20
「ただいまー」
「お帰りなさい」
仕事から帰って来た敬子さんを、私は玄関で迎えた。
……今日一日、色々調べて来たのだ。
そして、色々考えて、覚悟をして来たのだ。
「なあに? 怖い顔」
敬子さんは出迎えた私の顔を見て、真っ先にそう、言った。
「敬子さん、お話があります」
「疲れてるのよ。明日か明後日にしてちょうだい」
「日が延びたら、タケシくんの月命日の日からは、益々時間が経っちゃうじゃないですか?」
「な」
敬子さんの顔が驚きに大きく歪んだ。疲れを残し、目の下に隈のできた顔。乱れた髪。
それらの全てが、「それまで」の敬子さんを物語っていた。
「記憶が……戻ったの?」
「いいえ。でも、会社に置き忘れたダイアリーの予定表が教えてくれました。『五月二十五日 甥 タケシ 誕生日』。敬子さん、あなたは私が仕事に明け暮れていた日々にタケシくんと私の、二人の面倒を見てきた。体調の悪さを抱えたまま、私のパワハラの悩みを聞いてくれ、私を心配してくれた」
私は言葉を切り、もう一度息を吸う。
呼吸が苦しかった。空気が、上手く吸えなかった。だが、それでも私は、敬子さんへその言葉の続きを伝えなければならなかった。
「何もなければ、あなたはタケシくんの誕生日を私と、義兄さんで迎える筈だった。けれど、私は事故に遭ってしまった。そして、続いてタケシくんが、あなたが目を離した間に事故に遭ってしまった。私は、あなたに言っていましたね。――じゃあ、義兄さんと姉さん、タケシくんの四人で、誕生日に一緒に家族旅行に行こうね、って。義兄さんが、覚えていました」
幾つもの、尊い約束。
幸せな日々の訪れを信じて、疑わずに交わされたその約束は、二度と還らない。
私は気持ちを吞み込んで、更に敬子さんに言葉を続ける。
「私は、長いこと生死の境目を彷徨っていた。一時は、植物人間の寸前までいった。敬子さん、あなたはそんな私だけじゃなく、私とタケシくん二人をずっとずっと看病してくれた。夜寝る間も惜しんで。タケシくんは、まだ保育園に入る前の幼い子供だったのに」
ぽろりと私の目から涙が零れ落ちた。それはぱたぱた、と下に落ちて、私の頬を濡らしていく。
「過労が重なって、あなたはとうとう倒れた。けれど、あなたが発見されたのは倒れてからずっと経ってからだった。そして、タケシくんはその間に亡くなってしまった」
「――」
敬子さんは、答えない。答えないまま、黙って、私の話すのを見ている。
「私は、病室で意識を取り戻した。けれど、私は記憶を失くしていた。記憶を失くした私には、敬子さん、あなたが誰なのかも、あなたが私の命と引き換えに何を犠牲にしたのかも、何も、解らないままだった」
「――」
「過去を忘れてしまっている私。そして、日常の日々の中でも、あなたの言ったことをたびたび『なかったこと』にしてしまう私が、敬子さん、あなたには許せなかった。だから、あなたはあんなにも私を憎んでいたんですね。私の無自覚が、あなたを粉々に傷つけていたから、だから、あなたはあんなにも、私を受け入れようとしなかったんですね」
これまで私が記憶のないまま、生きて来た無数の日々、日々。
目も眩むような無数の渦の中に放り出されて、私は目眩を覚え、そのまま倒れてしまいそうになる。けれど、それは出来なかった。私には、まだ倒れる前にしなければならないことが残っていた。
「あなたに何が解るの……?」
敬子さんの唇から、そんな、言葉が零れた。それは怒りとなって、迸る。手加減のない、抜身の刃の痛みを感じて、私はまた、涙を一筋零す。
「あなたに何が解るの?! 私は私なりに、妹のあなたが大事だった。小さなタケシと、どちらか一人、なんて到底選べなかった! それなのに。なのに、何であなたはここにこうして生きて呼吸していて、何で、私のタケシは死んでしまったの?!」
「姉さん」
私は泣き崩れる敬子さんの――姉の、肩を抱えて、震える声で囁いた。
「私のために、私を必死に看病してくれて、ありがとう。……本当に、ごめんなさい」
吠えるような、慟哭の叫び。そんな声を発する姉の声が、一層大きくなる。
……それは姉の残した、小さなタケシへの最後の贖罪の叫びだったのだろうか。
私は、姉の身体を抱き続けた。
あんなに高圧的で、否定的だった姉とは思えぬほど、小さくて、細い身体だった。
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