第1話 目覚めのあと

 瞼の裏からも感じられる明るさに、深い眠りを邪魔された少年はゆっくりと目を開いた。

 少年は混濁した意識の中、まず自分が今どういう状態なのかを把握しようとしていた。

 白い天井。窓から差し込むオレンジ色の夕日が眩しい。

 空調のよく効いた静かすぎるほどの音のない部屋。

 毎朝目を覚ます狭くて少し薄暗い自分の部屋ではなかった。


 何故こんな所に……。


 どこか記憶が曖昧だった。

 固めのベッドから身を起こそうとすると、体のあちこちに痛みが走る。

 左腕に点滴の針が刺さっている。この部屋が病室であることは間違いなかった。

 右腕の肘から指の先端にかけて、ごつい包帯が巻かれている。


「ててっ!」


 動かそうとすると、突き抜ける様な激痛が走る。


 そうかあの時……。


 少年は激痛と共に、あのバスの中でのことを鮮明に思い出した。

 痛みの走る右腕の包帯を見て溜め息をつく。

 筋肉が固まったように全身が硬い。今まで体感したことのない不快な感覚だった。

 どれくらい眠っていたのだろうか。

 やっとの思いで体を起こすと、カーテンの開いた光の差し込む窓の外には、思いのほか綺麗な景色が広がっていた。

 何階の部屋なのだろうか、ずいぶん遠くまで夕日に照らされた街の景色が見渡せる。

 深く息を吸い、吐く。

 少年は一日のうちで一番美しい時間を惜しむように、窓からの景色をしばらくぼんやりと眺めていた。

 そうしてまどろんでいる時だった。


「高木君」


 名前を呼ぶ声。

 ゆっくりと部屋の入口に目を向けると、そこには制服姿の見覚えのある少女が立っていた。

 夕日を集める美しい黒髪、そこにスラリと立っている少女は病室の中でさえ光を放っていた。


「目が覚めたのね。良かった」


 少女の声が上ずる。その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。


時任ときとうさん……どうして……」

「ちょっと待ってて。看護師さん呼んでくる」


 そして少女は足早に病室から出ていった。


 病室から出て行った少女の背中を見送った少年、高木誠司たかぎせいじは思わぬ少女の訪問に呆気に取られていたが、思い出した様に包帯を巻いていない方の手を使って髪を整えだした。

 ごわごわした感じになってまとまりのつかない髪の毛を、何とか見られる程度にと、痛みを忘れて普段気にもしない外見を気にして奮闘した。


 時任ときとうひかり。それが少女の名前だった。

 昨年まで誠司と同じクラスだった同じ高校に通う同級生で、三年生になって違うクラスになり、今はこれといった接点はない。

 二年の時のクラスメートといっても実際殆ど話したこともなく、特にお互い関わり合うこともないまま一年を過ごした。

 誠司が他の男子に紛れてあまり目立たない感じなのに対し、ひかりはそのひときわ垢抜けた容姿や、人を惹きつけるカリスマ性を自然に持ち合わせている、いわば目立つ生徒だった。

 それだけではない。女子陸上部走り幅跳びで県の代表選手に何度も選出され、頻繁に表彰されていたので、学校で時任ひかりの名を知らない者はいないほどだった。

 誠司は病室から走り出て行ったひかりの姿を見ることができて、胸を撫で下ろしていた。


 バスの中での一瞬の包丁を持った男との攻防……。


 誰の者ともつかない叫び声の中、夢中で飛び出し技を極めた感触はあった。

 しかしその後、少女の安否を確認する間もなく、目の前が真っ黒になって動けなくなった。


 良かった……あの子無事だったんだ……。


 誠司は一番気になっていたことを、目覚めてすぐに知れたことに感謝したのだった。


 ひかりが看護師を呼びに行ってすぐに、誠司の父親が病室に駆け込んできた。


「誠司、気が付いたか」


 誠司の父、信一郎の目には涙が浮かんでいた。

 普段は殆ど何物にも動じることの無い、ごつい体格の父が肩を震わせている。

 誠司はそんな父の取り乱した姿を目にし、自分が気を失っていた間にどの様な深刻なことになっていたのかをおぼろげに感じ取った。


 あの時以来だ……。


 かつて誠司は一度だけ、父がこのように泣いているところを見たことがあった。

 それは誠司が中学三年生の時に、心臓の病で長い間入院していた母が亡くなった時だった。

 病院のベッドで息を引き取った母のかたわらで、父は静かに涙を流していた。

 その隣で父よりもたくさん涙を流したことを思い出す。

 あの時以来の涙を見せた父に、心配をかけてしまったことに対する重みが誠司の胸を締め付けた。


「父さん……」

「馬鹿野郎。心配させるな……」


 誠司の声を聴いて、父の顔にやっと安堵の表情が少しだけ浮かんだ。


 母さんごめん。父さんをこんなに心配させてしまって。


 優しかった母に心の中で謝った。

 誠司の頬を一筋の涙が伝った。


 「心配かけてごめんなさい」


 そして父と同じく母の死以来、涙を見せたことがなかった息子を、父は苦しいほどきつく抱きしめたのだった。

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