第61話 9回裏 デウス・エクス・マキナ①
《青海視点》
失点、即、死。
2年と4ヵ月の間不敗だったチームが、この回1点でも獲られれば敗れる。
ただならぬ空気をまとった神宮球場のグラウンド、
眼鏡をかけた青海のもう一人のエースは、ベンチの奥で監督と話をしていた。
「監督、俺のことがそんなに気に食わないですか?」
「そんなことはない、早くマウンドにいってくれ置鮎」
「泡坂のようにピッチングにムラっ気がない、球速で球場を沸かせない。ストライクで真っ向勝負しない。バッティングでマスコミを騒がせない。あいつのように新しい球種を覚えない。俺はいつも同じピッチングで相手を抑える。あいつのピッチングには常に新鮮味がある」
置鮎は自分のユニフォームに貼りつけられた背番号を意識する。『10』。彼は青海高校で一度たりともエースナンバー『1』を身にまとうことがなかった。
「中等部から昇格してきたあいつのほうが、よそからスカウトしてきた俺より大事ですか? あいつより努力してきた俺はかわいくないですか?」
「そんなことはない置鮎!」
「レギュラーでもないのにあのとき不祥事を起こした俺が嫌いですか?」
「違う置鮎、俺はそう思っていない」
「ならどうして久世を2番手に選んだんですか?」
「久世が俺たちに流れを呼びこむと考えたんだ! 結果としてそれは誤りだったかもしれん。しかし――」
「俺なら止められました。絶対に」
「頼む置鮎……今は試合中だ」
「試合中だからです。終わってからでは遅い。結果論に逃げてほしくない。監督は俺を信じてくれますか」
「ああ信じる!」
「でしたら……この回だけじゃない。決着がつかないなら延長12回も、タイブレークの15回も、再試合があるなら9イニングすべて俺に投げさせてください。0を並べ本当のエースが誰なのか、知らしめてみせますから」
「俺は置鮎、おまえにすべてを賭ける。お願いだから青海を勝たせてくれ!!」
堂埜監督の言葉を最後まできかず、置鮎は野球帽を深くかぶりなおし、駆け足でマウンドへむかう。
陽光煌めくグラウンドにその全貌を現した。
「なにかあったんか?」
「いや、思ったことを伝えてきただけだ。なんでもない。いつもどおりのピッチングで抑えよう。相手打者のデータは頭に叩きこんであるが――」
「ここまで対戦してきた俺のほうが身に染みとるで。ボール1球を大事にしよう。比叡は要警戒や」
「わかってる」
やさぐれた顔をした華頂が打席にはいってきた。
投げる。
置鮎は手首から先の筋肉を徹底的に鍛えている。
握力だけではない。ピンチ力、ボールを保持し弾くのに必要な指先の筋力を。ボールに与えられた回転数は他の投手の追随を許さない。初速こそ140㎞/h前後だが、その伸び、キレはバッターの眼には加速していると思うほどだ。
野手のスローイングと見紛うほどの力みがないフォーム。ボールの出所がつかめない
そして『絶対に打たれない』という強い精神力。投手としての気概。
コントロールに必要なのは置鮎曰く経験値、ある程度の球数を投げこまなければボールの制御は身につかない。体への負荷が少ないフォームで投げる置鮎だからこそ経験値を効率よく稼げる。
初球、見上げるようなその長身から繰り出されたボールを、
華頂は目視することすらできない。
(ストレート?)
打者はただキャッチャーの捕球する乾いた音と、置鮎がフォロースルーを終え片足で立っている姿しか眼にすることができない。
気がついたら急所を撃ち抜かれている。いわば最速の
(ミットの位置でやっとわかる。アウトロー)
(最高に打ち気になっていた華頂ですらこうや。初球は)
目視すら能わない。
今はゲーム開始直後の1回ではない。9回のこの土壇場でこの投手を攻略しなければならないのだ。
第2球インハイにストレート、
やっとバットを振ることができた華頂。タイミングも位置もデタラメだ。
呼吸するように必殺する。
「想像以上に見にくいな」とベンチの勢源が苦言する。「気づいたらもうマウンドとホームの間をボールが通過してる感じか……」
追いこまれた華頂は苦しい顔。コントロールが良すぎる。
「これじゃ当ててもらえないじゃないですか」
置鮎が投球モーションにはいった。三塁側の青海応援席を中心に、ある無言の期待の声が広まっていく。
「くる!」「ツーストライクになったらあの変化球が!」
その変化球とは、
置鮎が強豪校の打者たちから空振りを奪いゴロを打たせフライを打たせカウントを稼ぎ打ちとり続けてきたフォークボール、
インコース、腰の高さにくるボールが、打者に近づくにつれ徐々に沈み、そして落ちきる!
空振り三振、歯牙にもかけなかった置鮎は今村の返球を受け、まだ白く穢れのないボールをこね回し、手に馴染ませようとしていた。
3球ともゾーンの四隅に決まった(アウトロー、インハイ、インロー)。キャッチャーミットはピクリとも動かない。
(右対右で平気でインコースにフォークを投げやがった。右投手が投げるフォークは右にスライドしながら落ちていく変化球、通常右対右ではぶつかるから投げにくい。だが置鮎はそのスライドする成分を殺して純粋にまっすぐ落ちるフォークを投げることができる。フォークの投げ分け。逆に左にスライドするフォークも投げるからな)
屋敷は敵に感心していた。
地上最強の魔球を駆使する置鮎にとって、高校野球は通過点にすぎない。
「おまえは俺の獲物だ」
1塁コーチャーにはいった屋敷が言った。
「おまえがか?」
横を向いた置鮎は笑みをこらえられなかった。エースは今から対戦する相手に眼もくれずに屋敷を挑発する。
「バット投げつけてやろうか!?」
バットを振りかざしながら打席に中原がはいる。
くるとわかっていても手が出ないボールがある。
それが置鮎のストレートだ。第1球、アウトローにそれが決まった。
中原はスイングを始めることができない。
(あのコースなら低めに外れるはずだった、なのにゾーンをかすめやがった!! クソ!!)
勢源は語る。
「プロ入りした選手がまず苦戦するのが低めのストレートだ。アマチュアのピッチャーは低めのストレートがホームベースの手前でおじぎをしてボールと判定されるが、プロクラスはそのままストライクゾーンに決まる。ボールにかけられたスピン量が違うんだよ」
置鮎はプロでも指折りのストレートを投げられる。際どいコースに投げられたストレートに対し中原は
5月の練習試合、中原は置鮎の投球に対しなす術がなかった。2打席とも三振を喫している。
「たった3ヶ月じゃ変わらない……のか?」
今村は中原の手にできたマメを見る。
努力は結果として残してこそ。
2球目低めにストレート?
(同じ球種!)
今度こそバットを
当てることができない!! 直球が一転落ちた!!
「ストライクゾーンで勝負するんじゃねぇのかよ!」
「そんなこと約束してないよ」
「――置鮎の投げるボールはストレートとフォークの区別がつかんのだ」
腕を組み見守る屋敷。
「運営には一刻も早くナーフしてもらいたい」
(遅れていた俺を助けてくれたのはあいつらだった。同い年の四人の全国制覇をスタンドで見ているしかなかった俺を救ってくれた。投げている俺自身には客観的にボールの質を確かめる手段がない。俺が投げているときにあいつらがバッターボックスに立ち、ボールのコースごと違いを教えてくれた。同じ球種でも投げるコースによって精度、変化は異なってくる。あいつらのアドヴァイスなしに今の俺はいない)
置鮎が泡坂に比較されているのではない。泡坂が置鮎に比較されているのだ。
プロ球団のスカウトたちに現時点で二人の完成度を問えば、過半数のスカウトが「置鮎は泡坂よりも上」と答えるだろう。
味方の失策による走者一人の準完全試合を達成したのが1年目の春の選抜大会の準決勝。
連続奪三振11と一試合最多奪三振23、同じ試合で二つの記録を更新したのが2年目の夏の選手権のベスト8。
「そうだな。おまえには少し無様に凡退してもらおう」
置鮎は悪い顔をして、今村のサインにうなずいた。
第3球、そのボールはインコース、中途半端な高さから――落ち始める。
(いや、ベースはかすめない。今度こそボールだ)
自信をもって見送った中原、しかし!
審判は拳をつきだし三振とジャッジする。もちろん納得しない中原! だが、
勢源がすかさずベンチから飛び出た! 「中原!! 今のはストライクだ、おとなしく帰ってこい。いいから!!」
無言で審判をにらみつけていた中原は、自分よりもキレた勢源の顔を見て冷静さを取り戻し、とぼとぼと歩いて戻っていく。主審への抗議は松濤へのジャッジに悪影響がある。
「い、今のがストライク?」疑問を呈する夙夜。
「ボール半分外に出ていたように見えるが……それも含めて置鮎の投球術だよ」口を開いたのは桜だ。「もともと置鮎のコントロールが抜群だってことが高校野球界には知れ渡っている。……そのうえで実際に投げるボールがキャッチャーミットが動かないほど制御されてたらそりゃ主審の眼も狂うし、心情的にゾーンから外れたように見えてもストライクにとっちまう。……心理戦で勝ってやがるんだ」
逸乃が続ける。
「主審の眼にも限界がある。広いストライクゾーンを正確にジャッジすることは難しい。キャッチャーが構えたところにこない逆球はストライク(ゾーン)でもボールと判定される。キャッチャーの要求通り投げられない(荒れ球の)ピッチャーはそれだけでストライクと判定されにくいし、コントロールいい置鮎はそれだけで主審と結託できてると言えるね。正直突破口が見えない……」
置鮎の全国一のコマンド力は、機械ではなく人間がジャッジする現行上のルールにメタを張っている。
他のピッチャーよりボール半分広いゾーンで戦える。いわば超絶の狙撃手。
置鮎は中原の背中にこう語りかける。
「一番打っていたときの親父を連れてこい。打撃王も血祭りにあげてやる……」
片城は小声で喋っていた相方の様子を観察していた。桜の眼は虚ろで、何度タオルでぬぐっても汗がひかない。プレー中でもないのに肩で息をしている。
(まるでノックアウト直前にゴングに救われたボクサーです。殴って気合をいれようにもそのまま失神してしまうかもしれない。いずれにせよ10回表は無理ですね)
勢源かアダムがマウンドに上がるしかない。
置鮎は次の対戦相手を見て笑った。
「さぁ勝負しようぜ同胞!」
「誰が同胞よこのロリコン」
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