17

家に戻って来た時には、既に夜の七時半を回っていた。

「ただいまー」

「お帰りなさい!」

 帰って来た私を、敬子さんは笑顔で迎えた。

「どうだった? パワハラの件は解決したの?」

「この顔見れば、解りませんか?」

 私は満面の笑顔を浮かべて、敬子さんに語りかける。

「後輩たちが、凄く協力してくれて。それで私、恐かったけど、ちゃんとやれました。部長のパワハラの証拠はしっかり録音出来たし、これで皆も私も、パワハラから解放されると思います」

「そう! それは良かったわ! それでどうなの? ……少しは記憶が戻って来た?」

「え? それが。あはは、まだ、実は全然、で」

 私は苦笑いを浮かべながら、指で頬を掻く。私は気付いていなかった。嬉しげに微笑んでいた敬子さんの笑みがふっと消えたことも、呆然と敬子さんが「何か」を呟いたことも。

「これだけ派手なことをやったんだから、少しは私も何か思い出せるかなあ、って思ってたんですが。……ダメですね、全然、ダメ。私も、いい加減思い出さないと、敬子sンに悪いなあ、って思うんですが」

「……本当に悪い、って思っているの?」

「え?」

 低い声。

 私は敬子さんの顔を見る。いや、見ようとして、突然、私は右の頬に激しい痛みを感じて、後ろに数歩下がった。

……敬子さんが、私の右頬を、張り飛ばしたのだ。

「な。……敬子さん?」

私は片手で右頬を押さえたまま、敬子さんに聞く。

 何がどうなっているのか解らなかった。

……何故、今朝がた、あんなに優しく言葉を尽くしてくれた敬子さんが、こんなことをしてくるのか、到底理解できなかった。

「……あなたは、そうやって、ここの所、ずっと、そうやって!」

 そんな私に、敬子さんが叫んでくる。

「あなたには解らないでしょうね! 『忘れられる』ってことがどんなことなのか! 憎まれても、恨まれても、『覚えておいて欲しい』ことがどんなにあるか! けれど、あなたには解らない! これまでも、これからも、あなたは私の心を踏みにじって、平気で笑えるのよ!」

 敬子さんは叫んだ。絶叫した。その目から幾筋もの涙が溢れていた。感情が、私に牙を剝いていた。

「なに、を」

 私は敬子さんに、訊き返す。

「何で、突然そんなことを言い出すんですか?! あんなに今朝がた、喜んでくれたのに! 私には解りません。……敬子さん、あなたの考えていることが、全く理解できません!」

「だから、あなたはダメなのよ!」

 敬子さんは叫んだ。目から、涙の粒がぼろりと零れた。

「あなたは、もう、忘れてしまって、二度と思い出さないんでしょうね。それなら、それでもいい。私たちはそうやって生きていくだけ。でも、もう二度と私に踏み込まないで。これ以上私に、淡い期待なんて、二度と持たせないで!」

「け、いこ、さん……」

 私は、そう言い捨てて、家の奥へ走っていった敬子さんの後ろ姿を呆然と見た。

 先ほどまでの高揚感はすっかり消え失せていた。

「どうして……」

 ずきずきと生温かく痛む右頬を押さえて、私はただ、その場に立ち尽くしていた。

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