19

 私は、お昼を前にしたオフィスビル街の公園で、後輩の吉田さんを待っていた。

……昨日、パワハラの一件が片付いた後で、彼女が、

「そういえば、先輩、デスクの上にダイアリーが置き忘れてあったんですけど」

 そう、言い出したのだ。あの時は、左程大事とは思えなかったから、後日に回してしまっていた。……けれど、今の私には、そのダイアリーは最も自分に必要なものの一つになってしまっていた。

 ここの所、数日。

 たった数日の間で、私の周りを囲む環境は驚くほど、変化していた。

 それは、私が「自分から動いた」結果、「過去の私」と「現在の私」を結ぶ、数々の細い線を見つけ出した結果だった。

 だからこそ、私は、――私には、考えられなかった。

「私」なら――。

「過去」に積み重ねられた「私」が、「現在(いま)」の私と同じなら、私が、敬子さんとの間に、あんなにも荒んだ人間関係を築くとは思えなかった。

「過去の私」が背中を押してくれた、数々の「私」の心の境界線。

人と私の間に築く私の境界線が今も昔と変わらないのなら、「私」はどれだけ「過去」を忘れたとしても、必ず自分の「真実」の境界線を人との間に取り戻す筈だった。

「あ、大内先輩!」

 声がして、私は、吉田さんが走って来るのに気付いた。彼女は私に向かって、大きく手を振っている。

「吉田さん!」

 私は手を振って、それに応える。

「すいません、遅れちゃいましたか?」

「ううん、大丈夫よ。むしろ、走らせちゃってごめんなさい」

「えー、うわー、私、走り損だったかー!」

 目の前で大きなため息を吐く吉田さんに、私は、思わず苦笑いをしてしまう。

「まあ、でも、わざわざ急いで来てくれてありがとう。……事故の後、こういうものをずっと、見つかるのを待っていたのよ」

 私は、吉田さんから、自分のデスクにあったというダイアリーを受け取りながら、そう答えた。ダイアリーは淡い水色で、背に当たる部分から、紐で出来た二つの栞が別々の場所へと挟まっている。

「ん-、これで、何か手がかりらしいものが掴めればいいんだけど」

 私は一つ目の栞を挟んだページを開いていた。ダイアリーの日付が二月の始めを示している。そこに書き込まれているのは、細かい字の並んだ、過密スケジュールの予定表だ。

 「二月かあ。何か懐かしいなあ。私、その頃はまだ、『あの』部長の下で、バタバタな生活送ってたんだっけ」

 吉田さんが思い出すように言う。そして、今、気が付いたように言った。

 「あれ? 先輩、その二つ目の栞。何でそんな先に予定なんて挟まってんですか?」

 「え? まさか、よ」

 私は何気なく、ダイアリーのページを捲った。ページが風に吹かれ、パラパラ、と自然に捲られていく。

……その、二つ目の栞の挟まっていたページの一点で、私の目は凍り付いた。

『五月二十五日 甥 タケシ 誕生日』

 読み返しても、二度と間違えることのない文字が、そこに横たわっていた。


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