16
夜の六時前。
会社が終業時間を迎える頃。
私は再び、昨日来たばかりの、私の会社近くの十字路まで来ていた。
「先輩!」
聞き覚えのある声がして、向こうから吉田さんが駆け寄って来る。
「準備は出来ました。……後は、先輩と中川部長の到着を待つだけです。」
「中川部長には、もう、時間で呼び出しはしているのね?」
私は昨日話していた、「計画」の内容を吉田さんに聞き直す。
「はい。大丈夫です。中川部長も、『計画』に気付いた様子はありません。今日、『計画』は決行できます」
「そう、それじゃ」
私は吉田さんと顔を見合わせ、走り出す。
向かう所は、会社のオフィスビルの地下駐車場。
そこで、「計画」は万事、準備が整っている筈だった。
「どう?」
「来ました! 隠れて! 先輩」
オフィスビルの地下駐車場。
剥き出しのコンクリートで固められた広い駐車場に、新たな人の気配が加わった。
派手な角張った眼鏡。くちゃくちゃと口の中でガムを噛む仕草。
スーツのポケットに両手を突っ込んで、悠々と現れたその男は、全身から嫌味、という名の嫌悪感を撒き散らしていた。
「こんな所に私を呼び出したのは、君か?!」
その男が、――中川部長が、駐車場の柱から最初に姿を見せた、吉田さんに向かって言い放つ。
「何の用か知らんが、早くしてくれたまえ。私は所用で忙しいんだ」
「いえ。部長を呼び出したのは私ではありません。……先輩です」
「あ?」
品の悪い声でそう言った中川部長の目が、コンクリートの柱から姿を見せた私の方を見て、驚きに見開かれていた。
「なっ?! お前は……っ。吉田君、どういうことだ?!」
「話は、先輩に聞いて下さい」
吉田さんはそう言って、ずっと今まで自分が立っていた場所を私へと譲る。わたしはその譲られた場所に進み出て、真っ直ぐに、中川部長と向き合った。
「お久し振りですね、中川部長」
「なっ……。大内君、君はいつ復帰したんだ?! 今頃はまだ、ずっと病院のベッドで意識不明の筈」
「部長。……部長が何を考えてらっしゃるかは解りませんが、私は元気ですよ。以前もずっと『色々とお世話に』なりましたからね」
「ははあ。大内君、君はあれか? 君、金が欲しくなったんだろう! さしずめ、金に目がくらんで、実際は元気なのに、会社内にまことしやかに『部長のパワハラでの過労自殺』の噂を流し、大勢の社員をたらし込んだ。今日は、その仕上げに来たという訳か? この人気のない駐車場で私を脅して、何の罪もない私から、金を巻き上げる。……そうだろう? そのつもりで、今頃のこのこと、こんな場所にまで私を呼びつけに来たのだろう?!」
中川部長の一言、一言。
それが私に突き刺さり、私を汚していく。
……汚い。そして、醜い。
記憶が戻って来た訳ではなかったけれど、私は、確かにこの醜悪な物体を知っている気がした。その物体に、過去の私が苦しめられ、汚されたのかという思いが、自身の中に広がっていた。
……ううん。
私は心の中で、自分にかぶりを振る。
私はこんなことで、こんな人のために、汚されなんて、絶対しない。
「言葉遣いには気を付けた方がいいですよ、中川部長」
私は、数メートルの距離を挟んで向き合った、中川部長へと、一歩を踏みだした。中川部長が、ひっ?! と声を上げ、私の進んだ距離だけ、後ろに下がる。
「人は、言葉に含まれた『悪意』には敏感に反応するものですからね。部長のように、そんなに悪意を充満された言い方をされると、私も、さすがに、怒らざるを得なくなりそうです」
「は? 何を言う?! 今皿だろう!」
中川部長は勝ち誇ったようにそう言うと、私の方に真っ直ぐに指を突き付ける。
「君だって、私に対して悪意の臭いをぷんぷんさせているじゃないか。金に困った一般市民はこうだから、始末に負えないねえ! さあ、言いたまえ、幾ら欲しい? 十万か? 二十万か? 優しいこの私のことだ、特別に百万までは考えてやろう。君のかかった治療費が幾らか知らんが、君はその金を持って、さっさとこの会社を去るがいい! もし君が今後ものうのうと、この会社に居続ければ……? 私はうっかり口が滑って、君のことを暴露してしまうかもしれないのだぞ?」
「あなたは、……本当に、汚い」
私は嫌悪感に俯きながら、ようやく怒りを抑えて、声を絞り出す。
「そこまでのことを言うからには、余程ご自分に心当たりがおありなんでしょうね?たかだか平社員の私に、百万もの金額を積むと言っているんですから、部長には、その自覚がおありなんでしょう?」
「はっは、何を言う!」
中川部長は哄笑した。高く、笑い転げた。
「君の様な平社員が、過労自殺の噂の中で退職しても、我が社には代わりに就職したいと思っている新入社員が、ゴマンといるのだよ。使い捨て、とはよく言ったものだ。平社員など、使うだけこき使って、潰れたら代わりを補充すればいい。君の代わりなど、何人でもいるのだよ。君が我が社に必要な訳じゃない。我が社に欲しいのは。ただの従順な労働者なのだ!」
「……そう、ですか」
私は、目の前の物体の醜悪な笑い声が弾けるのを見た。
――見届けて、初めて、にやり、と笑いを見せる。
「……だ、そうですよ、皆さん」
私は大きく息を吐いた。
「――」
駐車場のコンクリートの柱の陰のあちこちから、吉田さんの同期の社員たちが姿を現していた。
「……?!」
中川部長は、突然降って湧いた若手社員たちの姿に驚き、パニックになる。
「中川部長、確かにお聞きしましたよ」
そんな中、中川部長から一番距離の近い柱の陰にいた男性社員が、そう言って部長に近付いて来た。彼は片手の中の小さな機械を中川部長に示し、おもむろにボタンを何回か押してみせる。
『平社員など、使うだけこき使って、潰れたら代わりを補充すればいい。君の代わりなど、何人でもいるのだよ。君が我が社に必要な訳じゃない。我が社に欲しいのは、ただの従順な労働者なのだ!』
そこから、さっき言い放ったばかりの中川部長の、はっきりとした声が繰り返された。
「おかげさまで、部長と大内先輩の会話は、全て録音させていただきました。これを我々が会社の上層部に報告すれば。間違いなくあなたは部長の職を追われる。……それは、今ここにいる、若手社員の全員が証人です」
「……な。何を?! お前らは……。ああ?!」
みっともないくらいに取り乱した中川部長。その姿を見詰めながら、若手社員たちは、誰もが呆然とした表情を隠しきれずにいた。
……無理もない。
この会社に勤めるようになってから、彼らの全ては、大なり小なりの違いはあれ、中川部長のパワハラに苦しめられてきたのだ。
「う……。ああ……。終わりだ……。何かも、終わりだ……」
駐車場の床に這いつくばり、そんな声で呻き続ける中川部長。そんな部長の様子を見ながら私は、
「恨むんなら、日頃のご自分のして来たことを恨むんですね」
そう、部長に話しかけていた。
「大丈夫ですよ。私たちは、あなたのような醜悪な真似は、絶対にしませんから。あなたが『二度と同じようなこと』をしない限り、私たちは沈黙を守りましょう。……いい機会じゃないですか? 真っ当な人間として、別の生き方で生き始める、チャンスですよ?」
私はすっかり怯えきっている部長に一抹の憐憫を感じてそう、語りかける。
「大内先輩、もういいですよ!」
そんな私を、若手社員たちの声が引き戻した。駐車場のあちこちにいた、若手社員たち。その社員たちが、それぞれ、私に向かって集まって来る。
「先輩、ありがとうございました! 何てお礼を言っていいか。これで、私たち皆、部長のパワハラから解放されます!」
「えっ。ええと、あのう」
沢山の社員たちの真ん中でもみくちゃにされ、私は言葉を詰まらせる。
「私のおかげ、じゃないよ。皆が協力してくれたから、ここまで出来たんだ。……それに、私。実はまだ、事故の後遺症で、記憶喪失のままなんだ。だから、皆のこと、まだよく解らないの。……ちゃんと、記憶喪失が治ったら、その時にはまた、会社で仲良く一緒に働いてくれる?」
「勿論ですよ!」
私に笑いかける社員たちの、顔、顔、顔。十人はいるだろう、彼ら、彼女らが私を中心に笑っている。それは、それまでの私には考えられない光景だった。
「先輩、約束ですよ! 元気になったら、皆で一杯やりにいきましょう! 皆で奢りますから!」
「ありがとう! 皆、ありがとう……」
最後の方は言葉にならず、私は口元を押さえる。
今頃になって、恐かった、中川部長への恐怖感が戻ってきていた。そんな私を見守る若手社員たちの真ん中で、私は声を震わせて、泣き出していた。
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