15
その、翌日の朝。
「――?」
私は普段通り、自分の部屋のベッドの上で、うつ伏せになった姿勢のまま目を覚ました。
台所には、既に敬子さんの気配があった。
トントントン、と包丁で野菜を切る音。
続いて水の流れる音は、鍋に水を入れた音なのだろうか。
「おはようございます」
私は急いで着替えを済ませると、部屋の前にあったスリッパを履いて、台所の敬子さんの隣に並んだ。
「ふふ。真奈美は昨日からお寝坊さんね」
「……えっ。いえ。それ程でも」
思ってもいなかった優しい言葉に、私は狼狽える。
「丁度よかったわ、手伝いが欲しかったの。……真奈美、左側のコンロで、目玉焼きを作ってくれる?」
「はい! 喜んで!」
フライパンをコンロにかけ、加熱し始める。
そうして私は、味噌汁を作る敬子さんの隣で冷蔵庫から卵を出し、フライパンの上に落とす。ジュッ、という熱い音が弾けた。
「敬子さん。実は、昨日、言おうか言うまいか、迷ってたんですけど」
食堂で顔を突き合わせて、朝食を取りながら、私は敬子さんにそう、切り出していた。
「……私。敬子さんに怒られるかも、って思ってたんですが、実は昨日、勤めていた会社の近くまで行ってみたんです。それで、職場の後輩の子たちに会って。……上司から、自分がパワハラを受けていたんだって、初めて知りました」
「――」
敬子さんは、何も言わない。その敬子さんの前で、私は話を続ける。
「その上司は、今でも、今度は私以外の人にパワハラをしているらしくて。私、決めました。その上司のパワハラを、きちんと解決してきます。……敬子さんは。私が職場で上司に『パワハラに遭っている』ことを知っていたから、会社には私のことを黙っていてくださったんですよね?」
「……あなたが、何回か、私に電話を寄越してきたことがあったわ」
敬子さんは、静かに語りだす。
「あなたは、泣かないで、ぎゅっと自分を堪えた声で、淡々と『事実』だけを伝えて来たけど。あなたは、昔から、一人で抱え込んでしまう所があったから。自分で忘れたり、持て余しながら抱えたり。そうして、最後には一人で、全てを解決してしまうような子だったから。だから、私に愚痴を吐き出してくれた時は嬉しかったわ。何でも、私に出来ることは何でもしてあげたかった。あの頃の私は、それでも自分のことで精一杯だったから、本当に少ししか力になってあげられなかったけれど」
「いいえ」
私は、敬子さんの前で立ち上がり、彼女の目を真っ直ぐに見詰める。
「敬子さんが、私の事故の後に判断を間違えなかったから。……後もう少しで、パワハラのことは片が付きそうなんです。それが終わったら、きっと今晩、それを報告できます。だから、待っていて下さい。私は、私の問題を、皆と一緒に片付けてきますから」
「……そう」
敬子さんは、静かに頷く。
「あなたのやりたいようにやってきなさい。その中に、あなたの『記憶』のヒントがあるのかもしれませんから。……けど、無理をしちゃダメよ? あなたはたった一人の、私の妹なんだから」
「解ってます」
私は敬子さんに、眩しげに微笑む。
「私の、後輩たちが、手伝ってくれるんです。きっと、上手くいきます。私、頑張ってきますから」
「そう」
敬子さんは再び頷く。
「それじゃ、今日は、お互いに大忙しね? いっそのこと、今日は久しぶりにあなたと外食でもしたくなったわ」
「どういう方の付き方をするか、解らないから、何とも言えないんですけど」
私は敬子さんの提案を、驚いたように聞く。
「もし、後輩と一緒にお祝いに飲み会、とかでもなければ、帰って来ます。もし遅かったら、飲み会をしてる、って思って下さい。」
「――」
ふ、と敬子さんが笑った。
「『あなたらしい』わね。臆病のように見えて、大胆で。小さなことに傷付くかと思えば、もっと大きな傷を負うことに、臆せずに進んでいく」
敬子さんが手を伸ばして、顔を突き合わせている私の頭を撫でて来る。
「あなたは『真奈美』だわ。私の大切な、妹。あなたが頑張っているのを、私はずっと覚えてますから。だから、後のことは気にしないで、思い切りやってきなさい」
「……はい」
私と敬子さんは、目を合わせて互いに破顔する。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私は、席を立つ敬子さんを見送る。
その朝の敬子さんは、綺麗だった。
笑みが花のように静かで美しい、本当に綺麗な、私のたった一人の姉妹だった。
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