21

「――?」

 目が覚めた時には、私は珍しく仰向けに寝ていた。

 うつ伏せの姿勢で目を覚ますことの多かった私には、目が覚めて最初に目にした部屋の天井は、ひどく違和感のあるものだった。けれど、その日の私には、何故かそれでいい、

という気がしていた。

……それで、いい。

 私はこれからも、毎日同じようでいて、毎日それぞれ違った日々を過ごして行くのだろう。


「おはようございますー」

 着替えて、台所に向かうと、丁度、同時に起きて来た姉と鉢合わせた。

 「何、真奈美。あなた、目が真っ赤よ?」

 「そういう姉さんだって」

 そう言った私たちは、お互いに目を合わせて、くすくすと笑い合う。

 「……あの人ね、単身赴任から、帰って来るって」

 「義兄さんが?」

 私は、姉の作った味噌汁やおかずを二人で皿によそいながら、そんな言葉を交わし合う。

「一人所帯の、一人ご飯はもう、沢山だって。丁度、タケシがダメになっちゃった時とほぼ同じ頃に単身赴任が決まっちゃってたんだけど、もう、いいかな。私も、あの人と今ならちゃんと向き合える気がするし。妹のあなたにしてしまったように、お互いを傷つけ合ってしまったら、もう、本当に取り返しが付かなくなってしまうから」

 今まで、見たことのなかった、姉の晴れやかな笑顔。

 それを見、私は何だか、すうっと呼吸が楽になるのを感じる。

「姉さん、それじゃ、何だか、私相手なら傷つけてもいいみたいじゃない」

「あら、そんなことは言ってないわよ? それに、あの人とあなたとじゃ、ず太さの『格』が違うんだから?」

「ちょっとお。私だってデリケートなんだから、傷つくんですよ?」

「そうよね、確かにちょっと悪かったわ!」

 私たちはお互い、声を合わせて笑い合う。

「……それで。もう、戻る気は変わらないの?」

 姉が真面目な顔をして、聞いてくる。

「うん。私、ずっと自分が何なのか解らなくて。自分に自信がなくて迷ってたけど。迷いながらでも、一歩ずつ進んでいけばいい、って解ったから。記憶があってもなくても、『私』の選ぶ道は、きっと一つだから。だから、今は自信を持って言えるの。……もう、大丈夫だ、って。私は私の、心の境界線を持って、一日一日を超えて行けばいい、って」

「それじゃ、今日の朝ご飯は、この家で食べる最後のご飯なのね? 感謝しなさいよ? 真奈美、あなた、自炊に戻ったら、私みたいに大根を綺麗に千切れにしたお味噌汁はもう、当分味わえないんだから!」

「そんな、そのくらいで、大きく味噌汁の味は変わらないわよ?!」

「バカね、気持ちでしょ、気持ち」

 私たちはすっかり朝ご飯の支度を終え、食堂で顔を突き合わせて、お互い、向き合う。

「それじゃ、これがホントに最後の、朝食」

「……うん。いただきます」

 私は手を合わせて姉に向かって頭を下げ、朝食に箸をつける。


 私は、自分の中に二つの境界線を持っている。

 一つは、単純に「私」というものの境界線。もう一つは、毎日の連続の中の境界線だ。

 毎日の連続の中の境界線、というのは、眠る前と、眠った後の境界線のことだ。

 眠る前、苦しくて、とても遣り切れない熱い記憶の塊がある。

 焼きゴテを当てられたような「それ」を、私は眠ることで解き放つ。

 記憶は分解し、分散し、壊れてばらばらになる。

 心の境界線は、いつでも私の周りにある。私はそれを呼吸し、人との間に築き、それによって何かを思い出したりする。

……けれど、私はもう、それを自分の弱さの良い訳に使おうとは思わない。

 私は、自分の境界線をどこまでも持ち、同時に、その境界線をどこまでも越えていけるのだから。

 私が、私であるために。

 今日も私は、心の境界線と一緒に、街を歩いていく。

 新しい自分に会える瞬間を少しだけ恐れ、少しだけ期待しながら。


――この青空の下で、私は生きていく。

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心の境界線 水沢朱実 @akemi_mizusawa

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