院の当日、少しでも手助けをしたいひかりは、大丈夫だからと遠慮してしていた少年を押し切って、どうしても付き添うと白いワンピース姿で病室を訪れた。
父親が退院の手続きをしている間に、ひかりは手際よく病室の荷物を運び出す。固定具と包帯で片手をぐるぐる巻きにされた少年は、ひかりにじっとしていてと先に言われ、手持無沙汰な感じで座らされていた。
「あの、時任さん、俺も手伝っていい? 片手は使えるから」
「駄目。変に力を入れたりしたら、傷口に良くないよ」
やや過保護すぎる感じもあるが、ひかりは見舞いに来だしてからずっとこんな感じだった。
ひかりは部屋の外に荷物を運び終えると、もう一度忘れものがないか部屋を確認した。そして誠司の座る椅子の後ろに紙袋が一つあるのに気が付いた。
「あ、まだあったんだね」
荷物に手を伸ばそうとしたひかりを、誠司は慌てて止めた。
「あ、ちょっと待って」
「いいよ、遠慮しなくって」
「いや、その、これはあれなんだ……」
「あれって?」
「その……洗濯しないといけないものが入ってて、それで……」
「うん。分かった。洗濯ものだね」
少年の動揺を察することができなかったひかりは、なにげに紙袋に手を伸ばした。
そして紙袋の中にあった半透明のビニール袋に、下着らしきものが入っているのを目にして、何故少年がもじもじしていたのかを悟った。
「えっと、あの、その袋は高木君にお任せします……」
「はい……」
そしてお互いに、それからしばらく顔を合わせ辛くなった。
エアコンが効いていた車内は快適だったはずなのに、自宅について車から降りてきた少年の頬は、火照ったように紅くなっていた。
その原因は八月の暑さのせいというよりも、一緒に後部座席に座って帰って来た美しい少女のせいなのだろう。
そういった緊張で硬さはあるものの、ようやく帰って来れた古い木造平屋建ての玄関前で、少年は安堵の表情を浮かべていた。
車を降りたひかりは、住宅街のどこかしこで鳴いている蝉の鳴き声を聴きながら、少年の隣で同じようにひと心地ついたのだった。
誠司はそんなひかりの横顔に、緊張気味に声を掛ける。
「あの、時任さん、ありがとう。やっと帰って来れました」
「うん。良かったね」
車の後部ハッチを開けて、誠司の父が荷物をおろし始めたのを見て、ひかりはすぐにそれを手伝う。
「すみませんね。ご両親に色々気遣って頂いたばかりでなく、ひかりさんにもこんなところまで付き合わせてしまって」
誠司の父、信一郎は短く刈り揃えた頭を掻きながら、付き添ってくれたひかりに頭を下げた。
「そんな、いいんです」
ひかりの両親は誠司が落ち着いてから、お礼とお見舞いに二度ほど来てくれていた。
そして二日おきに病院に見舞いに来ていたひかりは、誠司の父ともう何度も顔を合わせていた。
気さくな感じの誠司の父に、最近はひかりもだいぶ馴染んで来ていた。
「ひかりさんには何から何まで甘えてしまって申し訳ない。夏休み中、本当は忙しかったんじゃないんですか?」
「いえ、気になさらないで下さい。これぐらいさせて下さい」
優しい気遣いを見せるひかりに、あらかた荷物を運び終えた信一郎は額の汗を拭ったあと声を掛けた。
「これでよし。古い家で汚いところですけど、どうぞお茶でも飲んでって下さい」
「時任さん。本当にありがとう。さ、中に入って」
「じゃあ、ちょっとだけ」
高木家は昔からある住宅街に居を構えていた。最近この辺りはあちこちで古い家を取り壊し、新しい家に新しい家族が生活し始めていた。
新旧入り交ざった家並みが軒を連ねる中、龍泉寺という寺の隣にある高木家は、この地区の中でも他の家と比べて、かなり毛色の違う印象を醸し出していた。
それは高木家の敷地内に、ずいぶん昔からあるような瓦屋根の立派な建屋があったからだった。それは誠司の祖父が興した合気道の道場で、敷地の三分の一くらいを占めていた。
誠司の父はその道場で、祖父から引き継いだ合気道の師範を務めていた。また本業として整骨院を開院しており、その建屋も広い高木家の敷地内にあった。
信一郎と誠司が暮らしている昔大所帯だった母屋は、親子二人暮らしには広すぎるように見えた。
人懐っこい笑みを浮かべる信一郎に勧められ、ひかりは誠司のあとに続いて家に上がった。
「ごめん。先に母さんに手を合わせてくるね」
奥の部屋へ向かった誠司は、仏壇の前で綺麗な正座をして手を合わせた。
「ただいま、母さん。心配かけたね」
飾られている写真を見上げ誠司は呟いた。
誠司に続いてひかりも手を合わせる。
「三年前に亡くなったんですよ」
続いて部屋に顔を出した信一郎が、ひかりに声を掛けた。
「高木君から少し聞いていました。とてもお優しい方だったって……」
ひかりは誠司の母、静江の写真を見上げる。
そこには落ち着いた感じの綺麗な女の人が写っていた。そのまましばらくひかりは写真を眺める。
「誠司は小さい頃から母親にべったりでね。うちのやつも一人っ子の誠司に甘かったもんだから、いまだにホント甘えん坊でしてね」
「父さん、時任さんに余計なこと言わないでくれよ」
誠司はまだなにか言いたそうにしてしている父を
「時任さん、こんなところまでごめんね。すぐに冷たいものを淹れてくるね」
「あ、私がやろうか? でも、台所に入るのは、流石に駄目かな……」
「父さんが用意してくれてるのを運ぶだけだから大丈夫だよ……それと時任さん、さっきの父さんの話、あんまり気にしないでね」
やや恥ずかしそうに誠司は飲み物を用意しに部屋を出て行った。
久しぶりの住み慣れた家に、やっと肩の力が抜けた感じの誠司に対し、ひかりは表には出さないよう気を付けつつも、内心ドキドキしていた。
男の子の部屋に入ったのは生まれて初めての体験だった。
誠司が部屋から出て行った後、ついつい部屋の中を観察してしまう。
きっとそれは異性の部屋に行ったら誰しもそうなるのだろう。しかし、ひかりは何か悪いことをしているような気がしていた。
ひかりの見る限り、誠司の部屋は特に飾りっ気もなかったが、綺麗に片付いていた。
壁には何枚かの絵が飾られてあったが、誠司が描いたものにしては古そうに見えた。
「それみんな母さんが、昔描いたやつなんだ」
後ろに手を組んで、近くで絵を見ていたひかりに、戻ってきた誠司が声をかけた。
「すごい上手。高木君はお母さん似なのね。素質ってすごいね」
「嬉しいけど、母さんに比べたらまだまだかな」
ひかりは印象的な絵に素直に感心しながら、すぐに誠司が片手で持ってきたお盆を手に取った。
「重くなかった?」
「大丈夫。ごめんね、気を遣わせて」
「遠慮しなくていいんだよ。いっぱい頼ってね」
コップに冷えた麦茶をひかりに注いでもらい、誠司は照れたような表情を浮かべる。
誠司は飲み物と一緒に盆に載せてきたお茶菓子をひかりに勧めた。
「大鵬堂のどら焼き。すごい甘いんだけど大丈夫? 父さん時任さんに用意してたみたい」
「私それ大好き。太るからいつも我慢してるけど」
二人は丸い小さな座卓を挟んで向かい合わせに座る。
病院とは違い、少し薄暗い誠司の部屋で二人きりでいることを、ひかりは変に意識してしまっていた。
喉の渇きをおぼえて、よく冷えたコップの麦茶を全部飲み干す。
「おかわり入れるね」
「あ、いいよいいよ、自分で入れるから」
誠司はやっと戻ってこれた自分の部屋に、ほっとしている様に見えた。
一方ひかりはまだちょっと落ち着かない。
「お父さん、今日はお仕事大丈夫だったの?」
誠司の父がここで整骨院を開業していることは予め聞いていた。平日の退院だったので気になって訊いてみたのだった。
「今日は整骨院は定休なんだ。夜はどうするのか聞いてないけど」
「夜って?」
「うちの敷地の一番奥が道場になってて、父さんが教えてるんだ。たしか今日は七時半から大人の部があったはずだけど」
「空手? 柔道?」
「ううん。違うよ合気道」
そこいらの大人たちと比べて誠司の父が立派な体格をしているのに、ひかりはようやく納得した。
確かに武道家と言われればぴったりな印象だった。
「えっと、高木君もしてるの?」
「うん。五歳から」
「じゃあ、バスの時も」
「うん。とっさに技を使ったみたい」
それを聞いて、何故あんなに大の大人を一瞬で倒すことができたのか納得した。
物静かで、一見細身の少年の意外な側面を、ひかりはこの時知ったのだった。
「あんなことが出来ちゃうんだ」
「タイミングさえ合えばだけど」
ひかりにとっては凄いことだったが、誠司の口ぶりは普段やってることを話しているだけのような印象だった。
「私あんまりよく知らないけど、テレビで見たことある。なんか手を触れずに人を投げてた」
誠司はちょっと考えるような仕草をして笑顔を見せた。
「その人すごいね。俺触れずに人は投げれないよ」
「じゃあテレビの人ってインチキ?」
「必ずしもそうじゃないかも。だけど少なくとも今まで触れずに人を投げたことも投げられたこともないかな。きっといろいろな人がいるんだよ。うちの道場は接触して技をかける稽古しかしてないけどね」
どら焼きの甘さにちょっと口を、んーと結びながら、ひかりは目の前に座る少年のことをもう少し知りたくなった。
「高木君の怪我が良くなったら、私もちょっとだけ教えてもらってもいいかな?」
甘いどら焼きの食べ終わり際、ほんの少し興味を持ったひかりの口から出た軽いひと言だった。
しかしそのひと言で、誠司は急にもじもじし始めた。
「どうしたの?」
「もちろんいいんだけど……」
誠司は何か想像している様子だった。
「さっきも言ったけど。接触する稽古しかしてなくてその……相当くっつくけど、いいのかな? もちろん変な意味じゃなくて、技によっても違うけど」
相当くっつくと言われ、ひかりの平常心が揺らぎだした。
「そ、そうなの? どうかなー。もしかしてこのぐらいくっつく?」
ひかりは手を胸の前で広げて見せた。
「もう少し……」
誠司はなんだか言いにくそうだ。
「じゃあこれぐらい」
ひかりは掌の間隔をバレーボール一個分ぐらいの幅にして、誠司の様子を窺った。
「もう少しかな……」
「じゃあ…これぐらいでどうかな……」
ひかりはさらに拳一つくらいの間隔に狭めた。
「いや、あの……もう少しだけ……」
「ピッタリくっつきましたけど!」
ひかりは掌をくっつけて動揺を隠さず言った。その時点で平常心はグラグラになっていた。
ひかりは誠司と多分同じイメージを頭の中で想像していた。
「ちょっと考えさせてください」
ひかりは自分から言い出したことだが無理だと判断した。
エアコンの効いた誠司の部屋。ぎこちないながらも二人は学校の話題で談笑していた。
五月蠅かった蝉の声がいつの間にか落ち着いて、窓の外の日差しが弱まった時間帯。
「あのね、高木君」
話を一度切って、ひかりは姿勢を正した。
「まだ夏休み二週間ほどあるけど、私、時々高木君の家に来ていいかな?」
帰る時間が近付いて来た時に言おうと、ひかりが用意していた言葉だった。
「宿題あるよね。まだ全然手も動かせないだろうし、普通に生活できるようになるまでは力になりたいの」
宿題をするという趣旨ではあったが、つまり二人きりでまた会おうという提案だった。
言ってしまってから、ひかりは頬が熱くなってくるのを感じた。
「駄目かな……」
誠司は明らかに動揺していた。意外過ぎるひかりの提案にどう応えていいものか戸惑っている。そんな風にひかりには見えた。
そして誠司の顔も、ひかりと同様に少しずつ紅くなっていった。
「いいのかな……こんなに甘えて……」
誠司はうつむき加減に言葉を絞り出した。少し声が震えている。
「そんなのあたりまえだよ」
遠慮気味になかなか気持ちを言葉に出来ない少年を、ひかりはどうしても手助けしたかった。
「高木君、私に甘えてくれていいんだよ。お父さんもさっき甘えん坊だって。私全然嫌じゃないよ」
「時任さん、もうそれは言わないで」
誠司の顔に恥ずかし気な笑顔が浮かぶ。
そのはにかむ顔を見て、ひかりは今更ながら誠司の目がとても涼し気で、口元は男の子にしては上品な感じだということに気付いた。
写真で見た高木君のお母さんと目と口がそっくり……。
普段男の子のことを間近で意識して見ることの無いひかりには、思いがけず新鮮だった。
「ありがとう時任さん、本当に感謝してます」
「あ、そんな、遠慮なんかしなくていいんだよ。何でも言ってね」
日が傾き、ゆっくりと一日が終わろうとしている。
夏休みはあともう少し、二人の時間を同じ歩幅で進ませてくれそうだった。
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